「アテンションからエンゲージメントへ」という話が最近よく語られるようになってきた気がしています。

コミュニティ文脈もそのひとつですよね。あとは、いわゆる接客業においても、どれぐらい常連さんを生み出していくのか、みたいな話もそう。

SNSを中心に多くのアテンションを集めて集客することが完全に飽和状態の中、お客様や読者、もしくはフォロワーさんと「エンゲージメントを、どうやって太くしていくのか?」という問いが、より一層重要視されるようになってきています。

でも、その問いは、半分は正解で半分は間違っているんじゃないかと僕は思っています。

じゃあ、一体自分はどのように考えているのか。

今日はそのあたりについて、しっかりと自分なりの意見を語ってみたいなと思います。

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この点、確かに日に日にアテンションよりもエンゲージメントは大事になってきている、それは間違いないと思っています。

しかし、そのエンゲージメントというのは、アテンションと同じような感覚で増やしていくのではなくて、もっと網の目のように広げていって、多少意味合いは違えども、きっと「セーフティネット」のように広げるべきだと思うんですよね。

具体的には、「大切にしたいもの」が近しい人間同士で集い、そこに確かなスクラムを組めるかどうか。

そして、きっとここに「コミュニティ」の価値があるんだろうなあと。

言うなれば、アテンションは一人で稼ぐものだけれど、エンゲージメントはみんなで稼ぎ構築するものなんだ、ということですよね。

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では、なぜそのように考えるのか。

きっとそのほうがエンゲージメントというのは、本質的には、健全に機能すると思うからです。

エンゲージメントにおいて、一つのノードにおけるそのつながりを太くしようとすると、どこかで必ず支障をきたしてしまうよなと思っています。

それは愛情の裏返しみたいなものにも結びつきやすいですからね。いつの間にか、恨みや呪いみたいなものにも変質しやすい。

「ケアをしすぎるのは逆に良くない」という話にもとてもよく似ている。

たとえば夫婦なんて太いエンゲージメントの最たる例ではあるけれど、多分この世でお互いを憎しみ呪い合っているのも夫婦であるはずで、それを強く物語っていると思います。

そうなってくると、あくまで「場」としてのケアであるべきで、一対一でないほうがいいと思います。

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だから、問題は、どうやってコミュニティのような場として集団の中でのエンゲージメントにおける網の目状に広げていけるかが問題になる。

言い換えると、太い一本と同じぐらいの支える力を保持した、その複数の「弱いつながり」を持たせるのか、ということだと思うんですよね。

これは先日コミュニティラジオの中で語られていた話ともつながっていて、結果をだしている人かどうかという基準ではなく、同じコミュニティ同士の人間の話に対して、素直に相手の話を聴いてみたいと思えるかどうかが、きっと重要になってくる。

そのためには、テーマやコンテキストでつながらないようにすることって、ものすごく大事だなあと思うんです。

もっともっと、姿勢や態度でつながっていくこと。聴いてくれるから、自分も聴こう、そのお互いの「お先にどうぞ」の精神が大事。

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そもそも、人々が作り出す共同体というのは、基本的には「持ち出し」なんですよね。

何かをテイクしたくて人々が集まってしまうと、うまくまわっていかないのがコミュニティだと思います。

そして、「持ち出し」の精神のもとにおいては、フリーライダーも必ず一定数出てしまう。

この点、過去に何度もご紹介している『宗教のクセ』という本において、内田樹さんがこのあたりの話を、本当にわかりやすく語ってくれていたので、以下で少し引用してみたいと思います。

共同体というのは基本的に「持ち出し」なんです。もちろん、自分は懐手をしたままで、公共から多めに取る「フリーライダー」はいます。どんな組織を作っても必ず一定数の「フリーライダー」は発生します。だから、「一人のフリーライダーもいない共同体」というものを作ろうとしても、それは無理なんです。それをめざしたら、「共同体に提供した分」と「共同体から受け取った分」について細かい出納帳をつけないといけないし、その作業に意味があると思えるのは「収支とんとん」共同体が理想だという考えが無意識のうちに植え付けられているからです。


これは本当にそのとおりですよね。

コミュニティ運営をしようとすると、公平性の原理だったり、ルールをどんどん厳しくする方向へと向かってしまう。

そうじゃなくて、コミュニティは「持ち出し」であることの自覚をどれぐらい持てるか、それを理解している人たちにどれぐらい集まってもらえるかどうかが肝だと思うんです。

言い換えると、相手に対して有益なことを、自ら率先して提供しようとすること。

もちろん、ここで言う有益とはお金や時間、情報などわかりやすいものに限らずに、ひとりひとりが持っている思いやりや、親切心みたいなものでも、一向に構わない。

まわりの人たちが居やすい場にするために、自分が持てるものを提供し、空間それ自体を良くしていきたいという気持ちでもって、全員が「手入れの思想」で関わってくれていれば、原理的にはその空間の中にゴミが落ちていたり、カオスになることはありえないわけですから。

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とはいえ、ここまで読んでくださった方々の大半は「誰がそんな持ち出しをしようと思うのか、贈与をしようと思うのか」と疑問に思うはずなんです。

内田樹さんは本書の中で以下のように続けています。

ここも本当に大事な視点だなあと思っています。

その贈与を動機づけるのは「自分はこの共同体に『借り』があるから、それを返済する義務がある」という共同体幻想なんです。自分が先人から受け取ってきた知恵や技術や制度がある。自分はそれをすでに豊かに享受してきた。だから、それを豊かなままに次の世代に「パス」することが共同体成員としての自分の義務である。自分はすでにコモンの富を贈与されてきた。だから、反対給付義務がある。メンバーがそういうふうに考えられる組織だけが、持続可能な相互扶助共同体になることができる。


つまり、お互いに健全な負債感を持ち合っているということ。

最初に参加したときに、聴いてもらえた、信用してもらえた、先に与えてもらえたから、全員が常にその借りを返そうと、自分のできる無理のない範囲で持ち出しを行っていく。

そして、より大きな負債に対しての自覚がそこに新たに生まれてくる。

この点、受け取ったもの、贈与されたものに対しての自覚って基本的には芋づる式に想起されるものだと思うんです。

その一つ目を喚起することが、めちゃくちゃ大事だと思っています。

さらにそれを決して押し付けがましくもなく、単純にそのほうが居心地が良かったという実体験もって、他でもない私の実感値として感じてもらうこと。

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僕は最近つくづく思うのですが、そうやって自らが多少「持ち出し」をしている空間に関与しているほうが、実は居心地が良くなると思っています。人類の歴史の中の、大きな流れの中に自己を位置づけることができるようになるから。

一方で「いかにテイクできるか」や「いかにギブを免れるか」そのような一見賢そうに思えるムーブで関わっているコミュニティというのは、別に楽しくもなんともないんですよね。

選挙が近くなると、インセンティブとペナルティによって、有権者に対して訴えかけようとしている候補者が増えるけれど、経済合理的に生きている人間像自体が幻想であって。

実際にはそうじゃないんだ、それは根本的に間違っているなと僕は思ってしまいます。

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理想は、全員が、次のひとにちょっとずつ恩送りをし合っているような状態。

あまりに多くをズドンと相手に提供しすぎて、それが適切に返ってこないからこそ、人はイライラするし、ネガティブな感情も浮上してくるわけだから。

冒頭で書いた、夫婦なんてその最たる例です。

場の全体に対して全員が少しずつ贈与して、そして少しずつ違う角度から自分にも返ってくる、結果的に一人に集まる総量は変わらないという状態がとても大事になってくるし、それが一番持続可能な状態だと僕も思います。

そのうえで、自分がちょっとだけ「持ち出し」が多い状態がきっと、全員にとって居心地の良い空間になるんだろうなあと。

とはいえ、ここで注意が必要なのは、あまりそれが大きく広がりすぎて網の目が複雑過ぎると、今度は逆に無効力感を感じ取ってしまう。

貢献感も感じられなくなる。砂漠に水をまく感じになってしまう。

ちょうどいい人数感やその塩梅がとても大事になってくるのだろうなあと。

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その一本ずつのエンゲージメントのノードが毛細血管のように広がり、徐々に太くなって堅牢になっていくイメージ。どこかの特定の線を太くするわけじゃない。

で、それぞれの弱いつながりに対して「価値」を見出せるようになるから、そこでトークンのようなものにも、結果的に意味が出てくる。それは、血管と血液のような関係性だから。

なぜAI時代には、トークンとコミュニティなのか、の答えもきっとここにある。

コミュニティ内での貢献度合いや持ち出しに対するコール&レスポンスをトークンで表現することで、目に見えにくい「持ち出し」の行為も可視化し、互いに呼応することできるようにもなる。

結果として、より血液が流れやすくなるという形になるし、ソレが循環し続ける構図に対して自覚的になれるわけですよね。

であれば、今から淡々と網の目状のつながりによるエンゲージメント構造を目指して、ひとりひとりの気持ちの良い「持ち出し」によって構築される、居心地の良い空間を、まずは率先的につくっていくことが何よりも大事なんだろうなあと思います。

いつものこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。