昨夜、Wasei Salonの中で、NHK出版「学びのきほん」シリーズの最新刊、鴻巣友季子さんの『英語と日本語、どうちがう?』の読書会が開催されました。
https://wasei.salon/events/b6206e87d84c
この「学びのきほん」シリーズは、これまですでに25冊以上出版されていますが、今回の読書会では「シリーズの中でベスト3に入る、いや1位かもしれない」という声が出てくるほど、参加者のみなさんが絶賛する1冊でした。
僕自身も、学びのきほんシリーズを全作通読していますが、間違いなくベスト3に入る本だと確信しています。
タイトルだけ見ると「英語の学習本かな…?」と思うかもしれませんが、それはあまりにももったいない。
これは、言語や言葉を起点にした、極めて深い「コミュニケーションの本」だなと思います。
そして、人間なら誰しもが、何かしらの形で広義の「翻訳」作業をしているということもよくよく理解できるかと思います。
学びのきほんシリーズが好きな方はもちろんのこと、一度も「学びのきほん」を読んだことがないという方にも、ぜひ手にとってみて欲しい1冊です。
今日は、昨日の読書会では語り切ることができなかった、僕がこの本を読んで考えたことを、このブログの中に書いてみたいと思います。
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まず、この本の冒頭で、僕が漠然と考えている「他者との距離感」について、ものすごく的確に言葉にしてくれている部分がありました。
鴻巣さんは、そもそも「翻訳とは何か」という問いに対し「架け橋を架けること」だと語ります。
そして、その後に続く言葉も非常に鋭い視点だなと感じました。
さっそく本書から少し引用してみたいと思います。
そもそも翻訳とは何でしょうか。
答えの一つは、翻訳とは架け橋である、というものでしょう。異なる言語、異なる文化圏をつなぐ橋。それが翻訳である。たしかにその側面はあります。ただ、実際に翻訳の現場に身を投じてみると、架け橋という言葉から連想される 和やかなものだけではないことがわかります。翻訳とは、ある言語を別の言語に移し替える作業です。そこにあるのは圧倒的な他者との出会いなのです。それは 衝突 でもあります。翻訳とは、特異なもの同士がぶつかり合う衝突の場であり、摩擦の場でもあるのです。
「ぶつかり合う衝突の場であり、摩擦の場」の部分に本当にハッとして、一気にひき込まれました。
僕は、Wasei Salonという空間を運営し、いつもWaseiという名前のとおり「昭和と平成、そして令和へと橋をかけたい」「和を成すを大切にしたい」と、日々明言しています。
そんな自分としては、本当に目からウロコが落ちるような視点です。
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言語が違う、つまり世界の見え方が決定的に異なる者同士が互いに歩み寄るとき、そこには必ず摩擦が生じる。
その摩擦こそが、相手と本気で向き合って橋をかけようとしている作業でもあるということです。
僕らが日常生活のなかで感じる他者との「わかり合えなさ」の正体を、この本は真正面から突いているなと思います。
「橋をかける」という理想を捨てずに、しかし現実からも目を逸らさない。これは「理想を忘れない現実主義」の姿勢そのものだと思いました。
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で、特に感動したのは、鴻巣さんの本書全体に宿る「文体」、その敬意の部分です。
具体的には、翻訳元になっている原著者への敬意はもちろんのこと、それを日本語で受け取る読者への敬意も決して忘れないと心がけていることが、本書の内容の節々から伝わってくる。
それが、この本の「文体」として、全体を通して見事にあらわれているなと感じるのです。
この「文体」の敬意の話は、今話題の三宅香帆さんの『考察する若者たち』での議論にもつながる部分があるなと感じています。
最近の「考察」ブームは、制作者の「たった一つの正解」を当てるようなゲームになりがちです。
そして、若者たちはそのたった一つの正解を求めて、考察コンテンツを追い求める。
でも批評というのは、本来たったひとつの「正解」を導き出すことが目的ではないはずです。
いくらでも誤読してもいいし、でも同時に、誤読し過ぎるのもまた良くない。
じゃあ、一体何が大事なのかといえば、対象を称賛するにしろ、批判するにしろ、そこに制作者と、その批評を読む読者に対しての適切な敬意が存在するかどうか、です。
そして、翻訳もまったくそれは一緒。
どうしても僕らは原著者の主張、そんなたった一つの正解があって、それを限りなく正解に近い形で翻訳することが、翻訳の正しい姿だと思っている。
でも、本書を読むと、本当はそうじゃないということがヒシヒシと伝わってきます。
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もちろん、著者が本当に言いたいことにどこまで寄せられるかという視点は大事。でもそのときに、読者の視点も忘れてはいけない。
その寄せ方(離し方)の「節度」や「配慮」にこそ、人間としての愛やリスペクトが宿る瞬間でもあるんだろうなと思います。
読書会の中でも話題にしましたが、オーディオブックの朗読もまた一つの広義の「翻訳」だと思いました。
僕が「オーディオブックカフェ」というPodcast番組を運営する中で、いつも感動するのは、同じ文章でも、それを読むナレーターさんがどのように感情を乗せるかによって、その味わいは全く変わってくるということ。
そして、著者ご本人がそんなナレーターさんや声優さんを褒めるとき、そこには「自分の言葉を真剣に理解しようとしてくれた」という誠実なリスペクトを感じとって、褒めている場合が多いなと思うのです。
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逆に言えば、自分の込めた思い(たったひとつの正解)にどれだけ近かったかという要素は、副次的だなとさえ感じます。
このあたりも、翻訳の妙だなと思いますし、僕らは基本的に、この「ひととひととの間に立ち現れるリスペクトや敬意」こそを本当は観察している。
それこそがコンテンツの中身だったりもする。
原作小説や原作マンガがある映画なんかも、まさにそうですよね。
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あと、もうひとつ、僕が本書で深く感動した点があります。
西洋と日本の視点の違い、具体的には西洋には第三者としての超越的な視点が組み込まれた小説が多く、でも日本語ではそれが表現しにくいという話を説明する時に、鴻巣さんは安易に「神(一神教)」概念を持ち出さない。
普通だったら、超越的な視点となった次点で、“一神教の神の視点”という説明をしたくなるはずなんです。でもあえてそれをしていない。
その書かれていても当然のことが、書かれていないことにも、本当に感動しました。
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最初は、本当に不思議でした。「なんで…?」と。
本書の中で参照されているほかの書籍や著者陣の名前を見る限り、鴻巣さんが、そのような説明を知らないわけがない。むしろ一番熟知しているはずです。
でも、よくよく考えると、それもよく理解できるなと途中から感じ始めました。
なぜなら、宗教を持ち出した瞬間に、そこに大きな分断を生んでしまうからなんだ、と思います。
「根底に流れている宗教(性)が違うなら、お互いに分かり合えるはずがない。」と僕らは思ってしまいがち。
でもそうやって、安易に分断を招かないこと。その節度が、この不作為の部分に強くあらわれているなと思いました。
あくまで、ご本人の専門分野である翻訳や言語という土俵から離れずに論じようと努めていたこと、その矜持に対して、本当に強く心打たれました。
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また、読書会の中で出た「言葉が通じず、母国が異なる相手との恋愛」の話から、僕も自分の若い頃の経験を思い出しました。
僕はかつて中国で暮らしていたころ、お互いの拙い中国語を介して、韓国人の女の子とお付き合いしていたことがあります。
お互い母国語ではない、中国語で会話をする。ふたりとも初学者です。
当然、ボキャブラリーが足りず「深い話」ができなくて、最後にはお別れする道を選びました。
でも、そのときに僕が感じたのは、「伝わらない」という絶対的な前提から始まるコミュニケーションの「豊かさ」だったんです。
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逆に言えば、同じ日本人同士だと「ちゃんと日本語を正しく運用することで、相手にも伝わって当然」という甘えがそこに生まれてくる。
伝わらないのは、相手の理解力が悪いんだと思い込み、余計に正しい日本語、正しいロジックで相手に伝えようとしてしまう。
でも、最初から文化も言語もまったく異なる「絶対的に伝わらない他者」だとわかっていて、なおかつ相手も自分にそう感じていて、お互いの母国語ではない言語でコミュニケーションを取るとなれば、身振り手振り、表情、言い換え、間合いなど、あらゆる手を尽くして、丁寧に届けるしかなくなってくる。
その“手を尽くす”という、ある意味で消極的な踏み込み度合いこそが、実は一番相手を慮っている時間だったりするんですよね。
まさに、「伝える」と「伝わる」の違いです。
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で、これが「あとがき」の部分につながるのですが、本書の最後には、AIが発達し、これから僕らのコミュニケーションはどう変わっていくのかも書かれていました。
この部分を読んで、確かに翻訳作業はAIに置き換えられることは間違いないけれど、むしろ、翻訳者的な視点や視座は、これからますます求められる時代になるのだろうなと確信しました。
それは一体どういうことか。
AI翻訳を使えば、言葉の壁は見事に消えて、全世界の人間がシームレスにつながる世界がやってくるかもしれない。
でも、その言語的な摩擦のない世界は同時に「他者がいなくなる世界」でもある。
本書のあとがきには、以下のように書かれていました。
ぶつかった壁を何とか乗り越えようとする苦しみや痛みの中で、私たちは他者がいるということを学びます。それゆえに他者への理解が深まり、歩み寄りの精神が育まれる。その機会が失われるというのは、重大なデメリットです。(中略)AI翻訳やAI通訳に頼り続けることで、異質なものとの接触や、それを乗り越えた共存といったことを、ますます面倒に思う、あるいは避ける傾向が確実に生まれてくるのではないか。他者と自ら向き合うマインドセットがなくなっていくのではないか。そう思うのです。
相手と自分が、何の苦労もなく理解し合えていると錯覚したとき、僕らは相手に伝わらないときのフラストレーションに耐えられなくなってしまう。
だからこそ、あえて翻訳という「摩擦」を引き受け、そこに橋をかけ続けようとすること。
そのときに人間側に立ち現れる節度や、相手に対する敬意や配慮こそ、人と人とのコミュニケーションにおいて、実はいちばん必要な部分なのだと思います。
AIによって、翻訳が完ぺきにできるようになるのは、むしろ急がば回れ、なんなら世の中には悪影響を及ぼすのかもしれない。
まさに、聖書の中に出てくる「バビロンの塔」みたいな話ですよね。
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そうじゃなくて、「あなたのことがわからないから、もっと知りたい、もっと教えて」が本当の愛の言葉であるという内田樹さんのあのお話、
福田恆存が紹介していたオスカー・ワイルドの言葉「あら、大変。理解というのは結婚にとって最大の障害よ」というあの教訓話を大切にしたい。
つまり、翻訳という行為に真摯に取り組もうとするときに、僕らの中に芽生える感情や意識の変化こそ、今の僕らが失いかけてしまっている本当に大切な「何か」であるような気がしています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
