最近、ヒルティ、アラン、ラッセルの「三大幸福論」を読んできて、そこからショーペンハウアーの『幸福について』までを読み終えました。

いつか幸福について本気で考えてみたいと思ったら、ショーペンハウアーの本も足して「四大幸福論」として、この4冊を同時に通読してみて欲しいなあと思います。

きっと、20代だと少し早くて、30代半ばぐらいで社会人経験も一通り見渡したと思ったら、それぐらいのタイミングでこれらを読んでみると、かなりおもしろいかと思います。

今日は、その中でもショーペンハウアーの『幸福について』があまりにおもしろかったので、この本を中心に、4冊を読み終えた今、自分が考えていることをブログにも書き残しておきたいなあと思います。

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では早速、ショーペンハウアーの『幸福について』から「もっとも幸せな運命とは何か」を説明してくれている部分から少し引用してみたいと思います。

もっとも幸せな運命とは、精神的にも肉体的にも過大な苦痛なき人生を送ることであり、最高に活気ある喜びや最大級の享楽を授かることではない。最大級の喜びや享楽を基準にして一生の幸福を測ろうとする人は、まちがった物指をつかんでいると言うべきであろう。


これはとてもおもしろい指摘だなあと感じます。

普通の人間は人生に対して「喜びや享楽」を追い求めるけれど、それらは幻想に過ぎないとショーペンハウアーは断言しています。

一方で、精神的・肉体的な苦痛というのは現実にそこにあるものとして確かに存在している。

だとすれば、その現実のほうをなるべく避けるようにするほうが、幸福には近づけるんだというのです。

このあたりは仏教の「一切皆苦」の思想なんかとも、とてもよく似ているなと思いました。

そのうえで、ショーペンハウアーは「現世という悲嘆の場を歓楽の場に変えたくて、できるだけ苦痛なき状態ではなく、享楽と喜びを目ざすのは、実にとんでもない大間違いだ」と語っていて、なんだか読みながら、とてもハッとしてしまいました。

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もし僕がいま20代前半ぐらいで、この文章を読んでいたとしたら「おっさん、何眠たのこと言ってんだよ、おっさんの断固たる決意っていつだよ」って桜木花道ばりに詰めていたと思うのですが、でも年齢を重ねると、この話というのは本当に痛いほどに刺さる。

「そう、そのとおりなんだよ」と賛同せざるを得ない。ぐうの音も出ないほどに本当にそのとおりだなと思ってしまいます。

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ただし、厄介なことは、僕らはそのようなことがわかっていてもなお、「喜びと享楽」を追い求める人生を諦めることができない。

じゃあ、それは一体なぜなのか。

それはきっと、「退屈と寂寞」、つまり孤独に耐えられないからだと思うんですよね。

そして、ここからが今日の本題にも入っていきます。

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たとえば、誰とは言わないですが、常にビジネスの分野で享楽を求めているような破天荒なひとも、「つまらない」と「寂しい」という話をひたすら繰り返しているような気がします。

そして、そのような破天荒な生き方っていうのは、ものすごくひとを引き付けてしまうわけですよね。

誰もが感じるような退屈と寂寞を、まさにビジネスに置ける喜びや享楽において見事に紛らわしているように他人からは見えてしまうわけですから。

でも、本人の目線からすれば、いつまでも自分の追い求めていた幻想に辿り着かない。それゆえに、そのうち気づけば、地球だけでは飽き足らず、ついには宇宙まで目指さなければいけなくなるわけです。

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そして、ここも肝心な部分だと思うのですが、そのような退屈さとつまらなさに対して、それらを克服して楽しんでいる風を見えてしまうから、なんなら自分もその人と同化したくなって、信奉してしまう。

そのうち、そんなジェットコースターのような「ニーチェ的な幸福」を自らも自然と欲してしまうわけですよね。

ちなみに、ここでいうニーチェ風の幸福とは、以前もご紹介したことのある苫野一徳さんの本から引用した言葉から引っ張ってきています。

こちらも、今日の話題と共に本当に重要なご指摘だなあと思うので改めてご紹介しておくと、

ニーチェは、「ああ、この一瞬がずっと続けばいいのに」 という恍惚的な幸福を味わうことができれば、それだけで、もしもこれまでの人生における苦悩が永遠に続くとし ても、その人生を何度でも繰り返し味わうことができると語ったそうです。それがあの夕目な「永遠回帰」の思想。

一方で、それに対してルソーは、瞬間的な恍惚や熱狂など、結局のところ不安や空しさを残すだけで、そうではなく「喜びも苦しみも、欲望も不安も感じず、ただ感じるのは自分の存在だけ、しかも、その存在感だけで自分が 満たされる状態。もし、そんな状態が続くならば、それを幸福と呼んでもいいだろうと言ったそうです。

それぞれの幸福論に書かれていた話は、間違いなくルソーの幸福論のほうに近かったです。

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ただ、ニーチェ的な幸福感、そんなNetflixオリジナルドラマみたいな生き方や人生が、人々をひきつけてしまうから、それを観た多くのひとが、その登場人物たちを自らにおいても模倣しようとして、SNSに上では、そのような生き方のほうばかりが広がっていく。

言い方を変えれば、みんながNetflixのような世界観に慣れてしまったがゆえに、余計にこのような退屈と寂寞を喜びと享楽で紛らわすような表面的な生き方が、人々の憧れの対象となってしまったのだとも言えそうです。

だからこそ余計に、そのようなリアリティ・ショーを演じるインフルエンサーや著名人もあとを絶たないわけです。

でもそこには「ショー」とついているように、あくまで本当に舞台上の「ショー」なんですよね。

自らがその舞台にあがってしまったら、舞台の上で踊り続けなければならなくなる。

そして大抵の場合、そうやって強烈な脚光を浴びているスターたちは、薬物やなんかで早死してしまう。裏側では相当なストレスを抱えてしまっているわけです。

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もちろん、それを本人が望んでいれば、それで全く問題はない。

そして、繰り返しますが、それは観ていて楽しいし、誰にも止める権利もない。他人の愚行権に口出しする権利は、僕らに一切ないわけです。

むしろ、代わりに時代の犠牲になってくれているわけでもあるわけだから、ある意味で感謝をしなければいけないのかもしれない。

そして、いつの時代においても、このような人々はそれぞれの時代背景の中で存在しているんだということが、今回の4冊の本を読んでいると、本当に強く伝わってきます。

これらの本の中で、社交界の話として語られていることが、まったくもって現代のSNSそのものだなあと感じました。

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ただ、それゆえに、もう歴史上において「幸福論」は既にはっきりと答えが出ていて、ヒルティ、アラン、ラッセル、そしてショーペンハウアーも結局のところ、非常に似たようなことを言っているなと僕は思いました。

それが、今日ずっと語ってきた「喜びや享楽」を求めるのではなく「退屈や寂寞」とちゃんと向き合うこと。

あとは、自分自身がどちらを信じたいか、だけなんです。

一方で、毎日のように出版されているソフトカバーのビジネス本や自己啓発本は、「あなたらしさ、たった1回しかない人生、後悔のない生き方を!」とひたすらに煽ってくる。

でも、結局のところ、ニーチェでさえも最終的には非業の死を遂げたわけですよね。

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むしろ、何気ない平凡な一日のほうに、もっともっと目を向けたい。

ここで、再び『幸福について』から、僕がものすごく刺さった部分を再度引用してみたいと思います。

今日という日はただ一度限りで二度と来ないことを絶えず肝に銘じるべきだ。だが私たちは、今日という日が明日もまた来ると錯覚している。けれども、明日はまた明日で、一度しか来ない別の日だ。
(中略)
けれども楽しい時はそれに気づかずに過ごし、悪しき時が来てはじめて、「あの頃に戻りたい」などと願う。朗らかな快い時がいくらでもあったのに、それを楽しむことなく仏頂面で過ごし、あとで陰鬱な時にそれを偲び、むなしくため息をつく。そうではなく、いま無頓着に過ごしている現在、それどころか早く過ぎ去ってくれないかと、もどかしく思うような日常的な現在でも、まずまずの耐え得る現在であれば、敬意を払うべきだろう。


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さて、ここでもまた「敬意」の話であることが、僕はとてもおもしろいなと思いました。

正直、僕らは過去に何度も繰り返しこのような「一期一会、日日是好日」的な話を聞いてきているはず。

でもそのたびに、「そんなつまらない人生はただの諦めだ、退屈すぎる。寂しさに私は耐えられない」と言い放ち、より刺激的な選択肢を選んでしまう。

でも、実際にはそうじゃない。そして、これは敬意の問題なんです。

ちゃんとこの命を大切にしよう、退屈と寂寞と正しく付き合えるようになろうとする自分が、自分のそんな日々の何気ない日常に対して、敬意を払えるかどうか。

対人間相手に対してもまったく同様だと思いますが、退屈な人間だと思えば相手はどこまでいっても退屈だし、一方で相手に敬意を払い、相手としっかりと向き合おうとすれば、そこには本当に計り知れない価値が眠っている。

それは、人生においても全く一緒なんだろうなあと。

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でも僕らは、いつだって、そうやって「退屈と寂寞」そんな孤独感に対して背を向けて逃げてばかりいるから、余計にそれに追いつかれないようにと、より強い刺激を求めるようになってしまう。

もしくは、その退屈と寂寞の世界に案内図も持たずに突っ込んでいき、どん底の「中年危機」や、鬱状態のようなものにもぶつかってしまう。

本当はそうじゃなくて、正しい知見を持ち合わせた上で、退屈と寂寞としっかりと向き合いながら、さらにその下を掘り、村上春樹さんの言うところの「地下二階」を目指すことが大事なんだろうなあと。

つまり、キラキラした舞台の上、真正面からぶつかってしまう地下一階、そして、本当の意味での向き合うことで降りることができる場所が、地下二階みたい場所だと思うんですよね。

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この構造を理解しないと、いつまでもNetflixオリジナルドラマ的なものや、無限に生成され続けてはすぐに消えていくビジネス本のようなものに惑わされた人生を送ることになってしまう。

そのひとたちについていくと、蜃気楼のようなものに実態があると思いながら、常にそれらを追い続けさせられて、ラットレースを走り続けさせられる。

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彼らに対して石を投げるのではなく、自分の真下を掘り進めたい。

本当の意味で、退屈と寂寞と向き合いながら、その先にあるものに目指していくことは真の意味での「幸福」を目指そうとする際においては、とても大事な視点だなあと思いました。

その時に、今日ご紹介したような先人たちが残してくれた古典的な書籍をひとつの頼りにしてみると、ノウハウ的な答えを彼らは一切提示してくれていないけれど、その指針となるものをしっかりと与えてくれているなと感じるはずです。

長々といろいろと語ってしまったわけですが、たった1回しかない天から与えられた人生、そんな自らの人生に対しても、しっかりと敬意を持つこと、いま本当にとても大事なことだと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。