昨日、Wasei Salonのタイムラインに投稿した「◯◯さんらしい」という言葉を僕があまり使わないようにしている理由に対して、サロン内で意外と反響があったので、もう少し丁寧に詳細部分も説明を付け加えながら、今日のブログにもまとめておきたいなと思います。

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僕は、Wasei Salonの中では意識して、なるべく「◯◯さんらしい」という言葉を使わないようにしています。

なぜなら、この言葉を投げかけてしまうと、相手の「変化」を妨げる要因になるような気がしているからです。

この点、この「〇〇さんらしい」という褒める言葉は、一般的には良い意味で使われることが多く、相手を言祝ぐ言葉として用いられることが多いですよね。

例えば、「◯◯さんらしい気配りですね」や「〇〇さんらしい素晴らしいアイデアです」といった具合に。

だから日常的にこの言葉を用いているひとは「それの一体何がいけないことなの…?」と思われるかもしれません。

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確かに、相手の特徴や長所を認め、それを言葉にして伝えることは、人間関係を築くうえで非常に重要な要素だと思います。

相手の「らしさ」を認識し、それを肯定的に表現することで相手に安心感や自信を与えることもできるわけですからね。

一方で、この言葉は、相手が「自分のキャラに居着くこと」を強要してしまう、そんなきっかけにもなり得てしまう言葉でもあるよなあと思うのです。

つまり、ある種の「期待」のまなざしになってしまうんですよね。

そして、そのような誰にとってもかわりやすい「期待」というのは、呪いにも変質しやすい。

そう考えてくると、少なくともこのWasei Salonという場においては、できるだけそのようなまなざしは避けたいなあと個人的には思っています。

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むしろ、Wasei Salonという場においては、もっとオープンな社会とは異なる価値基準が存在して欲しいと、僕は常々願っています。

具体的には、参加者のみなさんには、社会から求められている役割や「らしさの呪縛」から脱皮をし「自分自身が変わってしまう」ことを生々しく体験してほしいのです。

この点、世の中には、他者の変容に対し、寛容な心を抱けないから、争いや分断が起こりがちで。

それはきっと、お互いにキャラの固定化がいつも様々な角度から迫られてしまうからだと思うんですよね。それは、いわゆる「責任概念」なんかとも深く結びついてもいる。

そして、そうなってしまうと自分以外の相手や世界を変える以外に選択肢がなくなるわけです。

もちろん、社会生活を営む上で、ある程度の役割や期待に応えることは必ず必要となってくるでしょう。

しかし、Wasei Salonは、世間とは異なる価値基準で駆動する場なのだから、「自分が変われる、自分が変わってもいいんだ」という開放感のようなもののほうを、ぜひとも味わって欲しいのです。

そうすることで、結果的に、相手や世間を無理に変えようとしないことにもつながっていくはずですから。

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さて、ではなぜ、僕らはそもそもそのような「らしさ」にこだわるのか。

いろいろな説明の仕方があると思いますが、それはきっとオープンな場においては人間の認知構造的にそうならざるを得ないのだと思います。

日々、社会の中で膨大な情報と多様な人々に囲まれて生きているのが僕ら現代人。

その中でムダのない効率的なコミュニケーションを取るためには、ある程度の「キャラクター化」や「類型化」は必要不可欠です。

らしさは、相手が何を考えているのか、ある程度は想像できるという意味でも、とても大切なもの。つまり、その最初の動機自体は、現代を生きるうえで、とても大切な予見可能性でもあるわけですよね。

だからこそ、重宝がられもするわけです。

特に、先日ご紹介した「日本人の4行モデル」のニーズなんかにもピッタリと当てはまってくるもの。


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もちろん、今日ここまで語ってきたような話っていうのは、決して僕のオリジナルな意見ではなく、先人たちからの受け売りも多分に含みます。

具体的には、たとえば内田樹さんの『凱風館日乗』という本の中に収録されている「本当の友情は友だちの変容を受け入れる」というタイトルの新聞コラムで書かれていたことなんかは、とても参考になりました。

内田さんは「ある中学校の講演会で、中学生に伝えたいほんとうに大切なことだけを話した」と本コラムを書き始めます。

そのときに訪れていたのは中高一貫の男子校で、12歳から18歳までを共に過ごす特別な空間で、このような環境では、お互いの「キャラクター設定」が非常になされやすいものだと内田さんは指摘します。

まだお互いのことをよく知らない状態で、ごく表面的な特徴だけで数種類(例えば、ドラえもんのキャラクターに例えるなら、ジャイアン・のび太・スネ夫・出木杉くんなど)に類別されてしまいがちだ、と。

そして、これ自体は、ある程度は仕方のないことだと内田さんは認めています。

たとえば、夏目漱石も自らの教師時代の実体験をモデルにした描いた小説『坊っちゃん』の中で、同僚を「狸」「赤シャツ」「のだいこ」「うらなり」といった具合にしか分類していませんというふうに言います。

つまり、キャラクター設定というのは、ある程度「雑」であるのが普通なわけですよね。

しかし、だからこそ、そのキャラクター設定の呪縛は、あなどれないと内田さんは警告します。

以下は本書からの引用になります。

思春期で子どもたちはわずかな期間のうちに劇的に変化する。読む本も、聴く音楽も、観る映画も変わる。体形も、表情も、声も、語彙も、みな変わる。でも、一度キャラを設定されてしまうと、それを離れようとする兆しは「らしくない」という一言で抑制される。「らしくないことするなよ」というこの制止は子どもたちを深く呪縛する。「新しい自分」を守ろうと思ったら、仲間から離れるか「学校ではキャラを演じ、外で自分に戻る」という二重生活を送るしかない。前に平田オリザさんからこういう症状を「キャラ疲れ」と呼ぶのだと教えてもらった。     
(中略)
友だちが変容すること、少し前までとは見知らぬ人になってしまうことを受け入れ、それをむしろ祝福することがほんとうの友情である。


これは本当にそのとおりだなあと思います。

僕自身も、小中一貫校に通っていたので、9年間ずっと同じ仲間たちと過ごした経験があるので、これは痛いほどよくわかる。

そして、当時の友人達と今も親交が長く続くような本当の意味での理由、そうやって良い関係を築くことができたのは、この相手の変容を受け入れるという態度があったからなのかなあと思います。

逆に数々の喧嘩の原因となったのは、「らしさ」という言葉を盾にして、相手にこちらの勝手な期待を押し付けたときに発生しがちだったなと自身の実体験を反省してみて本当に強く思います。

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とはいえ、繰り返しにはなりますが、僕は「らしさ」や「キャラ」を期待し合うこと自体は否定しません。

重要なのは、そこでたとえズレが生じたとしても、相手に強く当たらないということが大事なんだろうなあと。

「なんでだよ」とか「らしくないから、つまらない!」といった否定的な反応は避けるべきであって、同時に「◯◯さんらしいね!」と言われた側も、あまり深刻に捉えすぎないことが大切だと感じます。

「なんでそんなことを言うの!いま、せっかく私は変わろうとしていたのに」といった具合に、呪詛の言葉として捉えてしまうのは、本当にもったいない。

特に、このような考え方を読んでしまった後は、そういった言葉に過敏になってしまう傾向があると思うので、このあたりは本当に気をつけたいところです。

今日のような問いを考えておくこと、その真の目的は、このような構造が表裏一体であることを理解しておくことだと思います。

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相手が、祝福の意味を込めて投げかけてくれた言葉は素直に受け入れて「ありがとう」と心の中にしまっておきながらも、それに対して自己が引っ張られすぎないこと。

一方で、自分がこの「◯◯さんらしい」という言葉を他者に投げかけるときにも、もしかしたら自分の言葉が相手にとってそのような副作用を及ぼすかもしれないというある種の節度を保ちながら用いること。

そうやって実際に、お互いの敬意と配慮と親切心を持ち合うことによって、結果的に場の空間内全体において、少しずつ明るく朗らかに変化していく人が出てきたとすれば、それは本当に素晴らしいことだと思います。

そして、自分自身にもきっと、それは大きな影響を与えてくれるはず。

言い換えると、素直に相手の変化を受け入れたという「体験」それ自体が、きっと自分が変わっていくことも、自分自身で肯定することができるようになると思うんですよね。

周囲からの期待に応えようとして、居着いてしまっていたキャラを無理なく、そして素直に手放して行ってもいいと思えるようになるはずですから。

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そうやって、お互いの健やかな終わりのない自己刷新を繰り返していく。

僕らは人生100年時代を生きていて、かつ世の中は常に劇的に変化しているわけですから。子どもたちと同じぐらい、キャラが変わっていっても、何もおかしくない世界に生きています。

それを受け入れて、称え合い、祝福し合うこと。

もちろん、常に発展や成長を求めるわけでもなく、四季の巡りのようにぐるぐるしているような状態だって、共に楽しむこと。

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どうか自分自身が変わることを恐れないで欲しい。そして、それを共に称え合って行ける空間でありたい。

それが、このサロンを運営しているひとりの人間として、僕からのささやかな願いであり祈りになります。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。