ここ最近よく思うのは、コスパやタイパが無効化された空間やモノ、文化みたいなものをつくり出すことが、今とっても重要だなあということです。

世間の中では、コスパやタイパが優れたものが良いものであると大歓迎されているような状態です。

でも、僕から見ると、それというのは決して抗うことができない大きな波が襲ってきているような状態であって、そんな渦中で自分自身が過ごしていたら、うまく波に乗れていると思っていたとしても、いつの間にか一緒に流されてしまうような気がしてならないのです。

もちろん、この時代に生きている以上、コスパやタイパに無縁で暮らすこと自体は不可能であっても、もっと高台やシェルターなど、そういう場も自分の中に同時に存在させないといけないなあと強く思います。

そのような閉じられた空間や、関係性が別軸で存在していないと、何か大事なものを見失ってしまうなあと日々感じています。

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これは、先日書いたブログの中で語った「希望や依代があるもの」というお話にも、まさにつながる話で。

あの話の中で書いた、ヒラクさんが語る発酵文化や、僕にとってのイケウチオーガニックさんのタオルというのも、まさにこのコスパやタイパが無効化される瞬間であり空間だと感じます。

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で、タイトルから当たり前のように用いているこの「無効化」という状態が、いま実は非常に重要なポイントだなあと思います。

それは具体的には、一体どういうことか?ここからが今日の本題です。

僕は、コスパやタイパが「無効化」された先に、きっとまだ発見されていない確かな「価値」があると思うのです。

これは言い換えると、いま僕らは当たり前のように「ソレ」の価値は既に享受自体はしているんだけれど、ことさらそれに注視することもなく、なんならそれを「無価値」ぐらいに思っているものでもあるはず。

喩えるなら、人間にとって絶対に必要不可欠なんだけれど「空気」や「水」そして「豊かな自然」のように、当たり前過ぎて、逆に意識していないような状態でもあるのかなあと。

そして、その代わりにコスパやタイパのような生産性優位の状況で、より安くて時短になるものが価値があるとされているのが、現代の特殊性です。

でも、今後はそのような価値基準の中でつくられたものが、無限に世の中に供給されていくようになっていく。

それらは限りなくタダに近い値段になっていくことを考えると(今の時代における情報やデータ、コンテンツのように)コスパやタイパが無効化された先に残ったものが、実はこれからの「本当の価値」として再定義される可能性は非常に高いわけです。

でも、僕らはまだソレに価値がないと思ってしまっている。なんなら、無価値かつ煩わしいものだとさえ感じているのかもしれません。

それは、北海道の大自然なんかと一緒です。日本人は全くその価値に気づけず、海外の富裕層にドンドン購入されていってしまっているようなあの話と、とっても近い。

海外の富裕層たちは、もう気がついているわけですよね。次はこの「大自然」のほうに価値が生まれてくるはずだと。

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そのためには、タイパやコスパが一度「無効化」されないといけない。誤解を恐れずにいえば、ある種の加速主義的な発想に近い感覚がここにもあるのかもしれません。

たとえば、少し話は逸れるかもしれませんが、このWasei Salonの中では、ブログがよく読まれているのは本当にすごいことだと思います。

既に世の中的にはオワコンだとされているようなブログのようなものであったとしても、皆さん丁寧書いて、お互いに目を通し合っている印象です。

それはコスパやタイパを重視する世の中では、本当にありえない話なんです。

でも、Wasei Salonの中のように、コスパやタイパが一度無効化されると、むしろひとはこんなにも赤裸々な話をブログの中で書きだすし、自分の物語を他者に伝えたくなるんだと。

先日、心理学者の東畑開人さんがTwitter上で、夏目漱石『こころ』の一文である「私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです」という文章を引用しながら

「まさに心というのはこういう感じだ。自分しか知らない自分なりの物語を、他者と分かち合いたくなるところに、心が発生している。」と語られていましたが、まさにそのようなイメージです。

サロン内に、こころがうまれているなあと本当に思います。

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あとは対話空間における、言い淀みや言葉が詰まる瞬間、また答えが出なくてグルグルと同じところをまわってしまっているような状態、そんなところにもこんなにも価値があるなんて、僕はこのサロンを初めてみるまでは、夢にも思ってもみませんでした。

なんなら、それはインタビューの書き起こしにおける「あー」とか「うーん」とか不要な要素を取る「ケバ取り」みたいなもので、一番最初に排除するべきものだとみなしていたフシさえあります。

でも、実際にこのサロンに参加してくださっている方であれば一様にご理解していただけると思いますが、コスパとタイパが無効化されたこの空間内においては、それにこそ価値があったんだと感じとってもらえているかと思います。

むしろそのような言い淀みやグルグルまわってしまう様子が、「価値」として他者にも伝播していって、他者の感情を揺り動かしていることが本当によく伝わってくる。

そのようなこころのやりとりをみて「あー、こういうことに、ひとは価値を感じるのか!」と僕なんかは本当に膝を打ってしまいます。

これは北海道の見過ごされてきた大自然と、全く一緒なのです。たしかに言われてみると、人間にとってそれは重要なファクターだったな思えるようなこと。

だから、このような発見というのは、人間の中の見落とされてきた大自然と呼んでもいいのかもしれませんね。人間のなかにある真っ白な雪原や、富良野の一面のラベンダー畑のようなものかもしれない。

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また、これはかなり誤解のされやすい話になってしまうかもしれないけれど、そこでは「宗教性」のようなものも必ず重要になってくる。

昨夜、佐々木俊尚さんがVoicyでも告知していた「現代の日本社会において宗教は必要か」というシンポジウムの動画を見たのですが、これが本当にすごい動画でした。


世界平和統一家庭連合の中の信仰心の強い宗教二世の方々と、外部の専門家の方の対話がYouTubeで誰でも観られる状態になっているのですが、これは本当に素晴らしいことだと思います。本来であれば、NHKで配信するべき内容だと思うレベルです。

でも、やっぱりどこかタブーになってしまっている。

で、僕はこの配信を2時間半観続けながら、なぜタブーになっているのかを、ずっと考えてしまいました。

それはきっと、価値基準の問題、世界認識、その物語の交わらなさの問題なんだろうなあと思います。

どれだけ議論をしても、絶対に合意へとつながらないわけです。むしろ議論をすればするほど、信じるもの、その物語の差異のほうが明快に浮き彫りになっていく。

そこで必要なのは「対話」であって、先日も書いたように、そこで無理やり「焦点」を合わせようとしてはいけないはずなのですよね。

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逆に言うと、コスパとタイパがなぜこれほどまでに世の中において「一番重要な価値基準」であるかのごとく鎮座しているのかも、このあたりでハッキリと見えてくる。

なぜなら「より品質が高く、より時間を短縮できて、より安いものに価値がある」となれば、誰もが同じ基準を共有できるからです。

つまり、それは必ず誰が見ても、共通のものさしではかれてしまうわけですよね。

もっと具体的に言うと、それというのは1円単位、1秒単位で判断できて、必ず両者に優劣がつけられて、優勝劣敗がハッキリするのです。

だからここまで、この基準は尊ばれるわけですよね。

でも、その価値基準は、それゆえにとどまることをしらない。

省エネなんかと一緒です。不要な省エネ競争にドンドンつながっていく。それをつくるのがAIになってくれば、より緻密に、それこそ0.1秒単位、0.1円単位で優劣が決まっていく世の中になっていくでしょう。

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だとすれば、そうじゃないものに価値を見出して、北海道の大自然のようなものを、人や、人が集まる社会や共同体の中においても同様に見つけて、早いタイミングからそこに投資をしないといけないなあと思います。

たぶん、それを見出すために用いることができる残り時間というのは、きっとそこまで長くはないはずです。

これが喫緊の課題でもあり、誰から頼まれたわけでもないけれど、それこそが自分自身の役割のようにも思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。