近年、パワハラ問題や労働環境の改善などによって、極端にブラックな職場ではない限り、職場で怒号が飛び交うことはなくなってきたかと思います。

その代わり職場で一気に増えた反応が、上司や同僚からの「同情」や「共感」だと思います。

「そんな状況だったなら、仕方ないよね」という優しい態度と思いやり。

でも、このように相手から同情されてしまったときほど、「叱られた、怒られた、見くびられた、侮られた」と思って、自らの至らない点を探し出し、改善するためのサインだと受け取ったほうがいいのではないかと思うのです。

今日は一風変わったそんなお話です。

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この点、ひとは何か自分がミスを犯したときに「どうすれば、相手にこのミスを納得してもらえるか」と、その言い訳ばかりを反射的に考えてしまいがちです。

「転職したばかりだから、家族が問題を起こしたから、風邪を引いたから」などなど、その言い訳が他者からの反論の余地を残さない美しい言い訳であればあるほど、他者は素直に同情してくれます。

実際に、そうやって練りに練って用意してきた言い訳を職場で披露してみると、全員に納得してもらえて、みんなが本気で同情してくれたという経験は、誰もがきっと持ち合わせているのではないでしょうか。

そんな場面で「同情してもらえた、よかった!」と思うのか。それとも「同情された、やばい!」と危機感を持つのかで、人生に雲泥の差が生まれる。

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具体的には、こっぴどく叱られてしまった時と同じような危機感を持って、すぐに自己の改善に向けて動き出せるかどうか、です。

さもなければ、自分にとって都合の良い言い訳に対して、自分自身が安住し始めてしまいますから。

「私は◯◯なんだから、仕方ないよね。みんなもそれで納得してくれていたし」と、誤ったかたちで世界を認識してしまう。

そのうちに周囲の人々から、静かに距離を置かれていくのがオチです。

完全に周囲から見放されたあとで、「あのときは同情してくれたじゃないか!」とすがってみたところで、もうあとの祭り。

仕事の場面に限らず、他者から同情された後に一切連絡が来なくなったことや、自らが同情した後に一切連絡しなくなったこと、そのどちらの立場の経験も全員が持ち合わせているのではないでしょうか。

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現代のように、怒りや暴力が禁じられた世の中では、誰も周囲のひとが自分の誤りを直接的にわかりやすい形で指摘してはくれません。

むしろ、どんなひどい失敗であっても「仕方ないよね、しょうがないよね、そんなこともあるよね」と優しい言葉でしか応答してくれない。

そんな周囲の人々の些細な反応の中から、自分自身で改善すべき点を見つけ出して、そのサインを見逃さないようにしていくしかない。

そのなかでも「同情」という反応は、完全に黄色信号だと思ったほうがいいと思います。

一見するとものすごく優しい世界になったようで、本当にシビアな世界に僕らはいま生きているのだと思います。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの考えるきっかけとなったら嬉しいです。