昨夜、Wasei Salonのなかで松本俊彦さんの『身近な薬物のはなし タバコ・カフェイン・酒・くすり』の読書会が開催されました。

https://wasei.salon/events/d0a4199b7fd1

以前もご紹介したように、この本は従来の依存関連の書籍と異なり、読み手に上から目線で指導してくるというより、「あなたはそれと、どう向き合いますか」という問いをただただ提示してくれるところが、素晴らしい本だなと思っています。


だから読み手のこちら側も、逃げずに「身近な薬物」に対しての「依存状態」に対して、自分の感覚を素直に言葉にするしかなくなってくるわけです。

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昨日の読書会の中で気がついたことは、僕はお酒を10年間断つと決めて、もう既に5年以上経過するのですが、「お酒をやめてるのに、やめられてない」気がしているということ。

これは、ものすごく変な言い方に聞こえるかもしれないけれど、感覚としてはすごく大事な感覚だなと個人的には感じています。

やめたと思っていても、そこにあるのは「排除」だけ。

排除って、確かにある意味では「最強の対処法」です。スイッチを物理的に切るようにして完全に遮断するような行為ですから。

命を守るための局面では、本当に大事なことだし、悪習慣を断つということ自体をここで否定したいわけじゃない。

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ただ、排除がうまく機能しているときほど、僕らは「もう依存は解決した」と錯覚しやすいなとも同時に思うです。

でも、そんな排除って裏を返すと「触れた瞬間には、また完全に持っていかれる」という前提が残っている状態でもあるなと思うんですよね。

つまり、その対象が自分にとって“依然として強い”ままの状態がそのまま続いているような状態となる。

その証拠に、対象に対して近づかないことでしか自らが打ち立てた秩序を保つことができない。

僕が読書会中に発言した「やめてるんだけど、それはあえて遠ざけてるだけであって、正しい距離感が掴めてるわけじゃない」というのは、まさにそういうことです。

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で、多くの場合、このあたりで「だからこそ適切な距離感を保つことが大事」という結論にたどり着くと思うのです。

それは実際にそのとおり。

でも、その「距離感」の丁度いい塩梅を探り、適量を守れることが大事となるような程度問題にしてしまうのは、きっと違うんだろうなあと。

以前も書きましたが、それは科学的な話であってドンドン科学の進歩なんかによっても移ろうもの。

たとえば、結局コーヒーは身体にいいのか悪いのか、その適量だって、時代によって正解が異なるわけです。

そうじゃなくて、もっと物語的な距離感なんだろうなと思います。

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そしてさらに厄介なのは、排除が続くほど「距離感を学ぶ機会」が消えてしまうということです。

近づかないから、調整も起きない。

調整がないから、適切な距離感の間隔も育たない。ちょっとでも近づいた時に、自分の中に自己嫌悪や自罰感情が湧いてきてしまう。

そして、ダメだダメだと思いながらも手を出してしまうから、その結果自分を攻めることになる。自己効力感や、自己肯定感もだだ下がり。

それに対して「距離感」は、もっと成熟した関係性だと思っています。

神格化もしないし、一方で悪魔化もしない。善悪の二元論に陥らないこと。

そういう柔軟である種、物語的、情緒的な関係性を築いていくことのほうが、本当の意味で大事なんだろうなと思います。

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もちろんこの話は、身近な薬物に限らないんですよね。

SNSでも、推し活でも、仕事でも、何でも似たような構造にある。

「排除」はたしかに即効性があると思います。でも、ほんとうに自分にとっての適切な「距離感」の構築には、ものすごく時間がかかるし、いつまで経っても完成はない。

なぜなら自分自身も常に変化し続けるからです。

本当に大事なことは、既に何度かお伝えしてきたように、「千と千尋」のカオナシと千尋のような関係性。ただ黙って、あの「銀河鉄道の夜」のような電車のなかで隣りに座っているような状態。

排除するだけでは、ドンドンとカオナシの陰が大きくなっていくだけだと思います。あのキャラクターが陰として描かれているのもホント秀逸だなと思います。


正しい距離感で出会えているというのは、つまりはそういうことなんじゃないのかなと。

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さて、もう一つ、読書会の中で大きなテーマだなと感じたのは、現代はお互いの「依存がまったく見えなくなった」という怖さのお話でした。

僕が例に出したのは、コンビニでストロングゼロがいつでも買える状態。

たとえばこれが一昔前なら、酒屋さんに行って買う必要があったわけですよね。そこで店の人は、なんとなく「この人、最近酒を飲む量が多いな」と気づくこともできる。

買う側も「こんなに買ったら、ちょっと思われるかな」という引け目が働く。

そこにはかなり薄いけれど、間接的に共同体的な“セーフティーネット”があったのだと思うのです。

でも今は、24時間のコンビニやドラッグストアがある。なんならAmazonのような通販だってある。

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個人の自由を尊重するという旗印のもと、いくらでも“無限に誰の目にも触れずに消費”できてしまう。そして決定的なのは、誰一人として「過度に依存してること」を指摘してくれない状況が、起きてしまっているということです。

だって、そもそも自分以外誰一人として、自分の全体量を把握してくれているわけではないのだから。

これは安易にムラ社会的な“監視社会が良かった”という話ではなくて、依存って本来は関係性の中で増幅したり緩んだりするものだという話だと思うんです。

それは、最近「男はつらいよ」シリーズを観ていても、強く思う。

一方で現代はその共同体の摩擦がゼロになり、購入も摂取も完全に匿名化されると、依存は自己責任となっている。

構造的に、お互いに気づけないようになっていることが原因だと思うんですよね。

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また、さらなる現代の恐ろしさは、依存が“身体に入るもの”だけじゃないこと。

僕は読書会の中で推し活の例も出しましたが、最近話題になったNHKのニュース、推し活に平均して「年間25万円使っている」、というあの報道。

あのような数値が出てきた時に、みんな一斉に「それは多いの?少ないの?」となる。

つまり僕らは、お互いの依存状態の全体像を把握できていない。時間もお金も、一体どれぐらい溶けているのかが、まったく「見えない」わけです。

「なんとなく、ハマってるっぽい」までは分かるけど、どこからが危険域なのかが分からない。

これが現代の恐ろしさなんだと思うんです。かなり近い身内であっても、それがまったくわからない。ブラックボックス化してしまっている。

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そして“見えない”のは、消費する側だけじゃないんですよね。

仕掛ける側も、消費者側がどれだけ依存しているのかが見えない。見えないように仕向けられて分業制になっている。

こちらも非常に厄介だなと思います。

先日、映画『ナイトフラワー』について書いたブログのとおりです。


それゆえに、商品を販売する側、仕掛ける側も、悪意を持ちにくくなっている。

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たとえば昔なら、立ち飲み屋のおばちゃんが「この人にこれ以上飲ませたらまずい」みたいな引け目を持てた。さすがにこれ以上飲ませると、相手の健康状態にも良くないし、懐も痛む。

それは優しさだけではなく、そうやってケアして、適度なお酒との距離感を保ったまま、このお店に通い続けてもらったほうが、お店のほうとしても都合がいいわけです。

現代風に言えば、そうすることでライフタイムバリューが最大化する。

三方良しや、「おかげさま」や「お世話さま」がほんとうに意味で実現する。

でも今は、直接被害が見えないから、「欲しいなら欲しい分だけ売っちゃっていいでしょ」となりやすい。

依存の“分業化”が進むと、誰も自分が手を汚していないと感じてしまう。だから供給側のブレーキも一切かからない。

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そして、ここにさらに追い打ちをかけるのがお互いの「叱れなさ」です。

仮にある程度全体像が把握できて、飲み過ぎだと思っても、叱れない。やめた方がいいと思っても、言った瞬間に「相手の意思を尊重してない」ことになるがゆえに、やんわりとしか言えないわけです。

そして、多少きつく言った瞬間に世の中にはもっと自分のことを甘やかせてくれるひとたちがたくさんいるから、そっちへ逃げてしまう。

そもそも叱られることになれていないから、余計にちょっとでも強く「そんなバカなことをやめろ!」と言われた瞬間にバチンと関係性を断ち切ることを選んでしまう。

「叱られたら、他に逃げることができる」は確かに圧倒的な「自由」ですが、それは同時に「誰にも止められずに自ら破滅してしまう自由」を同時に与えられているということでもあります。

これが、ものすごく現代的だと思います。

僕らは優しくなったし、相手の意志を尊重することを学んだ。でも同時に、1960年代の日本、寅さんの時代のように存在していた共同体によるセーフティネットが完全に崩壊してしまった。

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ここで難しいのは、「叱ること」を復活させれば解決するわけでもないところ。

じゃあ、一体どうすればいいのか。

たぶん、そのカギを握るのは、「叱る・叱らない」の二択じゃなくて、「見えないものを、見える形に戻す」ことでもないんだろうなと思います。

ただただ、もっともっとゆるやかにお互いがつながることで、共に悩むことができる空間が存在していること。

昨日の、読書会のような経験を通して「より依存についての向き合い方がわからなくなる」というような体験をみんなで共にしてみること。

それでいいし、それがいいと思っています。

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いくらでも別の逃げ道がある、社会の構造要因的にも、もう誰も直接的には叱れない社会だからこそ、“叱る代わりに、問いを持ち寄れる場所”が、結果的にセーフティーネットとして機能し得るんじゃないか。

僕はそんなふうに思っています。

「依存は、どうすればいいんだろうね?まったく答えがわからないね」とみんなが考えている状態こそが、依存のコミュニティ的セーフティネットのひとつの答え。

まさに「永遠の未完成、これ完成」という、宮沢賢治のあの話です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。