最近『ユダヤ人大富豪の教え』などでも有名な本田健さんの新刊『いま、お金について知っておきたい6つの教え 』を読みました。

この本の中に出てくる中流階級の思い込みの話が、とてもおもしろかったです。

本田健さんは、もう我々には贅沢する権利はない、とハッキリと言い放ちます。

早速本書から、該当箇所を少しだけ引用してみたいと思います。

ほんの一世代前までは、多くの人が外食をする余裕がありませんでした。外食という贅沢は、運がよければ月に 1 回、貧しい家では、年に 1 回程度だったかもしれません。     いま、私たちは、週に 1 回は気軽に外食にいけるような気がしているし、そうしている人も多いでしょう。そうしたければ、「週に何回だって、外食する権利が自分たちにはある」と思い込んでいるのです。     外食や旅行などの贅沢に予算の多くを費やすと、手元のお金が減り、金銭的ストレスが増えることになります。     この問題の核心は、「自分には贅沢する権利があるという感覚」です。     単刀直入に言えば、誰も、あなたにそんな権利をくれたわけではないのです。


この話は、本当にそのとおりですよね。

ただし、現代の特殊性というのは、InstagramやTikTokなどを通じて、より身近に、そして不意に訪れる形で「普通」以上の生活が自分の目に入るからこそ、そこで「なぜ?あの人達だけずるい!私も!」となるわけで。(しかもそれは大抵、同世代です)

そして、僕らはなんでもそんなふうに「平等」や「同じ」にしたがるリベラルの思想も、これまたSNSで過剰に刷り込まれているから、余計にそこに不公平感のようなものを強く抱くわけですよね。

でも、これというのは本当に残念ながら、そんなわけがないんですよ。「同じ」なわけがないのです。

「同じ」じゃないからこそ、同じだとする「べき論」としてのリベラリズムの思想が、若い世代に広く浸透していく逆転現象が、いま生じているなあと思います。

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とはいえ、ここでくれぐれも誤解しないで欲しいことは、それすなわち、すぐに人間的価値がないという話ではないということです。

ここも、本当に強く強調しておきたいポイントです。

本田健さんは、本書の中で以下のように続けています。

    世界中の先進国で中流階級が消滅しつつあるのに、「自分が中流階級で育ったからいまもそうだろう」という幻想が、まだ多くの人に残っているのです。     残念ながら、この話題は人の感情を逆なでするようなところがあって、もし私が政治家だったら、たちまちSNSは、炎上してしまうでしょう。      少ない収入だと、「いい家や基本的なニーズを満たす権利がない」というのは、私たちに、人間的な価値がないという意味ではありません。     実際には収入がないのに、「それぐらいあって当然だ」という感覚で生きていると、ただ単に、月末に残るお金が少なくなってしまいますよ、ということです。


こちらも本当にそのとおりだと感じます。あくまでそれは「お金」の問題に過ぎない。

中流程度の生活ができず、格差が広がるとそれだけで「人間的価値がない」というレッテルを貼られたと誤解するひともいるけれど、決してそんなことはないはずなのです。

そんなのは本当に氷山の一角で、人間的価値はもっともっと他のところに存在し、それ以外にできることもたくさんある。

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この点、僕が、今のようにローカルを頻繁に取材する最初のきっかけとなった島根県・海士町という町のスローガンに「ないものはない」という言葉があります。

これは文字通り「ないものは、ないんだ」と叱咤激励や開き直る意味もありつつ、でも一方で「あるものは、すべてある。何一つ、足りないものはない」という意味合いでもある。

2010年代の前半において、このスローガンに僕が初めて触れたときには、正直ただの強がりだなあぐらいにしか思っていたのだけれども、実際にはそうじゃないんだなと、海士町の人々の暮らしを実際に自分自身で取材してみて、強く実感しました。

足りないと感じるのは、従来的な「普通」や、Instagramなどで見せびらかすような他人の生活と自らの生活を比較するからであって、それゆえに感じてしまうこと。

本当に大事なことは、最初からすべてが目の前に存在している。そこに現代の人々が気づいていないだけ、なんですよね。

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本当に大事なことは、いま自分たちが持っているもの、自分たちに使う権利があるものが何かを正しく見定めて、その持っているカードの切り方を、徹底的に考え抜くことであるはずで。

従来的な「普通」や、見せびらかすことでアテンションを獲得し、それが生業になってしまっているひとたちと、自らの生活と比べてみても意味はない。

これまでの「あたりまえ」や「常識」、「普通」を未だに念頭において、その「普通」を享受できないことに対して文句を言っていてもマジで仕方がないわけです。

そちら側の「権利」が欲しければ、ちゃんとその権利を享受できるような、経済的な戦略や戦術をド真剣に考えないといけないはずですし、

一方で、その権利を獲得する過程において、自らが何かしらの資本主義の嘘や欺瞞のようなものを感じとってしまうのであれば、ちゃんとその戦いの螺旋から降りる勇気も必要です。

どっちの方向性も、自分では一切考えようとはせず、ただひたすらに「私は人権侵害されている」と言って、自らは何も行動をしようとしない姿は、今のリベラル勢の人たちの本当に悪いところだなあと僕は思う。

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もう、昔の中流階級が享受できていたことが「健康で文化的な最低限度の生活」だと思うのは、完全にズレてしまっているような世の中であるはずです。

ただし、企業や学校、地域行政や国家はその真実がわかっていてもなお、そんなことは口が裂けても言えません。

なぜなら、「私たちはそれを提供しますよ」という幻想を見せ続けることによって、その場に彼らは居続けられるような人々でもあるわけですから。

言い換えると、彼らの正統性は、ソレを与えられる(可能性がある)ということで、彼らの地位は保たれているわけでもあるのです。

しかし、現実問題、もう明らかにそれを提供できるだけの能力も資源もどちらもないわけです。それは様々な確度から立証されている事実であって、既に起きてしまった未来とも言える。

それを、なんとか国民にバレないようにバレないようにと、自分たちが生き延びるための税金や補助金が降りてくるように、だましだまし延命治療を施しているような状態です。

「自分たちが、ここにいてもいい存在なんだ」と一般市民を騙し続けることが、彼らの仕事の大部分になってしまっているなあと思います。

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さて、ここまでの話は「従来の普通以下の暮らしを甘んじて受け入れて、残念な暮らしで一生我慢しろ」ということではありません。

そこだけは、くれぐれも誤解しないでいただきたい。

いま目の前にあるものを正しくちゃんと見定めて判断をし、「これからの豊かさのようなものを、しっかりと考えないとダメだよね、それが今の日本のフェーズだ」っていうことをここでは言いたいのです。

まずは、従来の「普通」、そんなテレビや雑誌などで過去に散々刷り込まれてしまった感覚をちゃんとアンインストールしていくことが本当に大事。

何気ない会話の中から、それは何年前の普通?と思わされるようなことが、40〜50代の方々から、飛び出てきて驚くことがある。たぶん本人も無意識に語っていることです。

僕らの親世代が「普通」に実行できていたことを、僕らが実行できない=不幸ではありません。

むしろピンチはチャンスというか、親世代が見落としていたことに気づけるチャンスがあるなとも同時に思います。過ぎ去ったものを、悔やんでいても仕方ない。

次にどう進んでいくのかを、それをしっかりと考えていきたいものです。

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もちろん、「普通」以上のものを獲得しに行こうとする気概は、絶対に大事だと思います。その超え方というか、乗り越え方が、従来とは異なるというだけだとも思います。

これまでのいわゆる「中流」や「普通」を経由しないで、親世代以上のより幸福で納得感のある生き方を、間違いなく僕らは獲得できる。

そのための道筋や方法を、みなさんと一緒に考えていきたい。それが、このWasei Salonという場でもあると僕は真剣に思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。