以前、シラスの動画の中で哲学者の東浩紀さんが「去年(2025年)やっと平成が終わった。今年(2026年)が令和の始まり」みたいなことを語っていて、なるほどなあと思いました。
同様に、「昭和」という時代の終わりも、1989年ではなく、阪神淡路大震災や、地下鉄サリン事件などがあった1995年が本当の昭和の終わりで、あの年から「平成」が始まり、その後、平成が30年間続いたのだ、と。
このお話は、個人的な経験を踏まえても、もすごく腑に落ちるところがあるなあと思います。
実際、去年のフジテレビ凋落やネット選挙元年、女性総理大臣の誕生などはまさに「平成の終焉」にふさわしい出来事だったように思います。
そして、今年からが本当の令和なんだと思えば、本当にいろんなことが、ここから一気にガラッと変っていきそうです。
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じゃあ具体的には、何がどんなふうに変わっていくのか。
人々の中に起きる大きな変化とは一体何か、それを今日は考えてみたい。
この点、内田樹さんの新刊『老いのレッスン』という本の中に出てきたお話が、とても参考になるなと思っています。
この本の中では、日本には団塊の世代が存在したからこそ、戦後よくも悪くも、ドラスティックに変化はしなかったのだと、書かれてありました。
具体的には、団塊の世代が、10代後半から60代後半までを占めていた半世紀は、社会全体の雰囲気がそれほど大きくは変わらなかったのだ、と。
該当箇所を少し本書から引用してみたいと思います。
この塊が今年で、全員後期高齢者になります。僕たちが姿を消すと、世の中はずいぶん変わると思います。「ある世代集団が塊として集団的に斉一的な行動をする」ということがもうなくなるからです。
(中略)
この「団塊の世代」1000万人が退場するということは、日本の社会集団が「惰性の利かないもの」に変わるということを意味しています。他を圧倒するような巨大な世代集団が存在しない。どの世代集団も社会内でヘゲモニーを持つことができない。どの世代集団もそれぞれ個性的であって、他の世代集団との対話や融合ということにはあまり興味がない。つまり、「支配的な年代集団を持たない社会」がこれから出現することになる。
そういう社会では、相対的にわずかな数的アドバンテージしか持っていない集団が、もののはずみで社会をコントロールするほどの力を持つということが起きます。社会が、わずかな入力の変化が激烈な出力変化をもたらす「複雑系」になるということです。
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これは、確かに言われてみればそのとおりだなと思います。
本当によくも悪くもだけれど、昭和後期から、平成の30年間の歴史を振り返ってみれば、実際にそうだったことは間違いない。
でも、そんな団塊の世代が退場をしたら(つまりその大半が鬼籍に入るか、選挙権を行使できなくなれば)ドラスティックに日本は変わっていく。
それは基本的には良いことじゃないかと若い人であればあるほど思うと思うけれど、一気に重しが外れることと同義なわけです。
内田さんも「惰性が利かないので、いきなり急角度で方向転換する乗り物に感じる危うさがある」と本書の中で書かれていました。
つまり、少しの世論の変化によって、大きな意思決定が自由自在に行われるようになるわけですよね。
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映画『すずめの戸締まり』で要石がハズれて物語が始まるように、ここから10年間のあいだで、いろいろな重しが連鎖的に外れていく。
ここに、いつもの養老さんの 2038年の南海トラフ巨大地震の予言なんかも組み合わせると、本当にあと10年もすれば、日本は今までとは、まったく違う想像もつかなかったような姿にガラッと変わってしまうんだろうなと思います。
そして、それがきっと歴史的に振り返ったときに、「令和」という時代、その時代の象徴のようにもなるのだと思います。
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つまり、日本全体が「なかなか変わらなくて、ヤキモキした時代」から「変わりすぎてハラハラする時代」に一気に急旋回していく。
今のアメリカなんかを観ていても、その感覚は非常にわかりやすい。
そして、すでに高市政権になってから、アメリカを明確に真似し始めましたし、如実に国内でも変化が起き始めてきました。
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さて、ここまで考えてくると、これまでの過去数十年間で、出る杭が尊ばれた時代だった理由もなんとなくわかってくるよなあと思うのです。
なぜなら、なかなか変わらないヤキモキする時代だったから。
そんな社会には、ガス抜きをするための「出る杭」が必要とされていた、そんな必然があったわけですよね。
でも急激に変化するような世の中においては、むしろ「調和的観点」のほうが、より重要になっていくと僕は思うのです。
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最近、僕がよく語っている「ディグりすぎない勇気」の話なんかも、まさにここにつながるなと思っています。
ディグリすぎないことが、なぜ今このタイミングで大事なのか?
ちなみに、ここで言う「ディグる」は、オタク的に深堀りすることもそうですし、極端な自己修練や自己鍛錬、ビジネス規模拡大や天下統一を目指す姿勢や態度などを指しています。
もちろん、自らをいじめ抜いて、自己を高めていく筋トレやマラソンなんかのトレーニングなんかも含まれる。
それは確かに、これまではカッコよかった。大勢に流されない態度なわけですから。
そんな首尾一貫を目指す態度は、憧れの的だったと思います。
でも、きっとこれからはそれだけじゃなくて、もっと調和的態度のほうも大切になる時代だと思うのです。
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言い換えると、これまでと、そして今現在は、自己の首尾一貫を貫いて、自己を追い詰める態度や修行するような姿勢というものは非常に優れているという証ということでもあるし、AIの登場で、そんな修行自体も本当にカンタンになりました。
世間の側も、「多様性」という耳障りのいい言葉を普及させて、体の良い「分断」を後押ししてくれてもいる。もう周囲の都合に合わせる必要なんてない。
自らの熟達だけを追い求めて、世間との調和を捨てて、世捨て人になったって一向に構わない。つまり、厳しい戒律のもとに、好きなだけ修行しちゃうんですよね。
で、本来的にその求道的態度は気持ちがいいことは間違いないのです。どんなに辛くても続けるとランナーズハイのようになる。
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ただ、それだと出る杭になっちゃう。そしてそれが結果として「戦争と反戦」に向かう。
それよりも、現代はもっともっと「愚かさ」のほうが大事。
東浩紀さんの新刊『平和と愚かさ』を読みながら、僕はそんなことを考えました。
で、僕は「愚かさ」って、きっと「調和的観点」のことなのだと思いました。
つまり、ほんとうに大事な姿勢は、その「首尾一貫」的な態度から降りて、スジャータがつくる乳粥を飲んで菩提樹の下で悟る、ブッダみたいなこと。
ブッダが生きた当時の時代の「ディグる」もまさに、徹底的に自己を痛めつけて悟りの境地に到達しようとすることだったわけです。
でも、そこから「ディグリすぎない勇気」を発揮し、その戦いの螺旋から降りて、本来修行者が飲むべきではない乳粥を飲んでしまったのが、ブッダ。
それが、本当の悟りへの第一歩だったという逸話なんだと僕は理解しています。
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繰り返しますが、首尾一貫からの出る杭は、重しがある世の中だから尊ばれることであり態度だったのだと思います。
ガス抜きが必要なくらいに息苦しい停滞気味の世の中になってくれば、そりゃあ、人々はヒトラーのような極端な人物の台頭を求めるはず。
つまり、極端なことを言ってくれるひとに拍手喝采をおくりたくなるわけです。今のインフルエンサーやYouTuberたちと、ほとんど同じ。
でも、その極端なことを語る人間に対しての重しがハズれてしまったとき(つまり憲法改正などが行われたとき)一体何が起きるのかということですよね。
それを、今のタイミングからよくよく考えたい。
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言い換えると、これからやってくる動乱期のこの国で一体何が起きるのか。
この点、鴨長明の『方丈記』などは、ものすごく参考になるなと思う。
動乱期に人々は一体何を求めるのか。鎌倉仏教の勃興は、なぜ起きたのか。
僕は、今からソレを淡々と準備して、丁寧に耕していきたいなと思います。
だってそれは、過去に何度も人類が繰り返し同じように飽きずに体験してきたことだから。今もまた数字やデータとして、”既に起きた未来”となっているわけだから。
昼が続けば夜は必ずやってくるし、晴れが続けば台風や大雪の日もあるように。
そのことに対して過度に悲観的になったり、忌避感を抱いてしまったりすることもなく、そういう世界がやってくることを想定をしながら、それぞれに自己防衛していくほかないんだろうなと思う。
起きた時に”想定外”とか言わずに、淡々と想定して生きていきたい。
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もちろん、人口分布や自然災害以外にも、現在のAIの発展・普及なんかもそう。
それが実際に世の中に遍く普及したタイミングで、ほんとうに求められるものは何かを考えて、僕はソレをつくっていきたい。
たとえば、今から約20年前に、これからネット依存(スマホ依存)が加速することがわかっていたタイミングで、さらにスマホに依存させるようなものをつくっても仕方ないじゃないですか。
確かにビジネスとしては、それで成功するのかもしれない。
でも、それはさらに人々に枯渇感や渇望感を与えてしまうだけ。つまり苦しみを与えるだけ。
喩えるなら、酔っ払って喉が乾いているというひとたちに対して、さらに水分としてのお酒と、塩辛い酒の肴を与えているにすぎないわけで。
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それよりも、一杯のお水。一杯のお茶漬けのほうが本来求められているはずなんです。
酩酊状態の人々が「あー、これがほんとうに求めていた味だった」と思えるような、そんなものをつくりたい。
お茶漬けつながりでいえば、小津安二郎の映画「お茶漬けの味」という作品のなかで、パチンコとお茶漬けの対比が出てきます。
当時はまだパチンコが普及し始めたばかりのころ。今みたいに豪華な台でもないし、中毒性もそれほどない時代。
そんな当時のパチンコを体験した主人公が、以下のようにパチンコを分析的に語るシーンが出てきます。
パチンコもちょいと病み付きになるね。
つまりなんだな、大勢の中にいながら安直にいまわのきわに入れる。
簡単に自分ひとりっきりになれる。そこにあるものは自分と玉だけだ。
世の中の一切のわずらわしさから離れて、パチンとやる。
玉が自分だ。自分が玉だ。純粋の孤独だよ。そこに魅力があるんだな。幸福な孤独感だ。
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この「お茶漬けの味」という映画は、きらびやかな流行を常に追い続けたい良家出身の妻と、牧歌的な暮らしを好む田舎出身の旦那が、ひたすらにすれ違い続けるというとても悲しい物語。
でも、最後の最後、夫婦のすれ違いがお茶漬けを一緒につくって、一緒に食べることによってつながっていくということが描かれてある。
一杯のお茶漬けを通じて、お互いのことをスッとわかり合う瞬間が描かれてあって、相手の関心事に対してお互いに素直に共感し合うシーンが、本当にとっても美しい映画です。
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で、僕は、これこそが抜苦与楽だと思うのですよね。
人々に、これ以上の「苦」を与えても仕方がない。
そのためには、ちゃんと古典のなかにヒントを求めたい。
SNSのアルゴリズムが作り出したAIによるバズに夢中になるのではなく、長い時間軸、そんな歴史のなかで、人の手によって磨かれてきた、バズをちゃんと見に行きたい。
それこそが、これからの時代にも必要で求められる「不易流行」だと思うからです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
