毎日ブログを書き続けてそれをAIにひたすら読み込ませているうちに、 AIが自分以上に自分らしい返答をするようになってきました。

ちなみに僕がAIを使うときに厳守しているマイルールは、絶対にAIにブログの構成をつくらせないこと。

あくまで、自分がゼロから書いたものに対して、その感想やアドバイスをもらうだけにしています。

その結果、今は勝手にAIのほうが僕の思考のクセを覚えてくれて、プロンプトを打たずとも、自分が求めているようなアドバイスだけを語るようになってきたし、求めている方向性に勝手に広げてくれるようにもなってきました。

ーーー

で、もしこれをAIに文章の構成から考えさせてしまうと、それは不可能となり、そうやって楽をすればするほど、AIが考えた一般的なものを自分の考えたものだとして、埋没していくんだろうなあと思います。

今は、文章なんて自分で書く必要がないと言われて久しいけれど、AIを調教するためにこそ、毎日ブログを書くことは、本当に大事になってきているなあと思います。

AI登場以前よりも、さらに自分の文章を毎日膨大に書き続けることの重要性を感じている昨今です。

ーーー

で、今朝ちょうど、パークシャ・テクノロジーの上野山さんがつぶやかれていましたが、


上野山さんがご紹介されていた、とあるプロンプトを打つと、驚くほど高解像度で自分の思考のクセを分析してくれます。

これが本当にすごい分析で、すごい進化だなあと思いましました。

こんなにも解像度高く僕のことを裏で認識しているのであれば、そりゃあ自分らしい回答もすぐに生成してくれるよなあと思ってしまうほど。

ーー

で、このようなAIの急激な変化を受けて、僕が最近「このやり方いいな」と思っているのが、ひとから何かアドバイスを求められたときに、ふたつの返答を同時に返すこと。

ひとつは、AIの回答を「これは僕が毎日調教しているAIの回答です」として、相手に差し出すこと。

もちろん「これはAIがつくりました、でも僕が毎日調教しているAIだからこそ、僕の本心とほとんど変わらない」という伝え方において相手に差し出します。

そして「この意見に関しては、僕以上に僕です」と僕が自ら太鼓判を押して承認していることに価値があるわけですよね。

そして実際に、僕もびっくりするほど精度高く僕の意見そのまんまだから、僕自身もそう言わざるを得ない。

ーーー

ただ、それと同時に、自分の「プラグマティックな体験から導かれる知見」も同時に差し出すようにしています。

そして、こちらが非常に重要な視点だなと思っています。今日の一番のポイントもここにある。

この点、今は多くの人が、AIの出力をあたかも「自分の書いたもの」のようにして語りがち。

でもそれは、ただの嘘ですからね。それを繰り返していると、どうせこのひとの話は全部AIの出力だと思われて、話半分で聞かれてしまう。

そうじゃなくて、それはソレとして提供しつつも、もうひとりの「生身の自分の意見」も付与すること。

ーーー

で、その生身の意見はプラグマティックであればあるほど良い。

じゃあ、それは一体どういう意味か?

この点、今朝、東畑開人さんがつぶいていたことで、本当に素晴らしい洞察だなあと思ったので、まずはそちらをご紹介したいと思います。


で、臨床心理士に限らず、いまこの臨床的(現場的)な視点がめちゃくちゃ大事だなと思うんですよね。

AIはものすごくロジカルに自分の思考を代弁してくれる。当然ですよね、それが一番得意なことなのですから。

過去に書いてきた膨大な数の僕のブログを読み込み、僕の思考回路やロジックを見事にトレースしてくれている。

でも、それと同時にものすごく非ロジカルなことを、生身の自分が書いてみるわけです。

しかもそれは、自分の実践経験に即して書くから価値が生まれてくる。

まさにトップダウンではなく、ボトムアップ的に。エンジニアリングではなく、ブリコラージュ的に、です。

ーーー

たとえば、僕の場合は「AIはこう言っているけれど、僕がやってきたメディア経験だったり、旅の経験だったり、コミュニティ運営の経験からすると、逆にこう思うよ」という反対意見を付け加えたりしています。

そして、生身の僕の意見というのは、そこにどうしても論理の飛躍があるわけです。

良くも悪くも、僕個人の記憶や体験という一回性を抜けきらないし、ものすごくプラグマティックな話になってしまいますからね。

でも今の時代はそっちが同じぐらい大事。プラグマティックな話であればあるほどいい。こればかりはAIには紡ぎ出せない事柄ですから。

言い換えると、そういう非ロジカルなこと、つまり臨床的であることは自分の体重が乗っかっていないと、思い切って語れないことなわけです。

逆に言えば、なぜそんな非論理的なことさえも相手に対して堂々と語れてしまうのかと言えば、自分にとって確固たる体験の担保がそこに存在するから、なわけですよね。

こっちのほうが私の持ち場や現場ではうまくいった!という体験こそが、その根拠となっているということです。

ーーー

頭と身体で言えば、身体の体験や経験のほうを優先して生まれたのが、生身の僕の意見。

そして、AI鳥井のほうが生み出した意見は、僕の頭が、より賢いAIという頭と、融合して考え出した意見。

でも、その両者に全く一貫性がないのかといえば、そうではなくて、その大前提には僕が考え出しそうなロジックがあるわけです。

で、そのロジックに従って現場で行動した結果、導かれた「全く別の答え」を、また別の選択肢として提示している感覚です。

このときに初めて、机上の空論だけではない、文武両道的な意見がそこに立ち現れる。

ーーー

このあたりはきっと、論理やロジックが突き詰められるタイミングにおいては、必ず通る道なのでしょうね。

以前もご紹介したことのある、NHK出版「学びのきほん」シリーズから出ている『みんなの密教』という本の中でも、似たようなことは語られてありました。

平安時代に活躍した空海もまた、徹底的に突き詰めたロジックと非合理的な偶然性、つまりプラグマティックな体験を重視していたようです。

少し本書から引用してみます。

考えてみると、仏教には真理を論理的に説明しようとする側面が確かにあります。たとえば「 縁起」という思想一つとっても、「原因と結果」でこの世界に起きることを客観的事実として説明していきます。その点、呪術的な加持祈禱などをおこなう当時の民間信仰に比べて画期的だったわけですが、人間の知的な論理に「すべて」は収まりません。ときには、「偶然に葉が落ちたところが、あなたの仏様です」といった価値観も必要なのです。     
空海のもたらした現実主義の密教は、非合理的な偶然性の部分も、両軸の片側として大事に携えていました。この、現実を直視しながらも偶然性を受け入れる姿勢も、いまを生きる私たち「みんな」に必要なものではないでしょうか。


ーーー

この両極端を同時に提示して、あとは本人に直接考えてみてもらう。

そうすることで、相手に対して同時に全く異なる2軸をひとりの人格の意見として与えられる。

まったく逆のことを言っていても、それは明らかにつながっていて、結論だけが真逆なだけ。それがめちゃくちゃ良いなと思います。

なぜなら、それは安易にバランスをとった「中庸の意見」ではないからです。

現代では、中庸的な意見が一番嫌われる。

それは学級委員的な意見になりがちで、なんだか偉そうに聞こえてしまい、退屈だし気に食わない。まさに今いちばん嫌われやすいリベラルエリート的になってしまう。

そうじゃなくて、ひとりの人格から両極端で、なおかつ、両方100%自分の視点として語ることができる、それが本当に革新的だなあと思う。

ーーー

今までは、これがひとりでは不可能だったわけです。

必ず相手に伝えるときはどっちかだけだった。このような矛盾が決して許されなかった。無理やりやろうとするとどうしても、禅問答的になってしまう。

でもAIが出てきてくれたことによって、本音と建前的な主従関係でもなく、本当の意味で対等な真逆の意見を同時並行的に提示することができるようになった。

見方を変えれば、「物語」は、ここを架橋することができたということなのでしょうね。それが物語のすごいところ。(お経や神話でもいい)。

小説的になるといってもいい。ひとりの作家が紡ぐ小説では、その物語の登場人物にそれぞれ両極端なことを言わせて、物語全体の中でバランスを取る。

それぐらいが本来はちょうどいい。

どっちも紛れもなく100%の自分の意見として提示できるようになったことは、本当にありがたいし、素晴らしい変化だなと思う。

ーーー

で、そうすると一体何が起きるか。

相手に、真剣に迷ってもらえるんです。そして、その迷うという行為自体に価値がある。

問いが立ち、自ら考えて、問い続けてくれるから。

両方同時に受け取った相手は、ものすごく困る。AとBの意見、それが同じ人から発せられた意見であり、同様の説得力を持ってしまうから。

でも、そのとき初めて、止揚させよう、どちらも保存した状態でアウフヘーベンさせよう!という思考が働き始めるはずで。

まさに「第三の道」を勝手に探すようになるんですよね。

ーーー

そのなかで生まれたアクロバティックな解釈自体が、相手にとってのオリジナリティになる。

僕は、それを静かに見守りたいなあと思う。

そうやって、迷って迷って、散々自分で考えたときにこそ自分にとって一番納得感のあるアイディアが生まれてくるはずですから。

なかなかにわかりにくい話をしてしまったかもしれませんが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。