「自分の話が相手に聞かれていない、相手の話を自分が聞いてあげられていない」
それが現代社会における大問題のひとつだと思います。
だから、東畑開人さんの『聞く技術 聞いてもらう技術』みたいな本が、ベストセラーにもなる。
最近、この本がオーディオブック化されたので、改めて聴き返したのですが、この本の中でやっぱりいいなあと思うのは「時間をかける」というお話でした。
以前もこのブログの中で、ご紹介したことがあります。
具体的に、東畑さんは本書の中で「メンタルヘルスケアのアルファにしてオメガは、つまり初歩にして最終奥義は、時間をかけて何回も会うことです。」と語り「結局のところ、信頼とは時間の経過によってしか形作られないものです」と本書の中で書かれていました。
詳しくはぜひこちらの記事を参照してください。
1時間の、たった1回かぎりの名人芸なんかよりも、拙くてもかまわないから、何度も聞く、そうやって時間を味方につけることが大事なのだと。
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ただ、一方で「それができたら苦労しないよ!」とも、この本を読み終えると同時に思われてしまうはずです。
「限られた資源やリソースの中で、それができないから困っているんじゃないか!」という声が各方面から聞こえてきそう。
「これだから、学者先生は困る!」という話なんだろうし、実際問題そのとおりだと思う側面もありつつ、ただそれだけじゃないとも思うんですよね。
じゃあ、何が一体どう食い違っているのか。
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繰り返しになりますが、いま多くのひとが困っているのは「聞かれていない、個人として聞いてあげられていない」ということです。
各組織の管理職のひとたちや、学校の先生など、何か自分たちが聞くべき立場にいるひとたちも、職務怠慢ではなくて「できることなら、いくらでも聞いてあげたい」と思っている優しい責任感があるひとが大半なはずです。
特に日本人は真面目だから、自らの職業の範囲を超えてそのことを大事にしたいと思っているはずで。
でも、それをやってしまうと体が持たない、あと10人ぐらい自分が必要になる。
そして、もし少しでもそれをやってしまうと「不公平だ!」という話にもつながっていく。「あの社員や生徒の話は聞いているのに、私の話は聞いてくれない」と不満につながる。
だから「だったら、全員に平等に聞かない」という選択肢を取らざるを得なくなるわけで、その結果、私の話が聞かれていないという社員や生徒が、社会の中に続出するわけですよね。
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そしてもっと厄介な点というのは、話というのは、本質的には聴けば聴くほど、複雑性が高まっていく性質があるということだと思います。
なんとか、社内の人間全員のそれぞれの10のうち1を聞いたら、残りはひとりひとりの中に9だけ存在すると普通なら思う。
だから道は遠くとも、でも1割は問題が解消したんだと思いたい。
でも本当は、1を聞いてしまったら、残りは99に増えてしまう。それが聞くという行為なのだと思います。
つまり、終わりがないわけです。むしろ本気で聞けば聞くほど、その複雑性は拡大していく。まるで複利のように。だから、より一層困ってしまうわけですよね。
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現代の本当の「聞く」にまつわる問題点はきっとここにある。
1対1なら可能かもしれないけれど、管理している全員の話を聞く時間がない、そして聴けば聴くほど、複雑になっていく。
東畑開人さんが提案しているような「聞けない」ことに対する最終奥義は「時間をかけて何度も会う、会い続けること」それは間違いない。
でも、それは問題の一部分に答えているだけであって、本質的な解決にはつながっていかない。それを実現しようとすれば、自分の体がいくつあっても足りない状態に陥ってしまう、ということなんだと思います。
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じゃあ、どうするのか。
ひとりで聞こうとしない。むしろ「場」で聞くことが大事だと思うんですよね。
これが最近の僕の仮説であり、今日のメインテーマです。
たとえば、もし僕が、1人でこのサロンに所属してくれている100人以上のメンバーの話をすべて自分一人で聞こうと思ったらすぐに崩壊する。そんなのはやる前から、目に見えています。
お金も時間もいくらあっても足りない。
でも一方で、自らが発起人となって、100人で、100人の話をお互いに聞き合うということは意外と可能だと思うのです。
だったら、それをどうやって構築していくのか、そちらのほうに目を向けたい。
さらに、その時にとても重要なことは、全員が聞いているようで、全員が聞いていない状況をいかにしてつくりだすかがきっと大事になってくる。
「えっ、どういうこと?」って思うかもしれないけれど、それぞれが具体的なタスクや義務として抱えないことが、とても大事だと思うんですよね。
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それでも、ちゃんと対話が成立していること。
明確に誰かに聞いてもらえているわけではないけれど、話している本人がちゃんと受け止めてもらえていると思えること。また、聞いている本人も「聞けてない」という負い目など、負担を過度に感じないこと。
それをどうやって構築していくのかが、めちゃくちゃ大事だなあと思うわけです。
「そんなこと実現可能なの…?」と思うかもしれないけれど、もともと宗教や神話、それにまつわる「神概念」みたいなものだって、似たような効果効能を有していたわけでもあるから決して不可能ではないはずです。
その一つの仮説として、「場で聞く」ということをちゃんと生み出すことができれば、世の中でいま問題になっている「聞いてもらえない、聞いてあげられない」という課題に対して、解決の兆しも見えてくるのではないか、と思うわけです。
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じゃあ、そのような「場」におけるルールとは一体何か。
それが次の問いになるかと思います。
でも、そのルールというのはきっと明確に決めてはいけないのだと思うんですよね。
ここもまたわかりにくい話で、ごめんなさいとは思っているんですが、何か場としての方針が定まると、僕らは必ず次の段階として、すぐにマニュアルのようなものに落とし込みたがる。
でもそうやってマニュアル化して、機会の平等のようにして計測できる方法で聞けば聞くほど、不平等な方向へと拡大していくのが、オチなんですよね。
「予め聞き方のルールや時間配分、役割分担を決めましょう」なんてことは、そもそも不可能なんだと思うのです。
「聞かれていない」「聞いてあげられていない」という嘆きや葛藤みたいなものは、マニュアル化した瞬間に、そこから消えてしまう「こころ」や「たましい」みたいなものだから。
このあたりは、東畑開人さんや河合隼雄さんの書籍を読んでいると、本当によく伝わってくる話で、ご興味のある方は、ぜひおふたりの本を積極的に手にとってみて欲しいなあと思います。
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ただし、だからといって、僕は決して実現可能性を諦める必要はないと思うのですよね。
このときに必要なことは、村上春樹の『騎士団長殺し』の中で出てくるセリフ「とりあえずの信頼と尊重。そしてとくに礼儀」みたいな話なんだろうなあと。
そのような向き合い方や姿勢が、メンバー全員の間でグルグル循環している空間をどうやってつくりだすのか、それがカギだと思っています。
『騎士団長殺し』のあの話も「お互いが前提として認識しているルールを、あえて確認し合うことはしないことが大事」というちょっと変わった不思議な話なのですが、でも本質的には間違いなくそうなんです。
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どうしても、ルールブックやマニュアルにしてしまうと実現不可能なものというのは、この世には存在する。
それをした瞬間に、それまで自由に「たましい」同士で交流できていたのに、その瞬間に殺されてしまう何か、がある。
でも不思議と、ひとつの創造物、そんな場や空間としてならなぜか調和的に実現してしまえるものがある。それが、この世界の不思議でもある。
というか、きっと宗教施設や建築、アートなどなどその他諸々の創作物においては、意外とすんなりとそれを描いているものって、実はいたるところに存在するものでもあると思うのです。
だからこそ、人間は「創作物」や「場」をつくったということなんだろうなあと思います。
地味にここめちゃくちゃ重要なポイントだと思っています。今日一番の強調ポイントでもある。
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意識やロジック、脳化社会においては、いつまでも理詰めで考えても不可能な領域。
なんだけれども、一枚のキャンバスの上にとか、一つの楽曲の中にとか、ひとつのコーディネートやルックの中にとか、ひとつの建物の中にとか、ひとつの長編小説のなかにとかは、ありとあらゆる創作物のなかには、言葉にならない言葉として、見事に調和的に実現されているということは存在しうるわけですから。
タイムラインにシェアした伊勢神宮の話なんかもきっとまさにソレだと思います。
https://wasei.salon/timeline?message_id=8343528
これを誠実に正確に文章にしようとするとどうしても「一即多、多即一」「絶対矛盾的自己同一」とか、どう考えてもありえないような表現となってしまう。
でも、僕はそれを目指したいんですよね。「場」での実践においては、必ずソレが顕現できると思うから。
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話を最後にまとめると、いま多くの人が抱えている「聞いてもらえない、聞いてあげられない」という課題感に対する本当の解決策は、ひとりひとりの聞き方の問題というよりも、「場として聞く。かつ、全員が聞いているようで聞いていない空間」をどう設計するかの問題であるはずです。
さらに、その場のルールやマニュアルを明確にしすぎず、「とりあえずの信頼と尊重。そしてとくに礼儀」をお互いに大切し合う、そしてゲームを進行し続けて「時間」をかけてお互いが会い続ける、そのための余白みたいなものを常につくり続けるということなんだろうなあと思います。
それが循環して生きているような「場」として、Wasei Salonも運営していきたいなあと。それが僕が今やりたいことでもあり、みなさんと一緒に丁寧につくりだしていきたい、まさに「共創物」なんだろうなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2024/08/18 21:13