https://twitter.com/hirofumi21/status/1290891024504512513
ポイントは、「思い通りにコントロールする」という部分です。
これは徹頭徹尾、本人の主観によります。
つまり自分の実感、感じ方の問題。
であれば、「思い通りにコントロールできない状態」に、「思い通りコントロールできている」と同様の実感を得ることはできるかもしれない。
今日は一風変わったそんなお話です。
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ブッダ曰く、「思い通りにならないところに、苦が生まれる」
なぜなら、そこに「執着と欲望」が生まれるからです。
だからこそ、「一切の苦からの解放されたければ、思い通りにならないことを、あるがままに観よ」とブッダは説きました。
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そして、この事実を受け入れるためには、西洋的な考え方のように、自我を起点にしないことが大切です。
自我を起点とし、他者と自己を区別するから、そこに争い(思い通りにならないこと)が生まれるのです。
そもそも、自他の区別などは始めから存在しないのだと理解する。(東洋的な考え方)
縁起や空、自他不ニなど、なかなか理解し難い仏教の概念などを持ち出すまでもなく、すべてはもともと繋がっていることに気づく必要がある。
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話は少し変わりますが、この国のはじまりで「和を以て貴しと為す」と説いたのは、厩戸皇子(聖徳太子)です。
どうしても、現代を生きる僕らからすると、「和を成す」と言われたら、それが「馴れ合い」のように思えてしまい、なんだかネガティブなイメージを抱いてしまいますよね。
でも、実はそれは大きな誤りで、この考え方は超合理的な判断だったのだと思います。
極東にある日本は、遥か昔から、最終的に何でも流れ着く場所でした。
この地で「排除の論理」を持ち出したところで、もうこれ以上逃げる先はない。つまり日本大陸は「世界のどん詰まり」だったわけです。
だからこそ、曖昧にでも構わないからまずは受け入れて、そこに調和を求めていく必要がある。
そのためには、一見すると思い通りにならないことも、あるがままに見て、そこに調和を見出すことが必要だったわけです。
いま僕は、ここにものすごく大きなヒントがあると感じています。
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つまり、冒頭でも述べたとおり、
「思い通りにコントロールする」とは、
「思い通りにいかないことをあるがままに観て、コントロールしようとしない」こと、実はそのことと同義なのではないかと。
思い通りにいかないことも含めて、すべてをあるがままに観ることができる状態に達すれば、それはもはや「全てを思い通りにコントロールできている状態」の境地(主観)と同じ意味を持つわけですから。
だからこそ、その法則性を発見し、理解し、実践していくことに意味がある。
調和の取れている状態を獲得するために、何かを排除しながら恣意的にその幻想を作り出そうとするのではなく、
そもそもこの世界は最初から調和の取れている状態なんだと、その真理を発見していく感覚に近いとも言えるでしょうか。
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ここまで読んでくれた方の中には、「そんなのは諦めの境地にすぎない…!」と思う方もいるかもしれません。
ただ、「私」という人間が世界征服、いや宇宙征服まで可能となり、かつそれを生存中に実現しない限り、本当の意味で「思い通りにコントロールできる」という境地は一生訪れない。もちろん、不老長寿も必要です。さもなければ、一生「苦」から逃れることはできません。
もし、そんなことは不可能だと思えば、今日書いたように自らの考え方を抜本的に見直す必要があるのだと思います。
そんなことを考える今日このごろ。
いつもこのブログを読んでくださっている方にとっても、今日のお話が何かしらの気づきや発見につながってくれたら幸いです。
2020/08/06 10:00