いま僕らに足りないのは、お互いの人間性を否定し合わず、それでいて、相手の意見に対してしっかりと反対意見を述べられる、そんな腹を割って議論できる空間なのだと思います。

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思うに僕らは、ネットの普及とともに、相手の機嫌をなるべく損ねないようにコミュニケーションを取ることは、とても上手になっていきました。

特に、平成生まれ以降の若い世代にはそれを強く感じます。

一方で、自分も含め、腹を割った議論はどこか苦手意識を感じているように思えます。

それはきっと、人格否定をされる(したと思われる)のが怖いからなのでしょう。

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つまり、下記の記事でも書いたように、「相手の機嫌を損ねない」形式的な社交性は獲得することができては来たけれど、


本当の意味での「社交性」を身につけることは、まだできていない状態と言える。

参照:協調性を捨て去り、社交性を身につけて、それでも僕らは生きていく。 http://inkyodanshi21.com/books/11342/

では、そんな時に一体何が重要になってくるのでしょうか。

僕は、どれだけ意見が対立したとしても「私たちはここで繋がっている」という安心感なのではないかと思います。

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ここで少し話は逸れますが、近ごろ大河ドラマを淡々と観ています。

『平清盛』(平安末期)→『天地人』(戦国時代)→『西郷どん』(幕末)と観てきました。

どの作品の中でも「そんなに熱く議論したら、コロナが移っちゃうよ…!」と心配になるぐらい、唾を飛ばし合いながら熱く議論しています。

そして、何がおもしろいかって、議論している者同士のそれぞれの繋がり方の違いです。

『平清盛』では、血の繋がった同じ平家の一族同士で。

『天地人』では、同じ上杉家城内の家臣同士で。

そして『西郷どん』では、同じ薩摩藩の武士同士で。

それぞれの範囲が少しずつ広がっていて、それぞれの強い結びつきから生まれる議論が、各時代を動かしてきました。

逆に言えば、あの議論ができる空間がなければ、彼ら(平清盛、直江兼続、西郷隆盛)も生まれてこなかったのでしょう。

決して、個人の才覚だけではないということです。

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さて、一方で欧米では訴訟文化が当たり前で、お互いの権利を粛々と主張し合います。

この、訴訟文化ももちろん大事だと思います。

大事だけど、ただそれだけに頼ってしまうと、やっぱり個人の利益(権利)を最大化をすることが最善となってしまう。

つまり、個人の人権を最大限尊重することこそが合理的な判断となってしまい、自己の権利を主張することが上手な人たちだけが、ドンドン大金持ちとなっていき、現在のような圧倒的な格差を生む資本主義社会に着地してしまう…。

それだけでは持続可能性がなく、強者と弱者の差が広がる一方であることは、皆さん薄々気づいていると思います、

では、そんな時に何が必要になってくるのか。

それがきっと「腹を割った議論」ができる空間であり、腹を割った議論は、議論する者同士のあいだに「何かしらの強い結びつき」があってこそ成立するような気がするのです。

訴訟文化における「裁判所」のような場ではなく。

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近年、個人のプライベートや生きがいを優先することで、地域社会が崩壊しました。

会社も、資本主義の中で利潤や経済合理性を最優先して、もう終身雇用もしないと判断し、個人の居場所(中間共同体)としての役割を終えようとしています。

そんな時代背景の中で、自分の居場所が脅かされずに議論できる空間が、実のところ急務なのではないでしょうか。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているかたがたにとっても今日の話が何かしらの参考となれば幸いです。