今週のコミュニティラジオの中で語られていた「スパッと何かをやめてみる」のお話、ものすごく興味深く聞かせてもらいました。

僕は「10年間、禁酒する」や「定住する家を持つことをやめてみて無拠点生活をする」など、突然思い立ったように何かをスパッとやめてみるということを繰り返していて、じゃあなぜそんなことをしているかと言えば、「”自分”なんてない」と思っているからなんだろうなと思います。

逆に、僕がいつも少し不思議だなあと思うのは、何かをスパッと辞めてみずして、みんなどうやって、私という人間の心と身体のABテストやってるの?と思うのですよね。

たとえば僕は、2010年代の10年間、大げさではなく本当に毎日飲み続けた10年を経験してきたからこそ、2020年代は一切お酒を飲まない10年をB面として体験をしてみていて、一体自分にどちらが本当に合っているのか、を実験中。

そうやって、ABテストをやってみて、自分自身の変化を自分で客観的に眺めてみることをせずに、どうやって自分にとって「本当の最適」を判断しているの?それってむずかしくない?というのが、今日の主題になってきます。

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で、この点、生活習慣病に限らず、現代人が陥りがちな鬱とかADHDとか花粉症とか、そういう現代病全般って、決して「個人」や「個性」や、ましてや「先天性」のものではないではずで。

だとすれば、残るところは日々摂取している「食」と「情報」などの環境要因が非常に大きいはずなんですよね。

これは、言い方を変えると、僕は「遺伝」みたいな影響って、言うてそこまで大きくないと思っています。

もちろん、アレルギーテストみたいなものもあるし、実際問題として先天的なものは多いとは思いつつも、それも現代資本主義の罠というか、言い訳みたいなもんなんだろうなあとも思っています。

にもかかわらず、僕らは、あまりにも簡単に「これが自分の個性だ」「これは生まれつきだから仕方ない」と考えてしまいすぎ。

つまり、僕らが「これが自分なんだ」と思っている性格や個性のようなものは、食べているものや浴びている情報によって簡単に覆るものだと思っているということでもあります。

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たとえば、わかりやすいところだと現代だと男女共にやっているようにサプリメントとかであれば、合うかどうかを一時的に試してみたり、一時的にやめてみたりしながら、自分への適否を判断するはず。

それと同じように、砂糖とかお酒とか、日々スマホやTVを通して触れている「ジャンクな情報」なんかも引っくるめて、その部分をABテストしてみると良いんだろうなあと思います。

お米だけやめてみるとか、小麦だけやめてみるとか、肉だけやめてみるとか、そういうことはやってみないとわからない。

それを試してあっさりと変わってしまうものがこの世にはあって、自分の本質だと思っていたものが、実は単なる「習慣の産物」だったと気づくことができる。

そんな風に「これこそが私だ!」と思いこんでいたものなんて、簡単に覆る体験って意外と大事だよなあと思います。

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例えば、肉をやめてみるとかはわかりやすい。肉食をやめると、明らかに自分の中の闘争心みたいなものが、みるみるうちに弱まっていくのを感じるはずです。

少なくとも、僕はそうでした。本当に笑えてくるほど誰かと何かを競争したいとは思えなくなる。

言い換えると、負けず嫌いや闘争心こそが自分のアイデンティティだと思っていたとしても、それは単に食べ物に影響を受けていただけだったということになる。

僕も実際に20代前半のころ、半年ほどお肉を断ってみて「あぁ、自分はこんな風に変化するのか」と、強く実感した経験があります。

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つまり、自分のアイデンティティとは、「食」や「情報」という形においての「道具」のようなものを装備しているだけであって、本来はもっと流動的で変えられるものだ、とも思うのです。

ところが人は、習慣によって、その装備している道具を「自分そのもの」だと勘違いし、思い込むようになる。

繰り返しますが、あくまでそれは毎日摂取している食と情報の産物にすぎないのに、あまりにそれを日常的に取りすぎてしまっているせいで、その影響さえも私自身だと思い込んでいる。

これは、推し活をしている人が、最初は自らの人生を豊かにするために始めた推し活だったはずが、いつの間にか自分の人生そのものになってしまう現象なんかにも似ている。

気づけば推しこそがすべてになってしまう逆転現象。そして、その推し活が自分の思い通りにいかないところにまた「苦しみ」が生じてしまう。

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「習慣は第二の天性」というけれど、本当にそのとおりで。

たぶん、誰にでもわかりやすいのは、日本語みたいな言語と一緒だと考えればわかりやすいはず。

僕らは、日本語でものごとを考えて、世界を捉えて、思考を巡らせるのが私だと信じている。そこに疑いの余地がない。なぜならそれをABテストしたことがないからです。

というか、疑おうとしてもその疑おうとする行為自体が、日本語で行わざるを得ないから、この世に生まれた瞬間に、日本語を母語とする国で育ってしまった以上、運命づけられてしまっていることでもある。

でも、それは紛れもなく「日本語」という人工物、その枠組みのなかに当てはまることは理解できるかと思います。「私とは日本語である」とは誰も思っていないはず。

あくまで日本語は、後天的に与えられた思考の枠組み、その道具に過ぎなくて、その道具にとらわれてしまった私がいるというだけ。

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もちろん、そうやって与えられる「母語の価値」なんかも間違いなくあって、そもそも人間とはそうやって後天的に獲得したものによって自らを構成しているはずだ、というご指摘だってごもっとも。

でも、そうやって後天的に獲得したものが、自分の大部分を形成しているならば、自分自身でABテストを行ってみて、より自分に合ったものを選択していったほうがいいと思うのです。

特に食や情報摂取などは、いくらでも自分自身の決断ひとつで試せるわけだから。

そうやって、なによりも自己は解体できる、要素分解できる、そのためにABテストが可能であるということをちゃんと理解したい。

さもないと、これこそが私だ、と思ったものに騙されたまま人生を終えることになる。それが、特に上記で列挙したような現代病だった場合は本当に厄介だなあと思います。

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基本的には今の社会、つまり資本主義やテクノ封建制という社会システムにとって都合の良いように、「この個性こそが、私だ」と思いこまされてしまっている可能性は非常に高いはずで。

で、もし習慣は「第二の天性」なのであれば、裏を返せば、その習慣を組み替えていけば、なりたい自分にも近づける。

もちろん、その「なりたい」という願望さえも、もはやつくられた願望である可能性は高いので注意は必要なのですが、それでも組み替えることは可能。

そういう意味でも「自分なんてない」という話です。

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ただ、これはゲーテだったかニーチェだったか忘れてしまったけれど、

「友人が悪癖をやめてしまったら、われわれはそれを残念に思うに違いない。」という名言を残していて、それは「自分という他者」に対してもまったくそうで、自分が自分にそう感じてしまうんですよね。

つまり、悪癖を取り除くことは、寂しいわけですよね。

それぐらい現状にとどまろうとする力、慣れ親しんだものにとどまろうとする引力は思いのほか強い。

人生の豊かさだとか、ご褒美だとか、何かしらのポジティブな言葉を連ねて、今のA面のまま、B面のほうを味わおうとはしない。

もちろん、それが間違っているとは言わないです。その「私」こそを大事にするのが、「私を生きる」ということでもあるのだから。

でも、それを「私の本心、私の本質的価値、私の核心、私の魂」だと思うな、ということをここでは言いたいのです。

似たようなことだと思われるかも知れないけれど、そこには雲泥の差があると思います。

悪癖もまた、自らで能動的に選び取っている、自らで望んで欲している。そこにいつだって自覚的でありたいなあと。

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だからこそ、もし自分が今の自分に苦しんだり、不満を感じたりするのならば、そんな私が、嫌だ、許せないとなれば、思い切って自分の中心にあると思えるような習慣、主に食と情報を大胆に絶ってみる。そしてABテストしながら、残したいものだけを選び取っていく。

そうすれば、案外簡単に、人間なんてすぐに生まれ変われる。少なくとも現代病のようなものはことごとく改善されるし、昨日とは全く違う自分になれるはずです。

で、それでも一生変わらないモノ、それでも残ってしまうモノこそが、本当の「私」なのかもしれない。このあたりは夏目漱石の「則天去私」みたいな話にもつながっていくなと思っています。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。