考えることの重要性を日々書き続けていると、「考える」と「悩む」の違いについて問われることが多々あります。

僕自身も、その答えをずっと探し続けてきたので、誰かに聞いてみたくなる気持ちは痛いほどよくわかる。

書籍やインタビュー記事の中で、なんだかそれっぽい答えを見つけてみては、できるだけそこに書かれている「考える」の方向にだけに舵を切ろうと必死になり、「悩む」を極力回避しようとしてきました。

でも、そうやって自ら実践すればするほど、どうやら「悩む」と「考える」はそんなに簡単に切り分けられないのかもしれないと気付きました。

むしろこの二つは、かなりグラデーションに近い。

だからこそ、僕は積極的に「悩むこと」も推奨したい。

なぜなら、私たちは「悩む」ことをできるだけ避けたいと願ってしまうがゆえに、「考える」からも日々遠ざかってしまっていると思うからです。

今日は一風変わったそんなお話を少しだけ。

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思うに、ひとは「悩む」という過程が苦しくて、それが耐えられないから、他者に議論をふっかけてしまうのではないでしょうか。

「公共の福祉」に関連するような「個人の権利」がバッティングするような場面であれば、その落とし所を探るために議論はたしかに必要です。

しかし、「生き方」や「働き方」のような他人に迷惑をかけるような選択ではないことまで、他者に議論をふっかけてしまうのは、どう考えてもおかしなことです。

つまり議論って、自己の中に存在する矛盾や葛藤から逃れたいがために、自分とは異なる他者(それはまちがいなく自己を投影している)を論破して、自分の正当性を全力で証明したがっている証拠なのだと思います。

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しかも、多くのひとはそんな議論をふっかけることさえ行う勇気が出ない。

だからこそ、自分の悩み(葛藤)が投影されている声が大きい著名人の議論を遠くから眺めて、安全な場所から判断しようとし、なんだか正しそうなことを言っていると感じる論者のあとをウロウロとついていくことになる。

でもそうすると、いつまでたっても自分の中の違和感は残ったままとなりませ。

その違和感を見て見ぬふりをし「内なる声」を無視し続けていると、「考える」ことが一切できない人間になってしまう。

常に「正しそうなことを言っている人探し」に終始してしまうようになるのでしょう。

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何度もこのブログに書いてきたように、世の中の事象のほとんどは、一見すると矛盾や葛藤だらけです。

しかし、そこで胆力を持って眺め続けていると、ふとした瞬間に「弁証法」的に、止揚(アウフヘーベン)するタイミングが訪れる。

どちらの概念も包括したような全く新たな次元や視点から物事を眺められるようになるのです。

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「わからない問いを、あえてわからないままにしておくことの重要性」というのは、つまり、そんな矛盾や葛藤に耐えて、日々悩み続けてみたほうがいいということなのかもしれません。


だからこそ、僕は「悩んだり葛藤したりすることを決して恐れるな」と伝えたい。

幼いころ、自転車に乗れるようになるためには、何度も何度も転ばなければいけなかったと思います。

転ぶことを最初から避けていたら、決して自転車に乗れるようにはならなかったはず。そのときにできる生傷や、流れてくる血は生きている証です。

そんな生傷をつくる過程を経てやっと、親の支える手や補助輪なしでも自転車に乗れるようになるのですから。

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矛盾や葛藤の中で人は成長する。

そこからしか、本当の「考える」は始まらない。

このように捉えることができるようになると、どれだけ苦難の道であっても、自分自身で考えることから目を背けることはなくなるかと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。