先日、親族が占いにハマってしまって困っているという話を聞きました。
占いを信じること自体が悪だとは、僕は決して思いません。
それが本人にとって何かしらの「生きやすさ」につながる場合であれば、個人が信じる分には、本当に文字通りの「信仰の自由」だと思います。
ただ、占いの厄介さというのは、その論理を自分だけでなく、他者(多くの場合、家族や同僚)にも同時に強いてしまうことが「悪」ということなんだろうなあと思う。
ロジカルに考えたり、合理的に考えたりした場合においては本当に理解不能なことを行動基準に定めて、その自らの行動に対して、相手を巻き込もうとするわけですから。
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でも、ここで大きく問題になるのは、そもそも占いも、宗教(新興宗教も含む)も、「自らの世界認識や世界観自体を書き換える」ことにこそ意味があって、本来、他者を巻きこまないと一切はじまらないものだったりもするんだと思います。
ここが一番むずかしいところだなあと、いつもこの話を考えながら、本当に強く思います。
これは、以前ブログにも書いたリチャード・ローティの「リベラル・アイロニズム」みたいな話にもつながるのかなと。
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だからみんな、「現実を見ろ!」と声高に叫ぶのだと思います。
旧統一教会問題でも、そのような論争が日夜繰り返されていましたよね。でも、占いや宗教にハマっているひとに「現実」を突きつけてみても、きっとあまり意味がなくて。
そうすると、余計に意固地になって、その占いや新興宗教に信奉していく方向に向かってしまう。
なぜなら、間違いなくそっちのほうが、その人にとっては「生きやすい世界観」「すがりたくなる世界観」を提示してくれているわけですから。
エビデンス不要で語られるそのような占いや宗教の世界認識に、エビデンスの根拠を求めるある種の正論がその魅力面において敵うわけがありません。
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きっとこういうときには、養老孟司さんが以前You Tubeの中の動画の中で語っていた「認知症」の両親との対話みたいなものに近い対応が、必要なんだろうなあと思います。
具体的には、一定程度、相手の「ストーリー」に乗っかろうとしてみること。頑なに相手の世界認識を否定しようとはしない。
ちなみにこの動画は『老い方、死に方』という本の中で、阿川佐和子さんとの対談を終えた後の後日談のようなお話だったのですが、この本を読んだときに、この対談の素晴らしさに、僕は本当にとても感動してしまいました。
自分のまわりに「認知症」のひとが今現在いるわけでもないのに、なんでこんなに刺さるのかなあと読み終えたタイミングにおいてはかなり不思議だったんですが、今振り返ってみると、これは「認知症」の話に限らないからなんだろうなあと。
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認知症というのは、ある種、現代社会で起きていることの「極端な例」に過ぎないのかもしれない。
認知症の両親には、認知症の両親なりの「世界認識」や「ストーリー」がある。
決して、何の理由や論理もなく、行動をしているわけじゃないんですよね。
よく言われる話は、謎の徘徊行動も、実は若い頃の思い出に沿って行っていてその老人の中では自分の子供のお迎えに行っているだけだ、みたいな話です。
とはいえ、これは阿川佐和子さんぐらいに「聞く力」が卓越したひとじゃないと、本当になかなかにむずかしいことだなあとも思います。
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で、ここまで考えてきて、最近よく思うようになったのは「何が現実なのか」ということを描く作品が増えてきたなあということです。
たまたま、僕が観ている映画や小説が、そういうものに偏っているだけなのかもしれませんが、大衆エンタメ作品の王道「ゴジラ−1.0」でさえ、「何が現実なのか」の話をしていたので、割といま「何が現実なのか」ということがひとつの大きな論点なのだと思います。
これは、逆の方向から見ると、それぞれが異なる「現実認識」のもとに生きている証でもあるんだと思います。
マルクス・ガブリエルの「意味の場」みたいな話にも近いのかもしれません。
これは、それぞれの価値観や欲望自体が多様性のもとに大きく変化しているから、苫野一徳さんがよくVoicyの中で語られているような「欲望相関性の原理」みたいな話で、目の前にある対象を自分の欲望のままにみようとすることにつながるんだと思います。
逆に言えば、昔は大体の人々との欲望が多くの場合は似ていたからこそ、「物自体」も同じものを見ているように、みんなが錯覚することができたというだけで。
そもそも人間側の欲望自体が、それぞれに変わってくると、その欲望の眼鏡から見える「客観≒現実」も当然のように異なってくるということなのでしょうね。
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この点、昨夜Wasei Salon内で開催された「学びのきほん」シリーズの最新作『使える儒教』という本の中で、著者の安田登さんが以下のようなお話を書かれていました。
少し本書から引用してみたいと思います。
私たちの心の基底にはOSとしての「天命」が走っていて、その上に二つのプログラミングが走っています。プログラミングの一つは「法」のプログラミング、もう一つは「心」のプログラミングです。
(中略)
型に当てはめる「法」のプログラミングと、こうすればうまくいくという「心」のプログラミング。両者には大きな違いがあります。それは、法のプログラミングは他人が決めたもので、心のプログラミングは自分で決めたものだということです。
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これは本当にそのとおりだと感じますよね。
で、大事なことは、この心のプログラミングを書き換えるという作業の「解釈」の問題なんだと思います。
書き換えるという行為にも、厳密にはきっと「修正」と「訂正」の二種類があり、大事なのは、やっぱり修正ではなく、訂正のほう。
この点、修正は、修正以前がどのような状態だったかがわからない状態になってしまうけれど、訂正の場合は、しっかりと過去を残しながら、そこに訂正線を引きながら上書きをしていく形になる。
言うなれば、グーグルドキュメントの共同編集作業みたいな形です。そうやって、訂正した履歴が残っていることが大事なんだろうなあと。
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心のプログラミングに関して言えば、書き換え自体は、それぞれの欲望に相関的に記述されることはもう仕方ない。これからは、それがもっともっとバラバラになっていく。
とはいえ、それがバラバラになっていくと、何がもともとの価値基準だったのか、その根本自体がわからなくなる。
だからこそ、公開リンクで、共同編集可能な、グーグルドキュメントのような、ある種の対話空間が重要で。
そのような議事録が残るようなこともすごく大事なはずで、リビジョンがわかることが訂正の醍醐味なんじゃないのかなあと。
だからお互いに、その変化の過程自体が理解できて、その透明性自体が外部からやってきた人たちへと、開かれた状態に保つことにもつながっていく。
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もちろん、それでも、お互いにわかり合えないことは、きっとたくさんあると思います。
でも、僕らはそこから始めるしかないのではないか。
そうやって、開かれた訂正が存在し、何に影響をお互いに受けてきているのかを丁寧に対話をしていくなかで「相互理解」も多少は可能となる。
そして、そこに昨日もお話したような「相互信頼」も生まれていく。お互いがバラバラなまま、わかりあえないままで、です。
きっとそれが本来は理想的なんだろうなあと。まだまだ自分の中で、うまくまとまらないのですが、そんなことを考える今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。