先日、『読書と日本人』を読みました。

ツイートにもあるように、本書は日本における「読書史」をまとめた本になります。

この本を読みながら、得られた大きな発見の一つは、「若者が軽薄短小なコンテンツを好むようになったのは、今に始まったことではない」ということです。

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「近頃の若者は、読みやすい小説やエッセイ、マンガのような〈やわらかい本〉ばかりを読むようになった」という批判は、1960年〜1970年代には既に始まっていたらしいのです。

つまり、ここ半世紀以上ずっと長く続いている長期トレンドであるということ。

逆に言えば、本書の中に書かれているように「読書の黄金時代」と呼べるような大正から昭和にかけての20世紀前半部分だけが、異質な時代だったとも言える。

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当時の若者が軽薄短小の「やわらかい本」に流れた原因は、みなさんご想像のとおり、高度経済成長期の影響や、映画、テレビの登場などが大きかったようです。

今はそこにインターネットが加わって、さらにその勢いが加速しているに過ぎない。

一方で、じゃあこのまま思想書や哲学、宗教など「かたい本」自体が消えていくのかといえば、そうではない。

話が逸れてしまうので、ここで詳しくは書きませんが、本書を読む限り「かたい本」も絶対になくならないであろうなと確信できます。

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そして、この読書の歴史の流れは、仏教における小乗仏教と大乗仏教の構造にも非常によく似ているなあと感じました。

「かたい本」を好む層は、仏教で言えば小乗仏教のような系譜に近くて、座禅を組みながら日々悟りを目指す修行僧のような人々。

一方で、「やわらかい本」を好む層は、大乗仏教のような系譜に近くて、「他力本願」や「南無阿弥陀」と唱えるだけで浄土に行けるという発想に近い。

これは、どちらが正しい、間違っているという話ではなく、同じ思想(教義)が源流であっても、そのように分岐していくことは、人間社会においては自然の摂理に近いということなのでしょう。

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言い換えると、人々の心を掴むさまざまな表現方法によって、これからますます「かたい本」に書かれているような内容が民主化されていくはずです。鎌倉仏教時代のように。

今であれば、YouTubeの解説動画や、現代の倫理や道徳問題を描いた大人向けの漫画やアニメなどもそれに当たる。

もちろんその間に、それぞれの作者の描き方によって曲解されたり誤解されたりも繰り返すでしょう。しかし、それさえも仏教が通ってきた道に近い。

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読書に限らず、人々が触れるコンテンツは、これからより一層、軽薄短小のコンテンツに流れることは間違いなそうです。

そんな時代を生き抜いていく中で、自分は一体どんな方法で、何を学ぶのか。

また、自分が発信者側となったとき、何について、どのような方法で発信していくのか。

そんなことを歴史の流れから俯瞰して、改めて自分の立ち位置を考えさせられるとても素晴らしい本でした。

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日本における読書の歴史を知るということは、日本人の知的好奇心の変遷を知ることに直結します。

日本における「思想史」や「宗教史」と合わせて読むと、さらに理解が深まるかと思うので、下記の本もオススメです。