Podcast番組「なんでやってんねやろ?」の中で、気づけばリスナーさんからの「お便り」がたくさん増えていて、とてもありがたいと同時に、本当に羨ましいなあと思う。

両企業ともに、ものすごく愛されていることが伝わってくる。

特に、素晴らしいなあと思うのは、両企業の社員のみなさんや、アルバイトのみなさんからも、お便りが届いていること。

出演者の方々は、うちわ感みたいなものを気にしていて、恥ずかしがっていることも多いのですが、僕はこれが本当に素晴らしいことだなと思うんですよね。

企業として、だけではなく、コミュニティとしても成功している証ですから。

一般的な職場なら、自分のノルマだけこなせば良いということで、代表が出ているラジオなんてほとんど聞かないと思います。

でもこのPodcast番組は、社内のひとたちにもしっかりと届いている。インナーブランディングみたいなカタカナはあまり使いたくないですが、最初から聴いてもらえる関係値を築けていることが本当に素晴らしいなあと思います。

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で、これを受けて、自分のVoicyの中でもお便りを募集して、お便り紹介コーナーつくろうかなと真剣に考えてしまったほどです。

そんなことを考えているときに、欲しいのは「コメント」じゃなくて「お便り」なんだと思いました。

そして、Voicyにはコメント欄はあるのですが、お便りフォームはない。僕は、Voicyのコメント欄にくるコメントは別に求めていない。

どっちも一緒だろ、って思われるかもしれないけれど、これは全くの別物だと思っています。ここは雲泥の差がある。

じゃあ一体何が違うのか、やっとここからが今日の本題で、コメントとお便りの違いについて、今日はこのブログの中で考えてみたいなあと。

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思うに、コメントは、ヤフコメに代表されるように、別に書き手に対しての敬意なんてなくてもよくて、殆どが自己本位に書かれる場合が多いように思います。

YouTubeのコメント欄なんかもそうですよね。単純にコンテンツに対する感想が書かれるだけ。もちろん、Twitterのリプライや引用ポストなんかもそう。

あとは、Googleマップのお店につけられるコメント欄もそう。匿名で書くことが当たり前の口コミ欄もまた然り。

基本的に、自分の話しかしない。それは大体の場合、連想ゲームになりがちで、心理学の転移みたいな状態が起こる。

つまり、コンテンツを見て自分の中に湧き上がった感情や思考を、コンテンツにそのまま投影して、そのまま書き込んでいるだけなんです。

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基本的に、コメントはそんな「独り言」なんです。他人に見られても構わない独り言を書いているつもり。

でも、受け取る側といえば、ちゃんと通知が飛んでくるから「なんて失礼な!無礼だ!」と感じてしまう。

相手に直接言わないことを、相手の目に入るところで書くのは間違っていると思ってしまうんです。

確かに、その気持ちも痛いほどわかる。でも、書いた側からすれば「いや、これはコメントだから、つぶやきだから」ということなんだと思います。

あくまでコンテンツの内容に対して言っているのであって、特定の誰かに向けて言っているわけじゃない。文字通り、コンテンツの中身に対する”コメント”なんです。

この発信者とコメントの書き込み主の対立は、どこまでいっても平行線をたどってしまう。

受け取る側は自分に向けられて言われている、つまり、「お便り」的な受け取り方をしてしまっているんです。ここに大きなギャップが生まれるんですね。

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じゃあ、お便りとは一体何か。

相手が読むことを前提に、「宛先」が明確で、人や場や空間や番組など、何か他者が大事にしているものに対して送られるもの。

お便りには、直接本人に言うこと以外は言わない。だって、お便りなんだから。

実際に書くかどうかは別としても「拝啓」と「敬具」的なスタンスがそこにあるかどうか。つまり「つつしんで申し上げる」という態度があるかどうか。これは大きな違いです。

逆に言えば、相手に対しての敬意がなければ、きっと「お便り」なんて書かなくて。つまり、対話的態度がそこにはある。

そして、基本的に重たい。重たいから避けがち。でも、お便りであることの意味ってやっぱりあると思う。

相手のコメント欄に、ラブレターを書くひとなんていないのと同様に。

いや、実際にはいて、それがきっと「推し活」なんです。

コメント欄で、私の愛を語るから、それはガチ恋ではなく、推し活であることも判明する。コメント欄だからこその節度が保たれる。メタ・メッセージがちゃんと伝わる。つまりコメントと推し活は、非常に相性がいい。でも、それはお便りの愛の告白とはまた違う。

溢れる思いを対象に同化させたい、日本人的な「甘え」の概念も内包しているのが、コメント文化なのでしょうね。それは言い換えると「誤配」への期待みたいなものでもある。

もしかしたらエゴサで届けばいいな、みたいな。その逆もまた然り。この不満を相手にぶつけるまでもないけれど、エゴサで拾われて、相手が見事に傷つけばいいなと思っている。

そして、そのときに、私は相手に”名指し”で向けたわけではないというエクスキューズができることに意味がある。小賢しいといえば、非常に小賢しい考え方です。

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この点、お便りに関連して、ふと思い出したのが、村上春樹さんの苦情の手紙の話。

『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』という本の中で紹介されている苦情の手紙のエピソードです。

それは、村上さんが以前から何度か通っていたフランス料理の高級店が、その日に限ってはあまりにもひどい態度だった、だから翌日に苦情の手紙を書いた、というような内容です。ただ、それは実際に投函はされず、この書籍の末尾に、そのまま掲載されています。

これが苦情の文章なのに、なんとも美しいんです。一流の小説家が、クレームの手紙をこんなにもグサグサ刺さるものが書けてしまうのかと感動しました。

もちろん、それはただの批判ではなくて、礼儀や敬意がにじみ出ています。

この部分を読むだけでも、本書を実際に購入して読んでみる価値が十分あるなと思います。

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具体例と共に、村上春樹さんは良い苦情の手紙の書き方について、ふたつの「コツ」を紹介しています。

こつの第一は、七分褒めて、三分けなすことである。けなしてばかりいては、こちらの真意は相手に届かない。「貴店にはこれだけ素晴らしいところがあるのに、これはいかにも惜しい」という内容のメッセージにすること。
こつの第二は、細部にうだうだと拘泥しないことである。「誰がああした、それでこうした」という姑の小言みたいなディテイルは不要である。自分がいちばん言いたいこと -つまり苦情のエッセンス- を、可能な限り簡潔に書く。


これは、本当に素晴らしい助言だなあと思います。

取り扱い注意の代物ですが、この形式で届けられた苦情の手紙で、正しくダメージを受けない人なんていないでしょう。

そして、クレームや苦情の手紙も「包摂の中の否定」の一つの形なんだなあと思いました。敬意と配慮と礼儀が兼ね備えられた形式なんです。

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さて、コメントとお便りの違いについて改めて話を戻すと、クレームのお手紙に限らず、このような視点は、お便りにおいて必要な視点が大事。

つまり、読み手の立場に立って考えるということ。逆に言うと、コメントの場合は、この逆になってしまっていることが多い。

けなしてばかりいて、それゆえに書き手の真意が伝わらない。(もちろん褒めてばかりいるのも同様)そして、細部にうだうだしている、自分がそこにひっかっかったからということなんだろうけれど、自分の話ばかりをする。

それは、読んでいる側からすると、本当に「しらんがな」ということになりがち。

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現代のコミュニケーションは、どこもかしこもあまりにもコメント的になりすぎている気がします。

先日、ネット上で話題になっていたまとめ記事で「学生が『レポート間に合わなかったんですけど』みたいに何をしてほしいかまで言わないのは傷つきたくないから?『幼児もこの話し方をする』」という記事が話題になっていました。


これに対して、幼稚だという批判が一般的でした。でも僕はこれって、幼稚云々ではなく、ひどくコメント的な態度だと思うんです。先生のスレッドにコメントを書いているようなもの。一方通行に慣れすぎてしまっているがゆえの、意思表示なんです。

このやっかいなところは、僕らの時代のコメント、つまりファンレターのようなものは、拾われないことのほうが99%だった。本人に届いているかどうかさえわからない。でも今のコメントは、相手に届いていることがわかっている。だからこその「意図を汲んでくれ」みたいな「ズルさ」がそこに存在しているんです。

しっかりと相手には届いていることを理解しつつ、でもそれが直接的には伝わらないことも理解している。見逃される可能性もある。ものすごく歪んだコミュニケーションをしてしまっている。

でもネットのコメント文化に慣れれば、いつまでもこのようなコミュニケーション態度になると思うんですよね。

でもそれは、幼稚なんです。そうじゃなくて対話的な態度、お便りとしてのスタンスのほうが、健全なコミュニケーションだと僕は思います。

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ということで、いろいろ長々と書いてしまいましたが、コメントは自己本位で相手に対しての敬意の有無は関係がない。(もちろん敬意あるコメントも世の中にはたくさんある)

一方、お便りは基本的には、他者本位であって、そこには常に敬意が必要。そして、そうやってインタラクティブなコミュニケーションを通して、コンテンツというよりも「場」や「空間」をより良きものにしよう、祝福しようという意志が内在しているものであるということ。

もちろんこれは、グラデーションであって一概にきっぱりと区別はできないけれど、僕はコメント的なコミュニケーションよりも、お便り的なコミュニケーションを好む理由みたいなところが、今日の話からなんとなく伝わっていたら嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。