先日、溝口健二監督の『山椒大夫』を観ました。

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1954年に公開された映画で、原作は森鴎外の短編小説『山椒大夫』だけれども、かなり改変された、ほとんど新しい物語と言っていい作品です。

唸るとは、まさにこういうことなのだと思いました。

なんと素晴らしい作品を残してくれたのだろう、と心から感動した。

溝口健二作品は『雨月物語』『西鶴一代女』に続いて観てきたのですが、ジブリの鈴木敏夫さんが「溝口健二作品は全部好き、駄作なし」と語っていたと記憶していて、その感覚も、ものすごくわかる気がしました。

もちろん、僕はまだ全部を観たわけではありません。だけれども、この三本を続けて観ただけでも、「たしかにそう言いたくなる監督だろうな」と思わされる。

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見つめている世界がずっと一貫しているし、そこに描かれている無常観も、本当に素晴らしい。

こんなにも凄まじいものが、すでにこの世に贈られていたのかと、観終わったあとにため息が出てしまうほどです。

でも、今回強く残ったのは、ただ「すごい作品を観た」という感想だけではありませんでした。

むしろ、自分がこれまで深いものだと思っていた問いや、自分なりに切実だと思っていた感覚の足場そのものが、じわじわ崩されていく感じのほうが大きかった。

今日はそんな話を、正直に、包み隠さず書いてみたいなと。

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この点、「名作だから、ちゃんと観ておこう」くらいの教養的な距離感では、まったく受け止めきれないものがありました。

こちらが理解しにいくというより、向こうから圧倒的な厚みをもって届いてきて、こちらの感受性のほうが、勝手に揺さぶられてしまう。

予期していなかった贈与を、ある日ふいに受け取ってしまったような感覚です。

そして、こんな言い方をすると本当に申し訳ないのですが、ほんの少しだけ、羨ましいとさえ感じてしまいました。

もちろん、あの時代の艱難辛苦を、自分も実際に味わいたいわけではありません。

そんなことを軽々しく言えるはずもない。けれど、それでもなお、なんだか羨ましいと思ってしまったのです。

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あれほどの苦しみ、あれほどの不条理、あれほどの倫理的な極限をくぐった先にしか立ち上がってこない表現というものが、たしかにあるのだろうと強く思わされてしまった。

そしてそのことは、いまの自分がどれほど薄い地面の上に立っているか、それを残酷なくらい明るく照らし出してくる。

正直に言えば、僕はあの作品に打たれながら、自分の生の薄さまで一緒に見せつけられていたのだと思います。

味わっている艱難辛苦、その次元が違う。だからこそ、そこから生まれてくる表現の迫力も、そりゃあ違って当然だよなと思うのです。

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そして、たまたまその直前に、川村元気監督の『8番出口』も観ていました。

そこに描かれている実存的な問いは、間違いなく自分のなかにもあるものです。あの作品の感覚が、いかにも現代的なものとして共有されていることも、よくわかります。

でも、その直後に『山椒大夫』を観てしまうと、正直、ぶっちゃけ「なにそれ……?」と思ってしまったのです。

もちろん、川村元気さんのことを批判しているわけではありません。いちばん嫌なのは、その「なにそれ」が、作品への批評である前に、自分自身への批評として返ってきてしまうことでした。

『8番出口』に描かれている閉塞感や違和感や不穏さは、間違いなく自分のなかにもド真ん中にある。

だからこそ、それを軽く扱うことはできない。けれど『山椒大夫』のあとでは、それらの問いが、ずいぶん守られた場所から発せられた「安全な絶望」のように見えてしまったのです。

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あの映画の中で、二宮和也さんが演じる主人公が感じる苦しみは、本物なのだと思います。

でも、その苦しみは、どこかまだ生易しいというか、ひとつのエンタメにすぎない。

僕はそのこと打ちのめされたというより、なんというか、自分がそういう「安全に苦しめる環境」の住人であることをまざまざと見せつけられてしまったのだと思います。

その瞬間、自分の薄っぺらさをガツンと殴られるような感覚がありました。平和ボケという言葉すら、少し便利すぎるぐらいに、です。

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もっと根本的に、自分がどれだけ軽い地面の上で、「深い問い」のつもりのものを語っていたのか。

そのことを、ふたつの作品を同時に見ることで、見事に暴かれたような気がしました。

で、そこで思い出したのが、村上春樹さんが以前どこかで書いていた発言です。

「自分たちの世代には書くことがない。だから、そこから始めなければならない」そういう趣旨の話です。

以前、この言葉を何かのエッセイで読んだときは、なるほど、と思いながらも、どこか少し文学的な決意表明のようにも感じていました。

でも今は、その感覚が前よりずっと切実にわかるような気がします。

ただ、いまの自分にとって問題なのは、単純に「書くことがない」ということではない。

むしろその逆であって、自分のなかにはたしかに問いがある。不安もあるし、閉塞感もあるし、現代的な実存の揺れもある。それは間違いなく身体性を伴っている。

けれど、その問いそのものが、もっと苛烈な表現の前に立たされた瞬間、ひどく薄っぺらく見えてしまう。

そしてたぶん、いちばん辛いのは、その薄さをどこかで自分でも前々から知っていた、ということです。

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知っていたのに、ずっと見ないふりをしてきて、「それでも十分に深い」と思い込もうとしていた。

だからこそ『山椒大夫』がきつかった。作品に圧倒されたというより、自分のごまかしを見事に剥がされた感じがしたからです。

では、そんな自分は一体どこから書けばいいのだろう、と。

何もないところから始める、というより、自分の問いの薄さ、自分の感受性のつまらなさ、自分のごまかしを自覚するところから、始めるしかないのではないか。

村上春樹の「書くことがない」とは少し違うけれど、少なくとも僕にとっては、いまはそこが出発点になるんだと思います。

しかも厄介なのは、いまの時代は、ただ「自分たちは平和な時代に生きている」と言い切って済む感じでも、だんだんなくなってきていることです。

具体的には、戦争の足音が少しずつ聞こえ始めて来ているわけだから。

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最近は日本国内でも、反戦デモの話題を見かけることが増えましたし、SNSでも、そういう切実さを帯びた言葉が以前よりも多数流れてくるようになった。

でも、そこにも、僕はうまく乗れないのです。どうしても、冷めてしまう。距離を取ってしまう。どこかでデタッチメントしてしまう。

もちろん、戦争には明確に反対です。今の世界情勢に対して、危機感がないわけでもない。2026年には入ってから急激に現実の何かが変わりつつあるのだろうという感覚も、たしかにある。

それなのに、反戦の言葉に、そのまま自分を乗せることができない。デモに参加している人たちを冷笑したいわけでもないのに、です。

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たぶん僕はいま、この感覚を「無関心です」のひとことで済ませたくないのだと思います。

本当に無関心なら、そもそもこんな引っかかり方はしない。でも同時に、自分はちゃんと切実に反応できている、とも言えない。むしろ、「ちゃんと反応できない自分」を前にして、呆然と立ち尽くしている、という感覚のほうが近いのかもしれません。

もっといやな言い方をすれば、僕たち現代人はいま、悲劇の当事者である前に、悲劇の気分をエンタメ的に消費することに、慣れすぎているのかもしれない。少なくとも僕自身は、かなりそうです。

切実な話題に触れて、少し傷ついてみせる。そして少し考えて、少しだけ正しい言葉にしてみる。

でも、そのどこかで、まだ自分は完全な安全圏にいる。本当に壊れるところまでは行かない。

そして、「正しさや切実さに触れた気分」だけを都合良くお持ち帰りしてしまう。

そういう自分がいることを、今回はかなり嫌な形で見せつけられたなあと思います。

そして僕はいま、その感覚をなかったことにして、わかったような熱い言葉だけを書きたくないのです。

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反戦の言葉に、すぐ乗れない自分を正当化したいわけではない。そこはくれぐれも誤解しないで欲しいところです。

「ほら、こういうデモにはまったく意味がないんだ」みたいな、冷笑的なことを書きたいわけでもまったくない。

むしろその逆で、自分のほうがおかしいのではないか、自分の感受性のほうがぶっ壊れているのではないか、という不安のほうがずっと強い。

でも、それでもなお、ここで嘘の熱だけは絶対に出したくはないんです。

だからこそ、書くとしたら、たぶんここからなんだろうなあと漠然と思っています。

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溝口健二監督作品に打ちのめされて、川村元気監督の『8番出口』も同じタイミングで観て、自分の実存的な問いの薄さを、思い知ってしまったこと。

たぶん僕は、そこからしか書き始められないのだと思います。

いま言えるのは、少なくとも僕は、そこをごまかしたままでは、もう何も書けない、ということだけです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。