先日、『80億分の1』というゲームがSNS大きな話題になっていました。


生まれる場所を自分では選べない、人生シミュレーションゲームです。あっという間にバズが広がって、タイムラインがその話題で持ちきりになっていたのを観た方も多いと思います。

でも、それからまだ数日しか経っていないのに、僕の観測範囲では、もうほとんど誰もその話をしていない。

AI以前であれば、これだけ大きく広がったものは、しばらくのあいだ余韻が残っていたように思います。

でも、いまはすぐに似たようなものがコピーで出回ってしまうし、「どうせAIでつくったんでしょう」とカンタンに受け流されてしまう空気なんかもある。

これがほんとうに残酷だなあと。

ここで書きたいのは、そのゲームの出来や、つくった方への評価ではないんです。気になっているのは、つくる側のひとりとして、自分にもそのまま返ってくる問いのほうです。

具体的には、一度にたくさんの人に届くことと、その人たちの人生に残り続けることは、いったいどれくらい違うのだろうか、と。

今日はそんなお話です。

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で、そのとき僕がXに書いたのは、AI時代につくらなければいけないのは、完成度の高い優れた作品や商品よりも、循環やコミュニティ、共同体なんじゃないか、ということでした。

持続や反復が起きないものは、どれだけ大きな打ち上げ花火であっても、その瞬間に終わってしまう。今はまさに、そういう時代だなと。

ただ、書いたあとで、これだけだと誤解されそうだなとも思ったんですよね。

「コミュニティをつくろう」と言った途端に、ファンを囲い込んで、継続的に買ってもらうための話に聞こえてしまうからです。いわゆる「推し活」マーケみたいな話に回収されてしまう。

でも、僕がここで考えたいのは、そういう話ではありません。

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それに、同じ場所に通って、同じ人と会って、同じものと付き合い続けることは、多くの場合「退屈」だとも思われてしまいがち。

退屈だと言われると、つくり手はつい、対象のほうを新しくしようとします。もしくは、必ず規模感や予算感を大きくしようとする。ドンドンそうやってインフレする方向へ向かいがち。

それ自体が悪いわけではないけれど、その方向だけで応え続けていたら、際限がない。

次のおもしろいもの、さらにその次のおもしろいものを、延々と供給し続けることになってしまうし、必ずどこかで破綻します。

で、逆回転し始めたら、すぐにオワコンとレッテルを貼られて、凋落はほんとうにあっという間です。まさに、盛者必衰です。

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しかも、次から次へと新しいものを出し続ける競争は、いまAIがいちばん得意とするところでもあります。

だから僕は、変わるべきなのは対象よりも、それを受け取る自分たちのほうなんじゃないかと思っています。

「もう知っている」と思っていた世界に、まだ受け取れていなかったものが残っていたとハッとすること、その目線や価値観を揃えること。

持続や反復のおもしろさは、そこにあるのだと思います。

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とはいえ「退屈を我慢して通い続けろ」という根性論をしたいわけではないんですよね。

関わり続けているうちに、いつのまにか、おもしろがれる自分のほうが育っている。そういう変化のことを考えています。

唐突なんですが、これはデニムで考えてみると、わかりやすいかもしれません。

お店に並んでいる量産品のジーンズでも、何年も履き込んでいけば、色落ちや膝のアタリ、太もものヒゲが、自分の体と暮らしの形になっていきます。

もとは同じ型でつくられた何千本のうちの一本だったのに、気づけばこの世に一本しかないものになっている状態。

一方で、わざわざ岡山の児島まで足を運んで、デニム工場で職人さんと話しながら、自分のための一本をオーダーメイドでつくってもらうこともできます。

こちらには、つくり手の時間と技術、それから児島まで出かけていったという過程そのものが込められている。これはこれで、まったく別の種類の唯一無二です。

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で、きっといちばん強いのは、その二つが重なったときだと思います。

児島でつくってもらった一本を、何年も履き込んでいく。つくり手の時間が込められたものに、今度は自分の時間が重なっていくわけで、そうなったらもう、絶対に捨てられない代替可能性が一切存在しない一本になりますよね。

AI時代の「コピーできなさ」には、この二つの源泉があるような気がしています。

クラフトやハンドメイドとしての物理的なコピーできなさと、そのものと一緒に積み重ねてきた時間のコピーできなさです。

見た目だけなら、いずれいくらでも再現できるようになるのかもしれません。でも、その一本と過ごしてきた過去を取り替えることは、誰にもできない。

時間が巻き戻らない以上、そこだけはどうやっても覆せないオリジナルな存在として残ります。

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勘の言い方既にお気づきだと思うのですが、これは『星の王子さま』のバラの話なんかとも近い。

王子さまのバラは、地球に咲いている何千本ものバラと見た目は変わりません。でも王子さまは、水をやり、覆いをかぶせて風から守り、ときにはそのわがままにも付き合ってきた。

その時間の積み重ねがあったからこそ、王子さまにとってはこの世にたった一本のバラになった。キツネの言う「飼いならす」は、きっとそういうことですよね。

もっと身近なところで言えば、大切な人から贈られた誕生日プレゼントもそうです。まったく同じものがお店で売られていたとしても、それとは交換できない。誰から贈られて、誰と一緒に選んだのかという文脈まで含めて、そのものに宿っているからです。

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そう考えると、ものをつくって売る側の仕事も、これから変わっていくのではないか、というのが、今日僕がここで強く主張したいポイントです。

これまでは、つくって、お客さんの手元に届けて、お店を出てもらうまでが商品の提供価値でした。どれだけ良いものを丁寧につくり込んで手渡せるか。それはもちろん、これからも大切です。

ただ、その商品が持ち主にとってかけがえのないものになっていくのは、むしろ買ってもらったあとの時間の積み重ね、そのかけがえのなさのほうなんですよね。

もし僕がデニムを売る立場だったら、買ってもらうまでの時間よりも、買ってもらったあとにその一本と過ごしてもらう時間を、どうやって増やせるかを丁寧に考えると思います。

たとえば、そのデニムを履いて出かけられる場所に一緒に行く機会をたくさんつくったり、メンテナンスを丁寧に引き受けたり、ときどき「最近どうですか」と声をかけて、年に一度くらいリメイクの相談に乗ったりして、そうやって時間が積み重なっていくほど、その一本はその人だけのオリジナルな一本になっていきます。

つまり、今日僕が何をいいたいのかと言えば、AI時代に本当に「商品」と呼ぶべきなのは、もしかしたら手渡す「モノ」そのものよりも、それと一緒に時間を積み重ねてもらうための関わりや機会のほうなのかもしれないということです。

とはいえ、「時間を売る」とまで言い切ってしまうのは、少し違う気もしています。

その時間にどんな意味が生まれるかは、最後は使い手(消費者側)の人生に委ねられているから。

つくり手にできるのは、あくまで、その時間が育っていくための土壌を用意するところまで。ただ、その土壌を耕す共同体やコミュニティをつくるところまでを自分の仕事だと思えるかどうかで、つくるものはだいぶ変わってくるはずです。

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この話は、今日Xに書いたもうひとつの投稿にもつながっています。

岩手で、移住してきた図書館長の方が企画した、「本」で商店街ににぎわいをつくるイベントのニュースを見かけました。


空き店舗などに全国から出版や飲食にまつわるお店が約50店集まって、2日間でおよそ1500人が訪れたそうです。

それを見て、本というのは人と人とをつなぐ媒介、まさに「メディア」なんだなと思いました。

AIが出てきて、何でもひとりでできるようになっていくし、用事を済ませるだけなら、もう誰とも話さなくてもいいわけです。

そうやって人とのつながりがますます希薄になっていくなかで、本は、つながる必要のない人同士を、それでもつなげてしまうところがある。

不便だから仕方なく助け合う、という「不便益」の話とも、また少し違います。

本を通じて人と出会って、その人を通じて、もう一度その本に出会い直す、その過程。最初に書いた「循環」の具体的な姿は、たぶんこういうものなのでしょうね。

デニムも本も、それ自体がひとつの完成品でありながら、人との関わりや積み重なっていく時間を受け止める器にもなっています。

それに、自分たちの外側にある一冊の本を一緒に眺めているから、無理に同じ考えになる必要もない。

ゆるやかなまま関わり続けていられるのも、本のいいところだと思います。

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上述した「退屈」の話に戻ると、同じものに関わり続けるおもしろさは、言葉で説明されただけではなかなか伝わりません。

「反復には価値があるんですよ」と説得されて腑に落ちる人は、ほとんどいないはずです。

でも、自分には退屈にしか見えなかったものに、心の底からおもしろさを見いだしている人たちがそばにいると、話はガラッと変わってくる。

その人たちと時間を過ごしているうちに、自分にもだんだんそのおもしろさが見えてくるし、その人たちのほうも、こちらの何気ない一言で見え方が変わったりもするわけです。

共同体の価値は、こういうところにあるんだと思っています。

それが淀みなく健やかにスイッチし、循環していること。僕がWasei Salonで大切にしたいことも、まさにここに近い感覚です。

だから、最初にどれだけ伝わっているかよりも、そこから先の道のりをどれだけ一緒に歩めるか、そしてここがそういう時間を積み重ねていく場なんだということを、お互いにどれだけ丁寧に握り合えているかのほうが、これからは大事なんだと思います。

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AI時代に何をつくるのか、という問いは、「何をつくるか」だけでは完結しないんだと思っています。

ソレを手渡したあとに、どんな時間が始まるのか、誰とのどんな往復のなかで、反復して耕し、上ではなく、「奥」へと掘り続けていくのかそこまで含めて考えて、ようやく「つくる」ということになるのでしょうね。

大きな打ち上げ花火を否定したいわけではないんです。夜空に一瞬だけ開く花火には、花火にしかない圧倒的な美しさがあるし、そこに嘘偽りはない。

それでも僕がこれからつくっていきたいのは、一瞬で大勢の目を奪うものよりも、同じものを何度でも何度でも繰り返し、一緒におもしろがれる場所であり、循環であり、その反復です。

AI時代の創作活動が、大きく変化した今、とても大切なことだと思ったので、今日のブログにも書き残しておきました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。