「人はどうすればもっと正直に生きられるのか」
こんな答えのない問いを考えるイベントが、昨夜Wasei Salon内で開催されました。
90分間、メンバーの皆さんと対話する中で「正直さとは、お互いに引き出し合うものなのかもしれないなあ」と思いました。
今日は、この気づきをブログにも書き残しておきたいと思います。
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どうしても僕らは、「正直に生きるとは何か」を考えるとき、自分のために、自分ができることばかりを考えてしまいがち。
しかし、そんなふうに考え始めると泥沼にはまってしまいます。
そもそも正直さとは何かと問われたときに、端的に答えることは非常に難しいです。
煩悩を満たし続けることが、果たして正直な生き方なのか。
そうやって傲慢に振る舞うひとは、一見正直そうには見えるけれど、それはただの「わがまま」であり、僕らが求める正直さとは似て非なるもの。
そうすると、煩悩や傲慢さに打ち勝ち、長期的なメリットのために、いま目の前の欲望を回避することが、より一層自分にとっての正直さに繋がっているようにも思えてくる。
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このように、いつも漠然と抑圧されている感覚だけが自己の中に存在するため、「正直さ」というものが確固たるものとして存在していると誤解してしまいがち。
私たちは日々それを発揮できていないだけなのだと。
しかし、「正直に生きる」という言葉一つとっても、「自分にとっての正直さとは何か?」を考え始めると、その判断は意外にとっても難しいものだと気付かされます。
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一方で「他者の正直さ」というのは、とてもダイレクトに伝わってくるもの。
「あぁ、この人はいつも正直で気持ちがいい人だなあ」と感じる人は、誰でもひとりやふたりは頭の中にすぐに思い浮かぶのではないでしょうか。
僕にとっても、「この人は正直だなあ」と思えるひとを頭の中で思い返して考えてみると、
純粋無垢な子供だったり、成熟した老人だったり、仕事仲間に恵まれている友人たちの顔がすぐに浮かんできます。
そして、彼らに共通している点は、家族や同僚など、周囲の人々に恵まれていることが非常に多いです。
つまり、僕らが求める「正直さ」とは本人の能動的なアクション以上に、環境要因が非常に大きいのかもしれないということです。
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そうだとすれば、私たちができることが少しずつ明確になってくる。
すなわち、自分の正直さに固執するのではなく、目の前の誰かが正直で居られる空間を、自らの身体を張ってつくりあげていくこと。
少なくとも「このひとが正直でいられますように」と願い、祈ることは誰にでもできます。
そうすることで、巡りめぐって自己の「正直さ」が自然と引き出されてくるのではないでしょうか。
正直なひとたちに囲まれている中で、あなただけがずっと嘘をついていられるわけがないのですから。
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このように、他者の正直さを引き出す方向に意志を向ければ、次第に周囲の人間関係も変わっていき、「自分の正直さ」も目の前の相手から自然と引き出してもらうことができる。
だからこそ、「正直に生きる」とは、他者の正直さを積極的に受け入れ、それを守り通すという覚悟が最初の起点となり、その結果として引き出し合っていくものなのではないでしょうか。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。
2021/09/03 11:36