先日、山田ズーニーさんがご自身のメンバーシップのnoteに更新されていた「審査と教育」というタイトルの記事を読みました。
この記事の内容が本当に素晴らしかった!
最近漠然と感じていたことを、ものすごく的確に言葉にしてくださっている感じがしました。感動するほど、素晴らしい表現力です。
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内容に関しては、先日Twitterでも大論争になっていた芸人・粗品さんの審査姿勢について。
有料メンバーシップの記事なので、ここではあまり詳しいことは書けないですが、ズーニーさんが見抜いたのは、粗品さんのお笑い賞レースの審査時のコメントが「審査」ではなく「教育」だった、という点でした。
そして問題は、そんな「教育」的な視点が良いか悪いかではなく、「教育は『相手の了解』があって初めて成立する」というもの。
にも関わらず、審査の場で教育的視点を持ち込むと、そこにズレが生じてしまう。
「教育視点は非常にありがたい、でも今じゃない、ここじゃない」このねじれが、視聴者があの粗品さんの審査姿勢に対して感じたピリつきの正体なのかもしれない、と。
詳しくはぜひ本記事を読んでみてください。
本当に素晴らしい洞察だと思います。
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で、この記事を読んで僕が思ったことは、逆に言えば、いまの教育の現場ではそんな「ありがた迷惑」になることを過剰に恐れて「審査」しか行われていないんだろうなとも、同時に思いました。
相手に良かれと思って教育をしてみても、それは求めていませんと生徒からピシャっと言われてしまう。
「先生は、淡々と進学や就職に有利な『審査』だけをしてくれていればいいんです」というような生徒や父兄からの反応みたいなものは容易に想像できる。
それは、現代において教育自体が「サービス」になってしまっているからですよね。
サービスなら、顧客満足度を優先することが求められることも当然であって、教育を受ける側の生徒たちも、そんな自分に都合のよいサービスを要求することは至極当然の流れだと思います。
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それゆえに今、賞レースのような「審査」という参加者も審査員側も腹が決まっている現場(サービスではない場)において、教育が持ち込まれてしまっているジレンマが生じている。
今、アイドルを中心にサバイバル番組が流行る理由も、きっと「教育的に叱られること」が唯一許されている空間だからこそ、これほどまでに注目を集めているということでもあるんだろうなと思います。
サバイバル番組の中だけは、お互いに腹が決まっているがゆえに、説教や叱責が可能となる。もちろん「REAL VALUE」のようなYoutube番組などもそうです。
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視聴者も、そのような「叱る・叱られる」という現場を目撃したい、その緊張感ある場に自分を重ね合わせたいという、隠れた無意識の願望がある。
人間と人間が生でぶつかり合うところを目撃したいという欲求なんだと思います。
映画『国宝』が今年これだけ流行った理由も、実はあの映画の中の師匠(渡辺謙)の厳しさ見たさなんかもあったんじゃないかと思います。
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で、これはきっと「成長不安」でホワイト企業をやめていく若者たちなんかにも、なんだかつながる部分があるような気がしています。
叱られるとすぐに逃げたくなる、でも叱られたい欲求も同じぐらい存在している。
まさに「怒られずに、怒られたい」みたいな矛盾です。
自らが否定されることは不満だし我慢ならない。でも同じぐらい自らが成長しないことも不安だし、その温室的な放置プレイにも耐えられない。
つまり不満も、あるし、不安も、ある。
どっちも、あるんです。
そんなアンビバレントな感情が、今の若い人たちの中にはあると思う。というか、現代人みんなそうだと思います。
この矛盾を無意識に解決するように感じさせてくれる状況、そんな疑似体験がまさに画面越しに見るサバイバル番組的な、もしくは『国宝』的な「プロによる苛烈な、ともすれば行き過ぎた教育的指導」ということなのでしょうね。
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とはいえ、最近何度も繰り返し書いているような気がしますが、昔みたいな師弟関係みたいなものを復活できるわけがない。
もちろん、昭和的な慣習を、そのまま同じように復活させればいいわけではないと思います。令和的な何か新しい「再出発の仕方」が求められている。
ズーニーさんは、このような昭和の時代に存在していたプラスの要素を「栄養源」と表現されていましたが、まさにその当時の「栄養源」的な価値や意義だけをどうやって、現代にあった形で復活させていくのかがカギとなるのだろうなと思います。
先日のブログにも書いたように、令和には令和なりの敬意の表し方、そんな「文体」みたいなものがあるよなあと思っています。
そして、ズーニーさんはそれを探りながら、日々徹底して実践されていて、ほんとうにいつも素晴らしいなあと僕は感動してしまいます。
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じゃあ、そのためにはどうすればいいのか。
お互いの真意が、ちゃんと届く距離、その関係性の構築がいま本当にとても大事だなと思う。
「共にいる」もそうですし、それ以上に「いなくならないから」という無作為。
「何があっても立ち去らない」という消極的な踏み込み度合いが重要なんだろうなと。
そのためにこそ、常に相手に敬意を示し続けること以外に、ほかの手段はないんだろうなあとさえ思います。
つまり祈るようにして、淡々と徳を積み続けること。同時に、自らも弱さを見せることもきっと大切。あと、落語的な「笑い」の要素も、意外と大事なのかもしれない。
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とはいえ、それでも、やっぱり断ち切れてしまうときはあるわけですよね。
まっすぐに伝えたと思った想いが、相手から誤解されることだってある。
対人関係は、どこかで必ず煮詰まってしまう宿命にあるのだと思います。
この時がいちばんの問題だよなと感じます。
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で、ここで少し話が逸れますが、最近寅さんを観ていて素直にいいなあと僕が思うのは、
寅さん特有の、あつい人情で思いがけず泣かされてしまったと思ったら、その20分後ぐらいには、同じあつい人情の延長線上で「それはないぜ、寅さん」ってなるように描かれていることなんです。
つまり、ついつい行き過ぎちゃう、やりすぎちゃうのが、寅さん。
「バカだねえ、まったく」って観客たちも呆れてしまうこと。
そんな表現を通して「ありがたさ」も「ありがた迷惑」も、表裏一体だということを教えてくれるし、この行き来が本当にすばらしいなと思うのです。
普通は、どっちかにしたくなるものであるはず。善なら善、悪なら悪としたくなる。
でも、寅さんという作品や文体には、どっちかにしない。両方があるからこそ、観ているこちら側も、素直に感情移入することができるようになっている。
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話をもとに戻して、じゃあ、そうやって個人対個人の関係で煮詰まったときに、一体何が打開策になるのか。
一対一の関係性の中だと、一度こじれたらもう「断絶」しかないから問題となるわけです。
で、きっとその時にはコミュニティの受け皿があると自体はまったく異なる方向へと進むんだろうなあと。
自分の伝えたことが、たとえ誤解されて相手から拒否され断ち切られても、同じ共同体の他のひとが、まだちゃんとつながっていること。
それがきっと家族的共同体の役割でもある。
寅さんを観ていると、それを本当に強く思うのです。
葛飾柴又に暮らす人々のコミュニティ、そんな同じ家族的共同体の人々の誰かが必ず「それはこういうことだったんじゃないのかい…?」と優しく諭すシーンが描かれている。
そうやって、必ず誰かがフォローするんです。
そんな縦・横・斜めの関係性が縦横無尽に張り巡らされていること。
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逆に言うと、親戚ひとりひとりと、順繰りにケンカをしていて、発散させているのも、またおもしろいなと思います。
つまり、喧嘩する相手はいつも同じなわけではなく、時におじさん、時におばさん、時に妹のさくらと、毎回異なる。
そうじゃないと、お互いに溜め込んだり、飲み込んだりしてしまうからなんでしょうね。
ちゃんとお互いに発散をする。でもそうすることで、お互いの居場所を確保していることが素晴らしいなと思う。
逆に、現代の核家族は、これといって大きな衝突もないし、断絶もしていないけれど、なんとなく帰りにくい、帰りたくないような実家となってしまっている。
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もちろん、家族とはいえ、親しき仲にも礼儀あり、です。敬意と配慮と親切心は大事。それが一丁目一番地。
でも、やっぱりそこは人間だから感情が高ぶりすぎてしまうことだってある。
寅さんのように、過ぎたるは及ばざるが如しという状態に陥ってしまうのが、人間の弱さであり、ありのままの姿なんだと思います。
だったら、家族とケンカしたっていい、言い争いをしたっていい。
でも、そのときにほかの誰かが緩衝材となってくれて、ちゃんと帰ってこられる居場所があることの豊かさです。
それが、すごくいいなあと思うんですよね。
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現代には、そんな共同体としてのセーフティネットが存在しないから、僕らは対人関係が断ち切れることを過度に恐れてしまい、叱れないし、教育の現場でも「審査」しかできないような状態になってしまっている。
相手と自分、そんな一対一の対人関係のなかで「ひとりでなんとかしなきゃ…!」と思うからこそ、余計に断絶を恐れて、臆病になる。
だったら、やっぱりそんな家族的共同体が実践できる場を、僕はをつくりたい。
もちろん、昭和的な家族的共同体をそのまま復興するわけではなく、現代にも通用するような穏やかにセンスよく、それでも人情味溢れるピリッとした瞬間も同時に存在するような、現代に本当に求められている共同体をつくっていきたいなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2025/12/18 19:08
