利己的な行為ではなく、利他的な行為が尊ばれる昨今。

「他者を積極的に応援すること」も一般的になりました。

一方で、ひとは誰かの人生を変えたがる生き物。相手の記憶の中に残ることに対して生きがいを感じてしまうようです。

その結果、「私の人生を変えてくれた人」として他者の記憶に留まりたいと願いがち。(学校の先生なんかに多いタイプ)

そしてこの欲求は「利他的な行為」として、社会的にも誉められる行為となっています。

でも、僕はここに大きな罠が潜んでいるように思います。

今日はその理由を2点だけ。

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まず、1点目の理由は非常に簡単で、これも「広義の承認欲求」であり、利己的な行為だと思うからです。

しかも、ちょっとルサンチマン的な発想にも近い。自己実現できなかった親が子供に夢を託すような。

だから、「あのひとに変えてもらった」とさえ気づかれない、そんな「空気のような存在」でありたいと僕は思う。

常に、もっともっと空気のようになるためにはどうすればいいのかを、いつも真剣に考えています。

じゃあ、なぜそんなことを考えるのか。

ここからが、今日の本題となります。

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思うに、贈与の本来あるべき姿って、きっと相手に負債感を負わせないことだと思うのです。

その負債感に意識を向けられてしまったら、きっと贈り主は負けなんです。

なぜなら、贈与を受け取った側の身体が硬直してしまうから。自由な発想が分散していかなくなってしまう。

目の前に存在するコレを「こんなふうに使ってみよう!」っていう無謀で柔軟な発想に辿り着かなくなってしまう。

結果として、受け取った人間の可能性を狭めてしまい、積極的にエラーを起こして「繁殖」していかなくなる。

「遺伝」の概念からしてもきっと、贈与を最初から相手に感じさせることはマイナスなんです。

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どうして人間の子供は、毎回まっさらな状態で生まれてくるようになったのか?そんなことを考えてみたことはありますか。

この問いって、よくよく考えると不思議なんです。

動物の子供のように「本能」を持っていても本当は良かったはず。

にも関わらず、人間の子供は毎回まっさらな状態で生まれてきます。僕はここに理由があるような気がします。

つまり、まっさらな状態の方が、むしろ人類にとって都合がよかったはずなんです。

子供がもう少し「本能的な存在」つまり「周囲の贈与に自覚的な存在」だった場合には、今ほど人類の繁栄はなかったのかもしれない。

逆説的ですが、子供の無邪気で野蛮な行為、具体的には「口に入れてみよう、壊してみよう、汚してみよう」があったから人類は繁殖し続けられてきたのではないかと。

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たとえば、各種伝統芸能に存在する構造的な欠陥なんかを考えれば、わかりやすいかもしれません。

その産業に携わる大多数の人間が、その偉大なる贈与に対しての負債感を感じすぎて、身体が硬直化してしまい、思考停止状態に陥ってしまっていますよね。

それと全く同じことが、人類規模で起きてしまうのだと思います。結果的に、緩やかに衰退していく。

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よって僕は、水や空気、そして「私のこの身体」のように、最初からこの世に存在したものと思わせることを是としたい。

そのほうが、「エラー」が起きて無限に活用される可能性を秘めているから。

そんな可能性に僕は賭けてみたい。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。