先日、Wasei Salonのなかで『赤毛のアン』の読書会を開催しました。
https://wasei.salon/events/cab81372d98a
実は、原作をちゃんと読んだのは今回が初めてです。
その読書会の中で、僕がいちばん好きな場面だと話したシーンがあります。
物語の冒頭、手違いで本当に欲しかった男の子ではなく、女の子がやって来てしまい、マリラはアンを孤児院へと送り返そうとする。
そのときマリラが口にするのが、「あの子がいったい何の役に立つというの?」という厳しい問いです。
それに対して、兄のマシューがぼそっと答えるんですよね。
「いや、わしらがあの子の役に立てるかもしれないよ」と。(翻訳によって、言い回しは少しずつ変わると思います)
この一言の反転に、この物語のすべてが詰まっているなあと、読み終えた今、心からそう思います。
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で、ここからが今日の本題なのですが「役に立つかどうかで、相手を選ぶ」この論理を徹底していくと、人間関係はどんどん契約の束に近づいていくなと思います。
そして、その論理の行き着く先は、外資系企業のような雇用の姿であり、その完成形としていま現れているのが、AIなのだと思うんですよね。
文句も言わず、疲れもせずに二十四時間、こちらの求めに応じ続けてくれる存在。役に立つ限りは居場所を与えてもらえるけれど、そうではなければすぐに解雇&乗り換えられる。
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誤解しないでいただきたいのですが、僕は外資系企業や、AIを批判したいわけではありません。
むしろその逆です。僕は毎日外資系企業のサービスを使っていますし、Aも使い倒しています。
AIは、本当に人間の役に立ちます。それはもう疑いようがない事実です。
だからこそ、今日のブログのタイトルの後半部分が大事だなと。
AIは僕らの役に立つ。でも僕らは、AIの役に立つことができない。
この部分を、いまの時代に絶対に見落としてはいけないなと思います。
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これは読書会でも話したのですが、「役に立つ相手を必死で探そうとする」という営みには、奇妙な逆説があるなあと最近ずっと思っています。
相手が自分にとって役に立つかどうかという基準で相手を選んだ瞬間に、その相手が役に立たなくなることが、絶対に確定してしまうんです。
仕事でも結婚のような家族関係でも、コミュニティでも何でもそうです。
なぜなら、人間は、時の経過と共に必ず変容するからです。
稼いでいた人が突然稼げなくなったり、元気だった人が病み始めたり、そしてこちらの欲しいものだってライフステージの変化と共にドンドンと移り変わっていく。
そのような万物流転する世界の中で、自分にとって役に立つ人間を探せば探すほど、世界は、役に立たない人間だらけの集合体に見えてくる。
たとえ、その一瞬は役に立つことがあったとしても、数年が経過し、それぞれが変化をすれば、相手は次第に役に立たない存在に成り下がる。
今のAIの登場で、外資系企業が大量解雇しているのは、皮肉にもそれを象徴していますよね。
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ただ、これまでの世の中では、この探し方の「破綻」そのものが教師になってくれていました。役に立つかどうかで選んだ関係は必ずどこかで壊れるので、壊れたときに、人は問い直すことができたわけですよね。
「私にとって、役に立つかどうか」という基準で、私の求める相手を探してもいいのか、というふうに。文学は、そんな人間の愚かさを必死で描いてきたわけです。
でも、AIは、破綻しません。ずっと役に立ち続けてしまう。
「一生役に立ち続けてくれる相手」というものが、人類史上はじめて登場してしまったのかもしれない。
これは、逆説が解決されたということではなくて、逆説が見えなくなった、ということなのだと思います。
役に立つでは救われない、という真実だけが、純粋なかたちのまま、しかも気づかれずに、残り続けるという皮肉です。
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僕は、ちょうど五年ぐらい前に、こんな記事を書いたことがあります。
NPO法人・抱樸の奥田知志さんが、批評家・若松英輔さんとの対談のなかで語っていた言葉です。
あの記事内で、僕は「助ける・助けられる」という矢印は本来ひとつのもので、僕らが言葉によって勝手に分節しているだけなのではないか、と書きました。
マシューの「わしらが、あの子の役に立てるかもしれないよ」は、まさにこの矢印の反転です。
相手が役に立つかどうかを問う側から、自分が役に立てるかどうかを問われる側へとまわること。
そして、こちら側の問い方には、素晴らしい魔法のような性質があると思っています。
「自分がこの人にどう役に立てるか」という問いは、相手が変われば、こちらも変わることを常に強いられるという点です。
つまり、お互いにどうのように成長するか、成熟し合っていくか、という話に一気に変容してくる。
だからこそ一生、お互いに「役に立ち続けよう」という関係性を続けることができるんです。
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この点、AIに対して、僕らはこの問いを持つことができません。AIには、ユーザー側に差し出せるような「欠点」がないからです。
どれだけ乱暴に扱っても潰れないし、これから何年使い込んでも、「実はあいつに支えられていたのは、俺のほうだったんだなあ」という事後の反転が、AIの側から訪れることは原理的に絶対にありえない。
五年前の記事の言葉を用いるのなら、人間とのあいだでは、矢印は「本当はひとつなのに、言葉の分節によって二本に見えている」だけだった。
でも、AIとのあいだでは、矢印は本当に文字通り、一本しかない。
錯覚ではなく、構造として、一本であり、完全に一方通行なんです。
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ただし、こう書くと、反論も聞こえてきそうです。
「フィードバックを送れば、AIの学習に貢献しているのでは?」「最近のAIはメモリ機能で、あなたとの対話を覚えて変わっていくのでは?」と。
それは、きっとその通りです。でもそれは「経済の役に立つ」というのと同じ種類の話で、そこには他者としての「顔」は存在しない。
僕らのAIに与えた言葉は、データとしてどこかの改善に貢献するのかもしれないけれど、目の前のこの相手に必要とされて、この相手の欠けを埋めた、という事実にはならないのです。
記録は残っても、それはお互いの成熟にはつながっていかない。
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ここで再び『赤毛のアン』に話を戻すと、アンは、受け取るだけの子ではありませんでした。
たとえば、無二の親友である・ダイアナの妹のミニー・メイが真夜中に危篤に陥ったとき、大人たちが出払ったなかで、その命を救ったのは、アンです。
「あの子がいったい何の役に立つというの?」と問われた孤児が、文字どおり、人の命の役に立ってしまう。
グリーン・ゲイブルズにあれだけの光を持ち込んだのもアンなら、物語の終盤、マシューが亡くなったあと、大学行きを取りやめて、目を悪くしたマリラとグリーン・ゲイブルズを守ることを選んだのも、アンでした。
「夢が小さくなったのではなく、夢のあり方が変わったのだ」というようなことを言いながら、です。
そして、厳しいしつけ役だったマリラもまた、アンの存在によって少しずつ柔らかく変容していく。
つまり、あの家は、誰かが一方的に甘え、誰かが一方的に与えるような場所ではないわけです。全員の敬意と配慮と親切心が、お互いに欠点があったり不格好なままに、循環している場なんです。
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永遠にこちらを甘えさせてくれるだけの相手とは、「お互い様」が原理的に成立しないのです。
以前の記事のなかでも引用した、奥田さんと宗教学者・釈徹宗さんの対談の中に、「苦労のたらい回し」という表現がありました。
「苦労をぐるぐると回していくからこそ、誰かひとりが全部を背負って潰れることなく、みんなで生き残っていけるんだ」と。
これは、今日このブログに書いてきたように、苦労のたらい回しによって、否応なくお互いが成長し、成熟するから、結果的に、全員一緒に生き残ることができるわけですよね。
そして、この輪に入るための資格は、たったひとつで、変な表現になってしまうかもしれないのですが、有限な存在の人間として潰れうること、そこに明確な欠点があること。
AIは潰れないし、原理的に無限なので、この輪の中には入れない。AIに誰かの苦労を流すと、苦労はそこでせき止めてしまいます。
だから使っている側は、とても楽なんです。楽なんですが、みんながAIに流すようになれば、そのぶんだけ、苦労のたらい回しの輪そのものが痩せ細っていってしまうジレンマみたいなものが、ここにはあるよなあと思います。
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最後に、世の中には、ずっと悩み続けている人がいますが、彼ら・彼女らが悩みから抜け出せない理由なんかもまさにここにある。
ずっと自分の息苦しさや生きづらさの話ばかりをして、どうすれば自分が癒されるのかのほうばかり探しているからだと思います。
とても謙虚のようでいて、相手が自分にとってどれだけ有益かという目線でしか、人や職場をみることができない。
もちろん、物理的に傷ついているときなど、何か手痛いトラウマを背負ってしまっているひとは、自分のことしか考えられなくなる。それは弱さではなくて、構造の問題です。
ただ、とても残念なことに、そのような視点のなかにいる限り、救われる瞬間はいつまでもやってこないのも事実。これもまた、構造の話なのだと思います。
じゃあ、一体どうすればいいのか。
「自分中心をやめて、人の役に立ちなさい」という説教は、たぶん何の役にも立たないはずです。そんなふうに言われて変われる人間だったなら、とっくの昔に変わっている。
アンが外の世界に向かって与えはじめたのは、マシューが先に、無条件にアンを受け取ったから。
「わしらがあの子の役に立てるかもしれないよ」が先で、アンの贈与は、そのあとなんですよね。
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だとすれば本当に必要なのは、役に立つかどうかでは説明のつかない者同士が、お互いの欠点や短所を抱えたまま、それでも一緒にいること。そして、気づいたら互いを支えてしまっていたと気付ける場所、そんなふうに自然と互いに成熟していく場をつくりだすほうが、巡り巡って全体で見たときには、全員の人生にに「役に立つ」はずです。
それがきっとこれから求められている場だと思いますし、僕はそんな場こそをつくりたい。
そして、その場にいるひとたちの役に立つためにこそ、道具としてそれぞれにAIを用いるのが、きっとこれからの最適解なのだと思います。
繰り返しますが、自分のためではなく、誰かのために。それが巡り巡って、自分に返ってくる。まさに情けは人の為ならず、なんです。
ただし、返ってくることを目的にした瞬間に、この循環も煙のようにフッと消えてしまう。見返りはいつも、事後的にしか発見できないからです。
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今回の読書会の最後、次回の課題本がトーベ・ヤンソンの『ムーミン』に決まりました。
ムーミン谷は、谷の話です。つまり、コミュニティの話。きっとそこに次のヒントは隠れているだろうなあと思っています。
次の読書会も本当に楽しみです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていれば幸いです。
2026/07/16 14:29
AIは役に立つ、でも僕らはAIの役に立つことはできない。
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