昨日のブログの中でもご紹介した、内田樹さんと三砂ちづるさんの対談本『身体知』。


この本を読んでいて、「共同体」について考えるうえで非常に重要なことが語られてありました。

それがどんな話だったのかと言えば、「プライバシーの尊重」のお話です。今日はこのお話を、ブログの中でも紹介してみたいと思います。

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僕らは普段「プライバシーを尊重する」という話になると、どうしても個室でドアを閉めたり鍵をかけたり、物理的な距離をとることばかりを想像してしまいがち。

もしくは、実際にお互いのプライバシーを守るためのルールや制度、禁止事項を定めて、お互いに侵食し合わないように、問題を未然に防ごうとすることが、現代社会の特徴だと思います。

しかし、本書の中で内田さんは、プライバシーの本質はそれだけではないと語っています。

その部分が僕にとって非常に印象深く、目からウロコのような発見でした。

さっそく以下で、本書から少し引用してみたいと思います。

公私の別というのは、ドアが閉まっているとか施錠してあるとかいう物理的な条件じゃないと思うんです。そういう空間の問題じゃなくて、人間関係の中でのモードの切り替えのことだと思うんです。狭いところにいっしょに暮らしていて、隔てるものが一枚で音はまる聞こえなんだけれども、襖一枚を閉めることによって「隣の音は聞こえない」というふりをする。聞こえないかのようにふるまう。プライバシーの尊重というのは、そういうことだと思うんですよ。


僕はこの言葉を読んだとき、本当にまさにその通りだなあと膝を打ちました。

これは単なる「無関心」や「見て見ぬふり」とは異なって、「相手にとっての居心地よい空間を守るための自らの能動的で、積極的な態度であり行為」なわけですよね。

いわゆる「何もしないことを全力でする。作為としての無作為」なんかにも非常に近い。

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共同体やコミュニティを築くためには、「踏み込まない配慮」という目に見えない心の動きや態度が欠かせないわけで、これもまさにそれぞれの「受け取り方の問題」だなあと思ったわけです。

しかし現代社会は、最初でも述べたように、どうしても物理的な現実の壁のほうを分厚く高くしてしまいがち。

それでプライバシーが保たれたと思う。でもむしろ、それがあるからこそ、それがない場面ではひどくお互いに対立し合うということも起きてしまうわけですよね。

まさか自分が見えていないふり、聞こえていないふりをするものだと思ってもみないわけです。

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で、ときどき地方の古民家宿とかに行くと、本当に驚かされます。

お互いの生活音が驚くほどに筒抜けだったりする。

でもそのことによって、一緒にその空間に訪れている人たちに対して、慮る気持ちなんかも自然と湧き出てくる。

聞こえていても聞こえない、見えていても見えていないフリをする。そうすると、そこに共同性なんかも自然と立ち上がってくるなあと思います。

Wasei Salonの合宿企画なんかは、これを実際に体験できるのがいつも素晴らしいことだなあと思っています。

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で、Wasei Salonのオンライン上においても、実際にこのような経験をみなさん普段から体験したことがあるかと思います。

当然、オンラインでは、物理的な襖のようなものが存在するわけではありません。

でも、メンバー同士がそれぞれの「見えているけど見えていないふりをする」という比喩的な襖を自分の中に持つことで、相手への配慮や気遣いが生まれているなと感じています。

具体的には、相手の投稿を読んでも、あえて言及しないでスルーをする。明らかに気になることでも、あえて問い詰めたりはしない。

見えてしまった情報なんかも「見なかったこと」にする態度など、そういうささやかな心配りをいくつも実際にしていると思うんですよね。

そういうお互いの配慮が、Wasei Salonの居心地の良さを担保していることは間違いないだろうなあと思いますし、それを日々慮ってくれているみなさんには本当に感謝でしかないです。

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で、本書の中では、また別の文脈において、「衛生的である」ことを優先して、お互いにお酒を酌み交わすことがなくなった話も語られてありました。

昔は、誰かが酒の席に来ると、とりあえず自分の杯を差し出して「ま、一献」と同じ杯でお酒を回し飲んでいた、と。大河ドラマなどで、よく見かけるシーンですよね。

でも、今はこれが非衛生的だというので、もう誰もやらなくなった。

酒とか煙とか「分割しえないもの」を共有し合うというのは、本来は共同体を立ち上げる時の伝統的な儀礼だと内田さんは語ります。

こちらも「共同性」という文脈を考えるうえで、とても大事な視点だなと思います。

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で、内田さんは「それは酒や煙草、液体や気体が、私有財産で囲い込まれた個の壁に隙間を開くからなんですよ」と語ります。

でも、今の世の中の「衛生的」というのは、言い換えると「異物は俺のエリアに入ってくるな」ということでしょう?と。

これもなんだかとても刺さる話だなと感じます。

以下で、再び本書から引用してみたいと思います。

私のものでもないし、あなたのものでもない「中間的な領域」にこそ豊かなものがあるということを誰もアナウンスしない。私も理解できないし、あなたにも理解できないような、どちらにも属さない「中間的な言葉」や、まだメッセージになっていない音声こそが共同体を基礎づけるということを誰もきちんと教えない。むしろ、そういうどっちつかずのものを不快であるから排除したいと感じるような感受性だけが肥大している。ものすごく危険なことだと思うのです。


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で、少し話が逸れるのですが、最近僕が見かけてネット上のまとめ記事でとても驚いたのは、「上司から異性の部下に対して、バスタオルをプレゼントで贈ることも、パワハラになる」というお話です。

これも、その理由としてはバスタオルは相手のプライベートな空間に対して侵食しているように感じられる行為だから、だそうです。


言いたいことはとてもよくわかるけれど、まさにこの危機感にダイレクトに当てはまる話だなあと思います。

かつては「気遣い」や「親密さ」を表現するための贈り物が、今ではむしろ「押し付け」や「領域の侵害」と感じられるようになっている。

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今は、社会がどんどん物理的にも精神的にも「衛生的」になることを過度に求め合い、相手との物理的な距離を明確にし、ルールや法律でその境界を固め、曖昧さを許容しない、そんな風潮がグイグイと加速しています。

そうすると、人々は他者を尊重するための感性や気遣いなんかも同時に失って、相手との関係性を柔軟に調整する能力を失っていく。

結果として「善意の贈り物」でさえ「パワハラ」になり得るという状況も生まれてくるわけですよね。

でも、だからといって、こちらの常識や善意を押し付けることは、パワハラにあたるわけで。

既に世の中の常識は大きく変わっているわけだから、粛々と自らの慣習も変えていかないと、ただただ空気が読めないひとになってしまう。

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もちろん人には一定のプライバシーが必要だから、そこに襖一枚を立てる必要はあって、なんでも筒抜けになれば良いわけじゃない。

でも、その襖はやっぱり、それを運用する人間側のプライバシーを配慮する心があって初めて、成立するものだなあと思うのです。

逆に、今のXを筆頭に、その他の公共空間というのは、基本的に書かれていないルールは全部ハックしてもいいし、そうじゃなければルールや法律など物理的に規制しろ、という話になる。

そして、そのルールに反している人間は、とことん叩き潰しても良いという認知であって、そのルール違反を理由に日々言い争っているような状態です。

でも、それではうまくいかないし、共同性が立ち上がっていかないことは、今日の話を踏まえると明らかだと思います。

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僕自身は、このWasei Salonを始めてから「個人には個人の事情がある」ということが痛いほどよくわかったし、そのうえで、襖一枚隔てて、見えているけれど、見えていないフリをする経験を多数してきた。

そうすることが、一番のケア的な態度であることも、身を持って体験することができました。

だとすれば、そのうえで次の時代にあった、そんな曖昧な境界線を、どうやって再構築していくのかを考えたい。

もう内田さんが語るような昔の風習のように、襖一枚だけで区切られた空間を共にしたり、酒や煙を酌み交わしたりすることはできないわけだから。

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そこで共同性までが失われてしまっては本末転倒であって、余計に分断は広がるばかり。

このプライバシーの尊重のようなものを、ひとつの物理的空間だけではなくて、オンライン上でも再構築できないものなのか。

仕組みや道具ではなく、最終的にはそこに集う人々の「受け取り合い方」の問題だと思うので、その「受け取る態度」を受け継げるように、理想的な形をみなさんと一緒に探っていきたい。

今日のこの「プライバシーの尊重」のお話は、ぜひともみんなで共有しておきたい話だなと思ったので、このブログにも書き残しておきました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。