先日、飲茶さんがシラスで配信されていた「【ガチ書評】東浩紀『訂正する力』について忌憚なく(東浩紀論、読書会の反応)」という配信を見ました。
この動画の内容が、本当に文字通り忌憚なくて、とってもおもしろかった!
3時間を超える有料配信なので、ぜひ本編を直接観てみて欲しいのですが、特に現代の東浩紀さんまでつながる哲学の系譜の話が、めちゃくちゃおもしろかったです。
60年代以降の日本国内の哲学の系譜って、意外とわかりやすく語られている本ってなかなかないなあと思っていて、60年代から2020年代まで繋がる感じが「なるほど、そういうことだったんだ!」という発見が山ほどありました。飲茶さんには、この内容をそのまま1冊の本にまとめて欲しいぐらいです。
で、今日ここで改めて自分の頭でも考えてみたい話はそこではなく、この動画の中で語られていた「良い訂正と、悪い訂正というものがあるのか」という問いについて。
最近、僕がこのブログで書いてきたこととも、大きくリンクする部分があるなと思ったので、改めて少し考えてみたいなと。
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さて、飲茶さんは、東さんが語る「訂正する力」とは、「じつは...だった」と過去を再解釈して、明るい未来を作っていく力であると定義します。
そして、この定義に対立するダメな考えとして、2つ例をあげてくれていました。
まずひとつは「ぶれない力」です。絶対に過去(考え)を変えない「オレは間違っていない!このままいくぜ!」というスタンス。
もうひとつは、リセットする力です。過去をなかったことにして、ゼロから始める「全部まちがっていた!今までのは無駄だった!」というスタンス。
「訂正する力」というのは、この中間であって、要するに「再出発する力」を言うのだと。これは本当にわかりやすい説明だなと思いました。
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そのうえで、じゃあこの「再出発する力」において「良い訂正」と「悪い訂正」があるのかという話なんですが、飲茶さんは、東さんご自身がなんて答えるかはわからないとしつつ、この基準は明確にあると語ります。
それは、「マイノリティ、排除されていた人も、万人が参加できるようにルールを訂正したような場合」だと語るのです。
ここが個人的にとてもハッとさせられたポイントです。
たとえば、子どもたちが鬼ごっこをする中で、ゲームのルールを勝手にどんどん変えていってしまうシーンはわかりやすい。これは『訂正可能性の哲学』の中でも『訂正する力』でも、確かどちらの本でも用いられていた例だと思います。
このときに良い訂正というのは、どんな身体的な特徴であっても、たとえば足が速いとか背が高いとか男女の成長の違いとか、そうやって異なる人間同士でも平等に遊べるようになるようルールを変更することが、そのような場合に当たります。
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ただし、もしこのこのようないわゆる「正しい訂正」に批判があるとすれば、「全員取り入れたら、ゲームが成立しなくね?」という批判はありえると語られていて、これは本当にその通りだなと思いました。
たとえばの例として出されていたのは、サッカーの例。
万人を包摂していくために、万人が参加できるようなルールに変更したサッカーというのは、もはやそれはサッカーと呼べなくなるのではないか。
少なくとも、それは今のサッカーの魅力は、間違いなく失ってしまうと思います。
やっぱりサッカーというスポーツは、ある程度身体的特徴を有する人に有利になるように、もしくは参加できないひとが必ず出てきてしまうものです。
もちろん、たとえばブラインドサッカーのようなものだってあるから一概には言えない。それはそれで、ものすごく素晴らしいスポーツだと思います。
つまり、ここで何が言いたいかといえば「善いルールなんて絶対にわからなくて、ルールを訂正するということは、実は間違ってるっていう可能性をいつだって必ず秘めている」ということなんです。それがどれだけ正しそうだとしても、です。
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で、僕は飲茶さんのこの話を聞いて、だから、その都度に新たな「善い文脈」を生み出していくことが、大事なんだろうなと思ったんですよね。
だって、そもそも「善いルール」なんてものもわかんないんだから。
言い換えると、この「文脈をつなぎ変える」部分が、僕ら人間の最後の役割でもあって、個々人それぞれに求められている部分でもある。
ここが今日一番強く主張したいポイントになります。
たとえばAIは、ルール変更はいくらでも可能であったとしても、それを納得感のある文脈としての「物語」のようなものを紡ぎ出すことはできない。
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この点、東浩紀さんは、とてもおもしろい表現をされていた。以下は東さんが、2023年ごろにツイートされていた内容の一部です。
「ぼくの考えでは、およそアイデンティティなるものは、なにか障害が起きたときに遡行的に構成されるもので、根拠となる外部もそのとき同時に生成する。」
なんだかわかりにくい話だと思われてしまうしれないけれど、意外と単純な話で、この生成のさせ方、繋ぎ変え方に、その繋ぎ変えられる先の根拠となる部分は同時に生成されるよ、ということだと思います。
最初から、確固たるものとして存在するものではない。
僕は、ここにマジックがある、物語の持つ力がきっとここにあるんだろうなと思います。
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その都度、生成されるものだから、それは「空っぽ」であり、メタファーであり、観念であり、概念であり、イデアみたいなものでもありえる。
結局、それは何かは最後まで言えない。
村上春樹作品の中であれば、『騎士団長殺し』の中に出てくる「騎士団長」のような存在だったり、『海辺のカフカ』で言えば「カーネル・サンダース」のような突拍子もない存在だったり、その文脈を作り出すという意味では、同等の存在です。
その場で生成されるから、何が出てくるかは本当にわからない。
でもそれが、僕らを再出発へと導いてくれるんですよね。
そして、これが河合隼雄さんの言う「永遠の同伴者」の話にもダイレクトにつながっていくと思うのです。
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つまり「嘘も方便」ということ…?と思うかもしれません。
でも、それは半分正解で、半分間違っている。
一般的に、嘘も方便という表現が用いられる文脈というのは、師匠のほう、つまり嘘をつく方は導きたい先や、その終着点がはっきりしているということになっている。
でも、本当はそうじゃないんですよね、きっと。
その根拠となるものが、共に生成される瞬間に、自分自身も一緒に立ち会うということだと思います。
何が出てくるかは、導いている側にもわからない。ソレがきっと、相手と同時に”踊る”ということでもあるんだろうなと。
僕らは目の前の相手が踊り続けるための加速度をつけてあげることしかできない。
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この点、僕がとても強く印象に残っている師弟関係の話があります。
それは何かと言えば、内田樹さんと、その内田さんの合気道の師匠である多田先生の対話のシーン。いろいろな書籍の中で紹介されているから読んだことがあるひとも多いと思います。
以下は、内田樹さんのブログに書かれていた同じエピソードからの引用です。
かつて多田先生に「武道家としてまず心すべきことは何でしょう」と訊いたことがある。
そのとき、長時間のインタビューを終えたあと、月窓寺道場の入り口に私たちは立っていたのだが、先生は沓脱ぎに掲げてある木札をすと指さして「脚下照顧」とおっしゃった。
「足元を見ろ、だよ。内田君」
爾来、私は師のこの言葉を座右の銘としている。
多田先生のこの教えは二重の意味で深いと私は思う。
私は先生に「最後に一つだけ」と質問をしたのであるが、それに対して先生は目の前にあるものを指さして応じられたのである。
私はそのときには「たまたま」ぴったりの言葉が書かれている木札の前に私たちは立っていたのだ、おお何という偶然であろう・・・というふうに思っていたのであるが、今となるとそれは違うのではないかと思う。
私が同じ質問を例えば、月窓寺を出て吉祥寺のサンロード商店街を歩きながら先生に向けたら、たぶん先生は違う看板を(例えば「気をつけよう甘い言葉と暗い道」とか)指さして、これまた私の背筋をぴんと伸ばすような言葉をおっしゃったに違いない・・・ということに気づいたからである。
武道は「石火の機」を重んじる。
訊かれたら即答。
その場にあるものをためらうことなく「それ」と指さして、「これだよ」と言わなければならない。
多田先生は大先生や天風先生に師事した時間を通じて、そういう呼吸を体得されたのだと思う。
引用元 http://blog.tatsuru.com/2009/01/13\_1136.html
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これはまるで自分もその場に立ち会ったような実感がある話。「物語」として、とても刺さるものがあるからだと思います。
そしてサロンの中には以前も書いたことがありますが、僕にとっても「脚下照顧」という言葉は、非常に刺さっていた言葉でもあるからなのでしょうね。
このパッと、機を見て、つなぐ力。それは、つなぎかえる力への「信頼」と言い換えてもいいかもしれない。
で、その物語に共感をして「たしかにそうだ、間違いなくそうだ」と考えているのは、自分自身なんだってこことなんですよね。
僕らはそのような信頼を担保にしながら、自らのアイデンティティの拠り所を形成し続けているわけです。
もっと端的に言うと、その担保を頼りに「飛ぶ」ことを決断していると思うのです。
たとえ用心に用心を重ねて、どこまで石橋を叩いてみても、どれほど科学的に証明されていようとも、その科学を担保している根拠でさえ、ある種の「虚構」の上に成り立っているわけだから。
結局、極限まで行き着いたときに、何の物語を信じるか、でしかないわけだから。
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もしこれが悪い方向に行くと「偉いから偉い、権力があるから権力がある」というような話になってしまう。
今の政治家やインフルエンサーが、そうやってなんだか偉そうな顔をしているように。
でも、そうじゃなくて、もっと正しく信頼し合えるためにはどうすればいいのかを、僕らはもっともっと本来は考えられるはずで。
そしてそれは、先人たちからの贈与のバトンによって裏打ちされているものを頼りにして導けるはず。
一方で、あまりに正しい方向に行きすぎると、それこそ冒頭でご紹介したように全員を包摂するような話なる。つまり、それは完全に「ポリコレ」となる。
それだとサッカーの魅力はすべて失われてしまったように、本質までもが奪われてしまう。
圧倒的に正しくはあるのかもしれないけれど、それはもはや、僕らが本当に熱狂したかったサッカーではなくなる。美的快楽的なものも完全に失われる。
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この曖昧で絶妙なライン、そしてこれは自分たちが今この瞬間に立ち会うべくして立ち会っているんだと思える納得感のある物語を立ち上げていくこと、その文脈を繋ぎかえる再出発をする力が、何よりも重要なんだろうなと思います。
繰り返しますが、これはAIにはできないことであって、この文脈の繋ぎ変える力、再出発する力が、これからの人間の仕事になるんだと思います。まさに訂正する力ですよね。
非常に抽象的な話ですが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。