僕は、打ち合わせのような席では、基本的に、少なくとも一度はブログに書いて自分で考えたことがある内容しか話さないようにしています。

特に3人以上など、人が増えれば増えるほど、その傾向は強くなる。その場での即興は、ほぼゼロです。

それを受けて「鳥井さんは言語化力がすごいですね!」と褒めてもらえることもあるのだけれど、そのたびに「いやいや、下ごしらえしたことしか話していないんだから、そう聞こえてしまうだけなんです、すみません…」と心のなかで思うばかりです。

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これは料理に喩えてみると、わかりやすいと思っています。

事前に下ごしらえをしてきたひとと、その場で一から料理をつくり始めるひと。前者のほうが手の込んだ、見栄えのする一皿を出しやすいのは、考えてみれば当たり前のことですよね。

それに、その場で見事な料理をパパッとつくってみせるひとだって、実際にはこれまで何度も何度も繰り返しつくってきたからこそ、一瞬でつくれているわけです。

つまり、その場で鮮やかに話せているひとの背後には、その場では見えない時間が必ずある。

逆に言えば、一度もゆっくりと時間をかけて考えたことがなく、言葉にもしたことがない話を、自分の責任や評価がダイレクトに絡んでくる場でいきなり話そうとすれば、怖くて何も言えなくなるのは当然のことだと思うのです。

それを「自分には言語化力がないから」とだけ受け止めて落ち込んでしまうのは、少しもったいない気がしています。

少なくとも僕は、その怖さがあるからこそ、毎日ブログを書いて、先に考えておこうとしているのだと思います。

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ただ、ここまで読んで「あれ、鳥井さんって以前、真逆のことを言っていませんでしたか?」と思った方もいるかもしれません。

実際、僕は2022年に「事前に用意したストックフレーズに頼らないで。」というブログを書いています。

参照:事前に用意したストックフレーズに頼らないで。

自分のなかですでに完成された意見を事前にたくさん用意しておいて、相手の質問に合わせてそれを出し入れする、そうやってお互いがストックフレーズを語り合うだけでは、言葉になっていないものを、他者と一緒に言葉にしていく時間が失われてしまう、そんな話でした。

さらに2024年には、内田樹さんの『勇気論』を引きながら、「自分のヴォイス」で語ることについても書きました。

参照:音声配信でお互いの声を聞き合うのは、非同期型の「対話」。

言い淀んだり、黙り込んだり、前言を撤回したりしながら、何度も言い方を変えて語り直していく。そうやって、じたばたしながら自分の言葉を探していくことこそが、自分のヴォイスで語るということなのだ、と。

今も、この考えはまったく変わっていません。

ただ最近、ふと思うのです。

じゃあ、自分のヴォイスでおずおずと話し始められた、その「あと」は、いったいどうしたらいいんだろう、と。

今日はその続きについて、以下で丁寧に考えてみたいと思います。

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まずは、自分が普段なにげなく使っている言葉を、一度棚卸ししてみるところから始まると思うんですよね。

「この言い回し、どこで覚えたんだっけ?」
「自分は、どんな経験をしてそう思うようになったんだっけ?」

そうやってひとつずつ確かめていくと、思っていた以上に、自分の言葉が他人からの借り物だったことに気づかされるはず。

好きな著者が書いていたことや、尊敬する先輩の口ぐせ、所属している業界やコミュニティのなかで当たり前のように語られていることなんかが、いつの間にか「自分の意見」のような顔をして紛れ込んでいる。

納得して受け取ったことと、自分自身で考えたこととの境目が、どこかで溶けてしまっているわけです。

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で、これに気づくと、結構愕然とします。

あんなにいろいろなことをペラペラと話せていたはずなのに、借り物の言葉をいったん脇に置いてみた途端、一切何も出てこなくなる。

もしかしたら自分のなかには、最初から何もなかったんじゃないか。そう思えてきて、本気で落ち込んでしまう。

ただ僕は、この心細さを、急いで励ましの言葉で埋めないほうがいいと思っています。

これまで何のためらいもなく使えていた言葉に、初めてためらいが生まれた、そのこと自体が、自分のヴォイスを探し始めるための入り口だと思うからです。

もちろん、誰の影響も受けていない「純粋な自分の言葉」なんてものは、この世のどこにも存在しないのでしょう。僕らが使っている言葉は、そもそもすべて誰かから受け取ってきたものです。

だから大事なのは、借り物かどうかよりも、受け取った言葉と自分の実感とのあいだにあるズレを、一度でも確かめたことがあるかどうかなんだと思います。

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では、その沈黙から、どうやってもう一度口を開いていけばいいのか。

ここで、黙って話を聴いてくれる人間の存在が、本当に大事になってくると僕は思っています。

まだ自分でも何を話したいのかよくわからない。うまく説明できる保証もまったくない。それでも「このひとなら、受け止めてくれるかもしれない」と思えるから、恐る恐る口を開いてみることができる。

ここで大事なのは、「受け止めてくれる」ではなく「受け止めてくれるかもしれない」の期待のほうなんですよね。

必ず理解してもらえるという保証があるから話せるわけじゃない。むしろ、そんな保証はどこにもない。

それでも、これまで積み重ねてきたそのひととの関係を担保にして、えいやっと一歩を踏み出してみる。

そこには、ある種の「飛躍」がある。そして、この飛躍があるからこそ、僕らはジャンプできるのだと思います。

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このとき、聴いている側は、ほとんど何もしていないように見えるかもしれません。

黙って待って、ときどき相づちを打つだけ。せいぜいそれくらいですからね。

でも、そのひとが目の前に座って、急かさず、立ち去らずに聴いてくれているという事実そのものが、話す側にとっては、まだかたちになっていないものをそっと置いていける「器」になっている。

まさに、「いなくならないから」の倫理です。

でも、この弱々しい関係こそが、言葉になる前のものを、言葉の側へと渡していくための架け橋になるのだと思います。

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さて、こういう話をすると、「それならAIにだってできますよね?」と言われてしまいそうです。

確かに今のAIは、驚くほど丁寧に相づちを打ってくれるし、こちらを急かすこともない。ときには、ハッとするような的確な質問を返してくれることもあります。

でも、僕がここで言いたいのは、応答のうまさや質問の精度の話ではないんです。

自分とは違う人生を生きていて、自分とは違う感情を持っている、この「ひと」に向かって、まだ自分でもわからないことを差し出してみる。

もしかしたら、がっかりされるかもしれないし、呆れられてしまうかもしれない。

でも、その怖さを抱えたまま、それでも「このひとなら」と賭けてみる。その賭けがあるからこそ、それはちゃんとジャンプになるんです。

何を話しても決して失望することのない相手の前では、そもそもこの賭け自体が成立しないんですよね

だから、ジャンプも起きないし、そこではやっぱり定型句になってしまう。

おずおずとした声を「引き出す」ところだけは、やっぱりAIではダメなんだと僕は思っています。

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そして、ここからがようやく、今日のタイトルの話につながっていきます。

そうやっておずおずと出てきた自分のヴォイスを、その場限りで消えていくものにしてしまうのは、あまりにももったいない。

自分のヴォイスを大切にすることが、いつの間にか「いつまでもうまく言葉にできなくていい」にすり替わってしまうと、せっかく生まれた声が、誰にも届かないまま終わってしまいますから。

せっかく産まれてきたのに、そのまま成長することなく、静かに死んでいってしまうような状態です。

だから、出てきた言葉をもう一度拾い上げて、ゆっくりと考えてみて、書いてみること。

そうやって、何度でも立ち戻ってこられる言葉が、自分のなかに育っていく。

僕は、それをちゃんと「自分独自のストックフレーズ」として蓄積していくことが、本当に大事だと思っているんですよね。

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つまり、一度、ストックフレーズを疑って、その裏側にある自分の声を探す。

そして、見つけかけたその声から、もう一度、自分の独自のストックフレーズとして丁寧に編み上げて、育てていく往復運動。

これが、僕が「ストックフレーズの裏の裏」と呼びたいものです。一度ちゃんとおずおずとした自分のヴォイスという裏を経由しているからこそ、最初の表に戻ってきたときに、まったく別の世界が広がっているはずです。

逆に言えば、いつまでもただの裏を取って、「自分のヴォイスではあるけれど、おずおずと語り続ける」という態度に甘えていちゃダメなんです。

そうやってできた言葉なら、「なぜあなたはそう思うの?」と聞かれたときにも、堂々とちゃんとそこへ立ち戻って考えることができるわけです。

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そして今、この編み上げる作業を、ものすごく助けてくれる存在がAIなんです。

ここが強く強調したいところ。

おずおずと話した自分のヴォイスを、自分独自のストックフレーズにまで昇華させていくとき、ここは、まさにAIが力を発揮してくれるところだと思います。

にも関わらず、世の中の多くは既存のストックフレーズから、既存のストックフレーズへと置き換えることに、AIを活用しすぎだなと。

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自分が何を感じているのかを一度も確かめないまま、どこかで聞いた誰かのストックフレーズをAIに渡して、もっと説得力のある文章に仕上げてもらう。

それはあくまで情報処理であって、自分の考えが深まったこととは、まったく別の話なんですよね。

むしろ、借り物の言葉が、自分では到底思いつかなかったほど流暢に整えられてしまうことで、「ああ、これこそが自分の言いたかったことだ」と思い込みやすくなってしまう落とし穴がある。

本当は少し引っかかっていたはずなのに、その小さな違和感よりも、完成された文章の説得力のほうを信じてしまうわけです。

そうして、言葉はどんどん増えていくのに、自分のヴォイスはますますわからなくなっていく。

AIを使えば使うほど、余計に自己を見失ってい悪循環です。

今、世間のあちこちでそんなことが起き始めているような気がしています。

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そして、ここまで書いてきた一連の過程に伴走する役割こそが、今まさに僕がずっとこだわっている「通い編集者」なのだと思います。

「このひとになら話してみたい」と思ってもらえる関係をつくるところは、生身の人間にしかできない。でも、そこから生まれた言葉を編み上げていくところは、AIが強力に助けてくれる。

通い編集者は、このふたつのあいだを橋渡しする存在なんですよね。

一度の取材で完成させる必要はなくて、次に会ったときに「前回のあの話、その後どうですか?」と確かめられるし、言葉が少しずつ本人に馴染んでいく時間にも、ゆっくりと付き合えますからね。

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そして、ここからが今日いちばん書きたかったことです。

そうやって誰かの声が生まれるお手伝いをしているうちに、逆説的なのですが、自分自身のヴォイスもまた獲得されていくのだと思うのです。

つまり、聴く側もまた、自分の言葉の棚卸しを静かに迫られているわけです。

誰かの不完全なおずおずとした言葉を受け止めた経験が、今度は自分の背中を押してくれるからです。

目の前のひとが言い淀みながら、それでもジャンプして、その先からぽろっと言葉が出てくるという、そのお産みたいな瞬間に何度も立ち会っていると、「ああ、完成していないまま誰かに話してもいいんだな」と、自分自身も少しずつ思えるようになってくる。

まずは自分が、誰かのジャンプを受け止める側に立ってみる。だからこそ、いつか自分がジャンプするときにも、誰かが受け止めてくれるかもしれないと信じられるようになるはずですから。

誰かのための架け橋になろうとしているうちに、気づけば自分も、その橋を渡れるようになっているのだと思います。

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だから、すでに自分のヴォイスを獲得したひとだけが担える役割ではないんですよね。

むしろ、まだ自分の声がよくわからないと感じているひとにこそ、誰かのヴォイスが生まれる瞬間に立ち合ってみてほしい。そしてそれを育んでいく過程に、共に伴走してみて欲しい。

そのなかで、自分のヴォイスもまた同時に見つかって、育まれていくはずですから。

そして、そのときにぜひAIを活用して、それぞれの独自のストックフレーズをちゃんとつくっていって欲しいなと。

AIが言葉を整える力を、これほどまでに持つようになった今だからこそ、僕はその手前にある関係を、もっともっと大切にしたいと強く思います。

Wasei Salonでこれまで大切にしてきた対話の時間も、これから始めようとしている通い編集者という取り組みも、きっとその根源ははすべて同じところにあるのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。