先日開催された「自分にとっての"居場所"はどこにあるのか?」の対話会に参加させていただきました。
そこで自分から出た言葉、みなさんから聞かせていただいた言葉から考えを深めたく、ここに書き残したいと思います。
最初に、この「居場所」の言葉と向き合いました。
まず、ひっかかったのはこの言葉を場所を示すときに使うことはほぼなく、概念の要素として使うことがほとんどかもしれないということ。
そこから深堀ってみます。
自分がここにいると実感できる場所
「いる場所・いどころ」というこの言葉の意味から「居場所」を考えるとき、実家や自宅、会社や地域の方が集う場が一般的に連想できそうです。しかし、その場所が居心地が悪いときもあったり、もっといえば居場所だと思いたくない場合もあるはず。
それは対話会でも出てきた「ここではない感」。
抽象的であるのにとても共感できました。
逆に「ここである感」を示すときは、人とのつながりのなかで、かぎりなく自然体でいれる場のメッセージ(もしくは概念)としてよく「居場所」として使んじゃないかな、と。
不登校の方に向けたそういう場所を作ろうとしている方がおっしゃっていた「おまえがいつ来ても大丈夫だよ」というメッセージが、まさにそれなんじゃないかなと、ふと思い出されました。
しかし、人が介在しない「居場所」もある
人とのつながりがある感覚が「居場所」。
しかし、しかし。
なんか好きという説明がつかない風景やなにか心から懐かしく安らぐと感じられるとき、はじめて訪れた場所に対して「居場所」を感じられることもありそうです。
例えば、わたしの場合、学生時代バスケットボールを頑張ってきた体験から、学校のバスケットゴールがある体育館がそういう場所だったりします。
そのほか、海、山、川、島、星空の下、図書館や、マンションの屋上やワンルームの部屋、喧騒の中や遠くに街の営みが見える景色、お気に入りの本が並んでいる本屋など、決して同じではないであろう場所がそれぞれあるように思えました。
わたしの中にある自然の風景だと、両親の実家が鞆の浦という海の田舎町、そして、大阪の実家の横に流れる淀川の風景が思い出されました。私が移住先を沼津を選んだ理由も海と川が近くにあったほどです。
外にでれば、必ず川と海があり、その風景に足を止め長い時間過ごすことも稀にあります。
人が介在しないその「居場所」感はどこから、なぜ生まれてくるんでしょうか。
ここで出てくるキーワードが「孤独感」でした。
孤独から生まれる「居場所」
訪れた経験や過去の経験がなくても、自分がひとりになれる。無になれる。何時間もいれる。そういう「居場所」もたしかにありそうです。
なので、概念の要素だけの考えでは「居場所」は示すことは難しいなと考えを改められました。
「居場所」とは、感情と素直に向き合えることを潜在的に、つまり、おそらく魂や心から感じられるとき、そしてそこに広がる風景がなんじゃないかと。
自分の喜怒哀楽などの感情が「居心地」という場を通るとあたたかみや落ち着き、孤独感、無がある。というイメージです。
「悲哀」と向き合える場所
リアルでも概念でも人それぞれ「居場所」が違うということに納得できました。
最後にこれはまだ思考中なんですが、どちらかといえば悲哀、怒りなど、言葉にすることが難しい「呻き」と向き合える居場所が人はあったほうがいいとも思えました。
人が静かに魂や心からこの感情を語るとき、そういう場であることが人には必要だと思うからです。
コーチングにおいて悲しみや苦しみなど「沈黙」も許される場作りを大切にするべきというわたしの想いも含まれていそうです。
コーチングという場がもしかしたら「居場所」と心から感じていただける可能性があり、そういう方にいつか出会うかもしれないその空気を大切にしなければいけないと改めて想えました。