昭和の映画を観ていると、食卓(ちゃぶ台)を囲むシーンが現代以上に描かれています。

そして、昭和の時代には、そのちゃぶ台を囲むシーンでこそ、家族や親族のコミュニケーションが頻繁に行われていたということは、よく語られる話です。

で、最近、寅さんや小津安二郎の映画を観ていて気がついたのですが、そんなちゃぶ台シーンと同じぐらいに、夜寝る前と、朝の身支度シーンにおいて「今日は(明日は)〇〇へ行くから、△△を買ってくる?」みたいな、お互いの買い物を頼み合うシーンが頻発するということです。

これって、個人的には目からウロコが落ちる発見でした。

この気付きを踏まえて、今日は、家族のコミュニケーションとはそもそも何か?について改めて考えてみたいなと思います。

ーーー

まず、今みたいにネット通販が普及していなければ、そりゃあ直接、家族の誰かがお店まで買いに行くしかないわけで。

そして帰ってきた時に、品物を持って帰ってもくるわけだから、そこでまた1コミュニケーションが発生します。

自然と「ありがとう」と「どういたしまして」が循環している。また、その話題を起点というかフックにして、大事なことが語られ合うというシーンも描かれてある。(これは物語的仕掛け)

そう考えると現代の、孤食と通販、つまりUber EatsととAmazonの存在って、ものすごく便利になったようでいて、同時にものすごく世の中からコミュニケーションそれ自体を奪ったんだろうなと思ったんですよね。

そんな自覚は、今の今まで、まるでなかったけれども。

裏を返せば、Uber EatsとAmazonが普及した世界で、というかそんなアプリやサービスがデフォルトのネイティブ世代にとって、まともな家族なんて構築することはそもそも不可能なんじゃないか、とさえ思えてきます。

そして似たような文脈で、小津安二郎の映画を観ていると、ただただオウム返しのように喋り合うような、何の内容もないあの独特なコミュニケーション手法ほど、実はコミュニケーションの本質だったんだとふと気気付きました。

ーーー

この点、たとえば現代では他にも、コミュニケーションが減少するようなウェブサービスってたくさんあるなと思います。

たとえば、夫婦間でも情報共有でSlackとかタイムツリーとか、そういう会話が減る方向性の、サービスを家庭内に持ち込んでしまうことってよくあると思うのです。

でも誤解を恐れずに言えば、相手が共有してくれている情報を忘れた時、サービス内で検索なんかせず、もう一度本人に直接聴けば良い。何度だって聴いても良いはず。

でもきっと、その導入が、終わりの始まりだったんだろうなと思うのです。

ーーー

というか、それを導入した時点で、夫婦というのは、世間が求めるパートナーシップを共に演じるというような「仕事」にしかならない宿命にある。

現代の理想的な夫婦は、それで良いんだという考え方もあると思うし、だからこそ、夫婦を「戦友」みたいな言い方をするのも流行っていて、その流れも至極当然なのだと思います。

「◯◯家」という夫婦、そんな会社経営をしているような状況になるのは、当然のこと。

ーーー

でも、本当はもっともっと、オウム返しをするようなコミュニケーションのほうが、家族には大事だった。

少なくとも、昭和の映画はそれを執拗に描いているなと思います。そして、きっと半分は無意識だと思います。

彼らの日常にとっては、それこそが当たり前だったから、当たり前の日常を描く際に、そのシーンは必然的に含まれてくる。

で、ここで、わかりやすいのは、コミュニケーションを、パケット型とグルーミング型というよく見かけるような考え方だと思います。

具体的には、意味のある情報伝達を直接の目的にするコミュニケーションが「パケット型」であり、意味はないけれどお互いの親密度を確かめ合うために行うコミュニケーションが「グルーミング型」のコミュニケーションだというあの話です。

ーーー

で、またややこしいのですが、そもそもひとつだったコミュニケーションを、この2つに切り分けて、わかりやすくしてしまったことが、また終わりの始まりだったんだろうなとも思うのです。

つまり、ハック思考の罠みたいなものが、まさにここにある。

パケット型は「情報」であり、お互いにそれを求めているんだ、それこそが「中身」であり「本質」なんだと思ったからこそ、その「情報」をより一瞬で共有できるようにしたものが、LINEだったりSlackだったり、タイムツリーだったりするわけです。

なぜなら、そのほうが非同期型であり、対面している必要もなければ、後からの検索だって楽じゃないか、と。

そして実際それはそのとおりで、めちゃくちゃ便利。だからこれほどまでに普及もした。

ーーーー

で、ありとあらゆるパケット型のコミュニケーションを、デジタルサービスに置き換えて、グルーミング型だけを残せば、夫婦や家族はうまくいくだろう、と。

そのほうが言った言わないの諍いなんかもなくなって、家庭に平和が訪れる。

実際、このコミュニケーションの失敗が、昭和的物語の不和を引き起こす直接的な原因や引き金として描かれてありますからね。こちらの話も本当に実際そのとおりなんです。

結果、グルーミング型のコミュニケーションだけが、夫婦たちに良かれと思って残された。

ーーー

でも、もうお気づきだと思うのですが、「いや実際はそうじゃないんだ、パケット型の方にこそ、グルーミング効果が含まれていたことに価値があったんだ!」ということですよね。

このブログの中で、よく例に出すような、音楽のサブスクサービスなんかはわかりやすいと思います。

パケット、つまり1曲毎の楽曲の「情報」こそを価値としていて、それがサブスクで聴き放題にすることによって、ユーザーのペインは解決されると思っていた。

そして実際に、ユーザーには拍手喝采で迎え入れられた。

でも結果として、何が起きたのか。コンテンツだけが無限に手元に届いてしまうようになった。一人で音楽を楽しむようになって、画面の向こうの推し活に一人ひとりが没頭してしまったということですよね。

でももともと僕らは、そのパケット型の情報のやり取りを通じて、そこで生まれる周囲の人々、具体的には学校の友人たちなんかとの、CDの貸し借り何かを通じて友人との仲を深めていた。

そしてその時に立ちあらわれる、共に過ごした時間を担保にした、互いの「唯一無二性」の方に価値を感じていたはずなんです。


ーーー

でも、インターネットを起点にした第三次産業は、それを悪意なく、ドンドンと奪っていってしまった。

「パケット型の情報の共有に関しては、すべて私たちのアプリがサブスクで請け負いましたので、あとは、ご家庭内でグルーミングだけをしてください」というように。

でも、そんなことを言われても、それは家庭内の些末な出来事をすべて女中が引き取ってくれて、あとはベッドだけどうぞ、さあさあ今すぐ寝室へ、みたいな話です。

でもそうなると、あえてこういう言い方しますが、日本人男性が、それで女性とコミュニケーションをとれるわけがないんです。

日本人男性は、イタリア人男性みたいに、いつでもどこでもベタベタできるわけじゃないのだから。

なんなら、これが、現代の夫婦にとってのいちばんの「地獄」の正体なのかもしれません。 

共通の「用事」がないのに、向き合って「さあ、絆を深めるための対話をしましょう」と言われて、会話なんてできるわけがないのです。

それまでの何気ない会話の積み重ねこそが、信頼だったわけだから。

こうやって考えてくると、昔の側室だらけの天皇なんて、本当に辛かっただろうなあと思います。一ミリも羨ましがるような余地がない。

もちろん、日本という社会自体が、それを良しとしない世の中になっていることも大きな原因だと思います。公共の場でイチャイチャすることは恥、となっている文化なのですから。

ーーー

じゃあ、黙って家の中の食卓やソファの上で、妻の愚痴だけを聴けるのかと言えば、それはそれで聴けない。

そんなことは現代人の男性には、苦痛すぎる。

生産性がないと感じるからです。タイパが悪すぎると感じてしまう。そしてすぐに解決策を提示してしまい、それもまた不和の原因になる。

そうなったら、もう夫婦仲が冷え込むのは当然だよねと思います。

ーーー

たとえば一昔前は、映画を観るとしても、レンタルDVDを借りにいかなければいけなかった。

わざわざ寒空の下、部屋着の上に着丈の長いコートだけを羽織って「これで部屋着だってバレないね!」って言い合いながら、最寄りのTSUTAYAに借りに行くこと。

そして、その帰り道にコンビニに寄ること、寒いねっていいながら、肉まん分け合うこと、あれこそがコミュニケーションだったでしょう、ということです。

またそういう話が、Jポップの歌詞の中でも、散々に歌われているわけだから。

ーーー

逆に、ベッドの中の出来事なんて決して歌わない。日本人は、ずっとその前後の歌しか、歌わないわけです。

それを生々しく描くような、海外文学のような素養のもとで描かれている村上春樹の小説は、日本的な観点だけで言えば、すべてが下世話な話になってしまう。官能小説呼ばわれしてしまうのが、この国なわけですよね。

そして、あのTSUTAYAの帰り道だったら、彼女や奥さんの愚痴も、まあまあ聴けたと思います。聴けたというか、聴き流せた。

同じ方向を向いて、目的ある行動に向けて、歩いている最中だから。愚痴は向き合って、話すようなことじゃない。

ーーー

僕たちが本当に求めていたのは、実は情報そのものではなく、その「やり取り」であり小津安二郎の映画で描かれているようなオウム返しのプロセスそのものだったのかもしれません。

でも今、デジタル化によって便利になった一方で、何か大切なものを失ってしまった。

では、本来の日本的なコミュニケーションとは一体何だったのか。

その答えを、明日の後編のブログで探っていきたいと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。