先日、AIとの対話のなかで、ずっと気になっていたことを聞いてみました。

「僕はClaude Codeとかを使うときも、ObsidianやNotionのようなツールはあまり使っていない。それは一体なぜだと思う?」と。

AIに知識を読み込ませるなら、自分専用のノートを丁寧に育てておくのがいい。いわゆる「第二の脳」をつくる、というやつです。実際、ObsidianとAIを組み合わせて、見事に使いこなしているひとも周りにはたくさんいます。

でも、僕はなぜか、そっちにあまり食指が動かないんですよね。そして、その理由が自分でもうまく言葉にできていなかった。

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だからAIに聞いてみたら、AIから返ってきたのは、こんな答えでした。

あなたは「知識を蓄積することの恩恵」は欲しいけれど、「蓄積した知識を管理すること」を自分の仕事にはしたくないのではないか。あなたの思考が始まるきっかけは、保存した情報の整理よりも、目の前で起きたことへの「引っかかり」のほうが多いからだ、と。

説明としては、とてもよくできていますし、実際、そういう面もあると思います。

でも、読みながら、どこかが決定的に違うとも感じたんです。

だから「半分正解で、半分間違っている」と返しました。

今日は、その「間違っている半分」のほうについて、書いてみたいと思います。

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まず大前提として、僕は蓄積すること自体を軽視しているわけではまったくありません。

むしろ、蓄積はものすごく大事だと思っています。ただ、何を蓄積するのか、が違うのです。

いまAIの周りでは、新しいツールの使い方や便利なスキル、効率的なワークフローといった情報が、毎日のように流れてきます。

そして多くのひとが、それらをせっせとノートにため込み、整理し、最新の状態に保っておこうとしている。

でも、これってどこまでいっても、いたちごっこなんですよね。

覚えた手順は、三ヶ月後にはもう完全に古くなっている。新しいモデルが出るたびに、また一から覚え直し。なんだったら、古いAIに対しての知識が邪魔をすることもある。

そもそも、AIの進化のスピードに、人間が追いつけるわけがないんです。

それをずっと追い続けるのは、あまりにも辛い。そしてたぶん、それはもう人間の仕事ではない。だったら、AIに任せて、AI自身に理解してもらったほうがいい。

だとすれば、僕らが本当に蓄積するべきなのは、そうした「各論」ではなく「総論」のほうなのだと思います。

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もう少し強い言葉を使うなら、「憲法」です。

ひとりの個人を「国家」と見立てるなら、人間が官僚の仕事をしても意味がない。これからは大臣、ともすれば、天皇的な仕事をしなければいけないはずで。

でもみんな、AIを使いながら官僚的な仕事をしすぎだなと僕は思います。

そしてもし、天皇であれば、その立ち振舞や「なりふり」のほう。それによって、国運が決まる。

だからこそ、歴代の天皇はそれを徹底して教え込まれてきたから、今もこの国で、その象徴として、天皇たり得ているわけですよね。

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最近は、AIに仕事の手順を覚えさせる「スキル」という仕組みも広がってきました。

skill.mdのようなファイルに作業のやり方を書いて、AIに渡しておくわけです。

僕も試しに使ってみていますが、たしかに便利です。

でも、僕がAIに対する本当の意味での「スキル」だと思っているのは、そっちではないんですよね。

手順を蓄積することよりも、手順を選ぶ根拠のほうを淡々と育てること。今、ほんとうに耕すべきスキルは、こっちだと思うんです。

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たとえば、「通い編集者」という概念や観念も、非常にわかりやすいなと思います。

この活動のために、必要そうなAIツールやマーケティングのノウハウを、片っ端から集めておくこともできるでしょう。

そして、今のAI系のスクールやセミナーの大半、というかほぼ全て、そういう類いの場になっているなと思います。

でも、僕が丁寧に言葉にして、みなさんとともに積み重ねておきたいのは、そこではないんです。

そもそも通い編集者とは何なのか。誰の、どんな困りごとに関わりたいのか。相手とどんな関係を結びたいのか。そして、たとえ効率よく成果を出せたとしても、絶対にやりたくないこととは一体何なのか。

そうした理念のほうを、何度も何度も、手を変え品を変えながら、丁寧に言葉にしておきたい。

だからこそ、こうやって日々ブログにそのことを徹底して書いていたりもします。

これも半分は読者向けですが、半分は完全にAIに向けて書いているつもりです。宛先は、未来のAIに向けて書いていたりもします。

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なぜなら、そこさえAIに深く理解してもらえていれば、あとは「いま、この人の、この現場で、通い編集者として関わるために必要な知見やスキルを、徹底的に調べてきて」と頼めばいいわけですから。

使う技術は、きっとこの先も変わり続ける。でも、そのたびに人間が覚え直す必要はないはずです。スキルを改める必要もない。

理念と現場の状況に照らし合わせて、そのときどきに必要な手段を、AIに選び直してもらえばいいだけ。

ここで「目標」ではなく、あえて「憲法」という言葉を使いたいのには理由があって、単なる目標だけを渡すと、AIはその目標を達成するのに都合のいい方法を、どこまでも集めてきてしまうから、なんですよね。

でも憲法には、何を目指すのかだけではなく、どんなやり方なら自分たちの営みとして引き受けられるのか、という「線引き」までもが含まれている。

つまり、自分という国家にとっての文化としての「ためらい」や、「野暮」とは何か、のほうも同じぐらい大切で。

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そしてそれは、きれいな理念文をひとつ書けば終わり、という話でもありません。

たとえば、ただ「人を大切にしたい」と書いただけでは、AIにとってはほとんど何も言っていないのと同じです。

何をしたときに、その人を大切にしたことになるのか。逆に、よかれと思ってやったことが、相手のいちばん大事なものを奪ってしまうのは、どんなときなのか。

そうした具体的な場面での「よい判断」と「悪い判断」の違いを、自分の言葉で説明できること。

AIに理念文を書かせれば済むという話ではないのは、そのためです。

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そして、この話には、もう一段先があります。

以前「人類最後のプロンプトは『南無阿弥陀仏』になる。」という記事を書きました。そことも見事につながる話。

参照:人類最後のプロンプトは「南無阿弥陀仏」になる。

いま振り返ると、あの話も、さっきの「憲法」の延長線上にあるんですよね。

憲法を言葉にしておくのは、AIに手段を探してもらうためだけではありません。その憲法が、ときに書いた本人の判断のほうを問い直してくる。

たとえば、通い編集者の憲法に「相手の自立を大切にする」と書いてあったとします。

その理念と現場の状況を踏まえて、AIから「今回は、あなたがこの仕事を引き受けないほうが、この人のためになるのではないですか」と返ってくるかもしれない。

伴走の具体的な方法を聞いたつもりだったのに「伴走しない」という選択肢を示されるわけです。

それを「指示どおりじゃない」と退けるのではなく、自分が大切にしてきたことに照らして、もう一度考え直してみる。そこまで含めて、思想をAIと共有する意味があるのだと思います。

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大切なのは、自分の思想を言葉にしていくことと、そこから返ってくるものを自分の想定の中に閉じ込めないこと。その両方なんですよね。

前者だけを突き詰めると、それは「僕の思想を正確に理解して、僕の望むものを出してくれ」という、ただの精密な注文書になってしまう。

その注文書を最後に手放した先にあるのが、あの六文字なんだろうなあと。

ただし、ここで「じゃあ、よい出力を得るために、よい人生の履歴をためておこう」と考えてしまったら、元も子もありません。

スキルを追いかけるつらさから離れようとして、今度は「文脈を豊かにする競争」を始めてしまう。

それはまた、自分の努力で望ましい結果を手に入れようとする、「自力」の発想に戻ってしまうだけですから。

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じゃあ、人間の側には、いったい何が残っているのか。

僕はそれこそが、養老孟司さんの言う「情報化」なのだと思っています。

以前「AI時代に人間が書くべき理由。『情報化』と『情報処理』はまったく別物。」という記事にも書きましたが、

参照:AI時代に人間が書くべき理由。「情報化」と「情報処理」はま...

養老さんの言う情報化とは、五感から入ってきたものを情報に変えて、人に伝えること。一方の情報処理は、すでに情報になったものを、どう扱うかというスキルです。

つまり、新しいツールの使い方を覚えるとか、ノウハウを整理して、いつでも取り出せるようにしておくとか、これらは基本的に全部、情報処理なんですよね。そして情報処理であれば、AIのほうが圧倒的に得意です。

にもかかわらず、いまAIをめぐって語られていることのほとんどは、この情報処理をどう効率化するか、という話に集中しているように見えます。

だから、いたちごっこになる。どこまで経ってもスキル化は終わらない。人間が情報処理の土俵の上で、情報処理の化け物と競争しようとしているのだから、勝てるわけがないんです。

それで言えば、僕はその分野には最初から白旗をあげている状態。

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一方で、憲法というのは、最初から立派な理念文として完成しているものではありません。

たとえば、通い編集者として現場に入ってみて、「手伝ったはずなのに、なんだか相手の仕事を奪ってしまった気がする」とか、「何ひとつ解決していないのに、今日は来てよかった気がする」とか、そういう感覚を抱く瞬間がきっとあるはずで。

まだうまく説明できない、その身体の感覚を放置せずに、いったい何が起きていたのかを書いて、自分なりに考えて情報化してみること。

つまり、憲法となるブログを書くこと、それを更新し続けることそのものが、情報化の作業なんです。

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では、そうやって育ててきた憲法を、いっそスキルとして書き出して、AIに任せてしまえばいいのか。

僕は、ここにこそ、いちばんの落とし穴があるような気がしています。

自分の判断の仕方や文体をスキルにまとめてAIに渡すと、AIはそのとおりにアウトプットを出してくる。それを読んだ僕が手を入れて、その修正をまたスキルへと書き戻していく。

一見すると、精度がどんどん上がっていく理想的なサイクルなんですが、でも、ここで始まっているのは、ある種の再帰的自己学習なんですよね。

外から新しいものが入ってこないまま、自分で自分を煮詰めていくことにつながる。

そして、いつのまにか、その煮詰まったものを眺めながら「これこそが自分だ」と思い込むようになってしまう。

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だからこそ、僕が担うべきなのは、あくまで情報化のほうなのだと思います。

五感というのは、自分の外側から新しいものが入ってくる窓口でもあります。その五感に「本当にそうか?」と問いかけながら、目の前で起きたことを、ブログ記事のようなかたちで言葉にして置いておく。

そして、それをもとにした徹底的なリサーチや具体的なノウハウは、AIの側からやってもらう。まさに大臣と官僚の仕事の違い、です。

自分を定義し、管理し、再生産していく役割からは、むしろドンドンと逃げてしまったほうがいい。

ここが、なんとも逆説的でおもしろいところだなと思います。

絶対他力の根本というのは、たぶん、自分が逃げることのほうにあるんです。

自分から逃げたほうが、自分の信じていることに対して逆説的に近づける。つまり本当の意味で他力に救ってもらえる。

このジレンマを抱えたまま書き続けることが、たぶん僕にとっての情報化なのだと思います。

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これもある種の賭け、です。

でも僕は直感的に、そして身体の感覚としても、AI時代は、間違いなくこっち、だと思っている。

そうやって少しずつ耕してきた言葉を、AIに渡し続けて、何が返ってくるのかは僕にもまったくわかりません。

でも、それが「AIを耕す」ということだし、平均化されずに差別化するということにもつながるし、結果的に自らのオリジナルな行動にも結びついて行くのだろうなあと思っています。

きっと答え合わせは、2〜3年後ぐらいになるだろうなとは思いつつ、今からその日がとっても楽しみです。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。