今朝、こんなツイートをしてみました。

分類したり、概念化したり、いろいろな形でこの世界を分節化してきたのが「言葉」です。

でも、よくよく考えてみると、その言葉における分節化は、何ひとつ当たり前のことでありません。

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たとえば、目の前にいる二匹の犬を同じ「犬」と認識できるのは、言葉のおかげです。

僕らは、自分が飼っている犬など、よほど特別な存在じゃない限り、それぞれの個体をまったく別の存在だなんて考えない、犬は犬です。

しかし、宮崎駿監督は同じ犬であっても、それぞれが全く異なる別の存在だと認識するそうです。決して「犬」という大きな括りで認識することはない(できない)そうです。

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一般人の僕らからすると、なんとも不思議な感覚ですが、犬を人間に置き換えて考えてみると、その意味するところもなんとなく理解できるような気がしてくる。

たとえば、現在開催中のオリンピックでは、画面に映っている二人の人間を同じ「日本人」として括って、姿形がよく似ている中国人と区別し、「こっちの二人が自分と同じ日本人だから、彼らを応援しましょう」という話になる。

そして、それになんの違和感も持たずに、僕らは納得しながら応援してしまう。

しかし実体はすべて「人間」です。もっと大きく捉えたら動物(生物)です。そこになんの違いがあるのかはわからない。

逆にそれぞれは、全く異なる固有の存在でもあります。「生物」どころか「人間」とひとつに括ること自体もおかしいとも言える。

しかし僕らは、そのような勝手に分節化された「共同幻想」を素直に受け入れて、

「なぜ線引きがそこなのか?」を一切疑わずに、言葉のある世界で行われている「遊び(ゲーム)」に無意識のうちに参加してしまっている。

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そもそも、このような思考自体が言葉で考えられてしまっている以上「その道具を使いながら、同時に道具がない状態を考える」という、どう考えても不可能な所業でもあります。

そもそも「言葉」以前の世界を生きていた人間が、何かを考えながら世界を捉えていたのかさえもわかりません。

でもだからこそ、自分が圧倒的に遅れてきた存在であることに自覚的でありながら、それ以前の世界を想像することは、とても大事なことのように思うのです。

なぜなら「当たり前のようにこの世界に存在し、存在さえ疑ったことのない何か」ほど、僕らに与えている影響、その功罪が根深いものはないからです。

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これもきっと、いつまで経ってもその真実はわからず「王手を刺し続けること」しかできないのでしょう。

ただそうやって、グルグルとその周辺を回りつづけることには、とても価値があることだと僕は思っています。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。