Wasei Salon内で、ハリー・ポッターの読書会が開催されることが決定してから、映画『ハリー・ポッターと秘密の部屋』も、久しぶりに観返してみました。

いつ観たのかも覚えていないくらい、はるか昔に観た記憶があるだけの映画です。

そのなかに、こんな場面があります。壊れてしまったハリーのメガネを、ハーマイオニーが呪文ひとつで、一瞬で直してしまう。それを見たハリーが「僕もその呪文を覚えなきゃ!」と目を輝かせるというシーン。

物語の本筋にはほとんど関係のない、なんてことのないワンシーンなんです。

でも僕は、この場面が、なぜか妙に引っかかってしまいました。

「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」というアーサー・C・クラークの有名な言葉がありますが、ハリー・ポッターの物語のなかの魔法は、間違いなくテクノロジーのメタファーでもあると思っています。

だとすれば、あの場面が僕らに突きつけているのは、魔法(テクノロジー)でカンタンに直せてしまうなら、何が貴重だと思うかは、まったく変わってくる。

壊れても、すぐに直せるものになるのだから、という気づきであり、問いです。

そのとき僕らは、いったい何を大切にするのだろうか、と。

今日はそんなお話です。

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で、これは魔法の世界の話だと思うかもしれませんが、実はもう、僕らはとっくにその世界を生きています。

たとえば、農耕であり、白米の存在です。

現代社会では、自らに盛られた白米であったとしても「ダイエットのため」とか言いながら、当たり前のように残飯として残すし、それを誰も咎めません。

お米が安価で、いくらでも手に入るからですよね。

飢餓が身近にあった時代には、考えられなかったことだと思います。

ちなみに「もったいない」という言葉は、もともと「勿体無い」と書く仏教由来の言葉で、物の本体(勿体)が失われてしまうことを惜しむ言葉だったそうです。

でも今、この言葉が本来の重さで使われる場面は、ずいぶん少なくなりました。

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ここで少し立ち止まって考えてみたいのは、そもそもなぜ、かつての人々は白米を一粒も残さなかったのか、ということです。

その答えはきっとシンプルで、希少だったから、ですよね。

もったいないから食べるし、次に食べられる保証もないから大切にする。つまり、大切にすることには、合理的な理由がちゃんとあった。

言い換えると、希少性が高いあいだは、大切にすることを、環境のほうが強制してくれていたんですよね。

逆に、希少じゃないものを、人はわざわざ大切になんかしません。

たとえば、「空気」や「酸素」を祀る神社や宗教施設なんて、たぶんこの世に存在しない。空気ほど人間にとって大切なものはないはずなのに、です。

それは、空気が希少だった時代なんて、過去に一度も存在しなかったから。

裏を返せば、日本人が当たり前のように宇宙で暮らすようになったら、月のうえに空気を祀る神社をつくるのかもしれません。

壊れたら二度と戻らないものを丁寧に扱うのは、当然のことです。そこに本人の意志は、実はそれほど必要ないのです。

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ところが、豊かさやテクノロジーは、この強制力を静かに消し去っていきます。

白米は安価で無限に手に入るようになり、壊れたものは魔法のようにすぐ直せるようになる。希少性が消え、「大切にしなければならない理由」がこの世から消えていく。

そしてそのとき初めて、僕らはある問いの前に立たされます。

「それでも自分は、ソレを大切に扱うのか?」

ここで非常におもしろいのは、「貴重さ」と「大切にすること」が、本来まったく別の話だったと露わになることだと思うのです。

希少性という強制力があったあいだ、この二つはぴったりと重なっていたので、僕らは別に区別する必要がありませんでした。

でも強制力が外れた瞬間、ふたつは静かに分離します。

貴重かどうかは、環境が決める。でも、大切にするかどうかは、本人の意志に任されているということなんです。

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この分かれ道で、人はふたつの態度に分かれていくのだと思います。

「理由がなくなったのだから、もうやらなくていい」と考えるのが、合理化です。

ダイエット中なら、むしろ白米は残すほうが完全に合理的でしょう。何も間違っていないし、くりかえしますが、それは本人の自由であり、誰かが咎める義理もない。

一方で、「理由はなくなったけれど、それでも自分はそうする」と考える人たちがいる。

僕は、文化や倫理と呼ばれてきたものの正体は、実は後者なんじゃないかと思うのです。

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先日このブログで、文化とは、その土地の人々が長いあいだ繰り返してきた不合理な選択の堆積である、という話を書きました。

参照:九州らしい「縦社会のしがらみ」が、福岡の文化を守っている。

この話を、今日もう一段深掘りしてみると、きっと以下のような流れになっているはずです。

「必要 → 習慣 → 必要性の消滅 → それでも続ける → 文化」

たとえば、お祭りなんてその典型例ですよね。

もともとは豊作祈願だったり、疫病退散だったり、共同体を維持するための具体的な必要があった。

今の僕らからすれば、そんな神頼みで世界が変わるわけがないだろう、と冷ややかに思ってしまうかもしれないけれど、当時はそれが現代の科学ぐらい信頼性を持っていたわけです。

でも、科学や行政やインフラが発達した現代では、昔ほどの実用性はありません。それでも毎年、ものすごい手間とお金をかけて続けている祭りが、日本全国にたくさんある。

合理性だけで見れば、やめてもいい。でも、やめてもいいものを、なぜかやめない。そこにこそ逆説的に文化が宿るから、です。

そして、そうやって守り続けてきたという事実それ自体が、あとから振り返ったときに、その土地の誇り(シビックプライド)として事後的に宿っていく。

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つまり、効用が先にあって続けているのではなく、「毎年同じように繰り返す」という堆積の結果として、あとから意味のほうがやってくるんですよね。

で、これは完全に余談なのですが、先日、福岡の中洲を訪れたときにも、似たものを見た気がします。

日本有数の歓楽街のまっただ中に、小さな神社やお地蔵さんが、ひっそりと佇んでいるんです。

中洲を訪れる直前に観たNHKの「新日本風土記    中洲界隈」という番組の中でも、そんな中洲の「川端飢人地蔵尊」を近所のおばあさんが今も守り続けている姿が語られていて、僕はなぜだか、その姿にとても惹きつけられてしまいました。


「聖と俗」を強烈に実感した瞬間だったからだと思います。俗のすぐ近くには、おどろくほどの「聖」が無言で鎮座していることがよくあって、僕は歓楽街に行くたびに、その場所にひっそりと残る神社やお地蔵さんを、ついつい参拝しに行ってしまう。手を合わせたくなる。

合理性で言えば、真っ先に取り壊されて、飲み屋の一軒にでもなっていそうな土地。でも、人々が見落としているようなそんな場所にこそ、なぜかちゃんと「聖」が残っている。これを文化と言わずして、一体なんと呼ぶのか。

不思議だなあと思うと同時に、これこそが「必要じゃないのに、残したもの」の姿そのものなのだろうと毎回思ってしまいます。(日本全体で言えば「天皇」の存在なんかにも近い)

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そして、この話はAI時代にこそ、いよいよ鮮明になっていくはずです。

文章はいくらでも書き直せるし、画像はいくらでも生成できる。知識はいくらでも呼び出せるのがAI時代です。

今後は、修理も自動化できて、面倒な対人コミュニケーションすら、AIが最適化してくれてしまいます。

失敗のやり直しコストが、あらゆる領域でどんどん下がっていくわけです。

つまり「それ、自分でやる必要ある?」という問いが、これから生活のすみずみにまで入り込んでくるということです。

ハーマイオニーの呪文が、メガネだけじゃなく、僕らの暮らしのすべてに向けられていく時代、と言ってもいいかもしれません。

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だからこそ、逆説的に、これから価値を持つのは、「取り返しがつかないから大切にするのではなく、取り返しがつくようになったあとも、大切にする。」という態度のほうなんだと思うんですよね。

というか、そんな態度の中にしか、もうその人の倫理や美意識は現れないのかもしれません。

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さらに、もうひとつ大事なことがあると思っていて、それは、僕らが真の意味でつながるためには、もはやこのような態度の共有以外に、方法が残されていないんじゃないか、ということです。

論理や合理性による合意形成は、突き詰めればAIがいちばん得意な領域です。

正しさや損得で結びついた関係は、より正しいもの、より合理的なものが現れた瞬間に、「だったらもう、おまえ(たち)じゃなくていい」と必ずなってしまう。

でも、「それでも、自分は◯◯をしない」という個人的な倫理は、正しさや生産性、合理性のものさしで比較をすること自体が不可能です。

以前このブログで、加藤典洋さんの『村上春樹の短編を英語で読む』を引きながら、誰にでも適用される普遍的なモラルとは別に、その人だけが持っている「自分のルール」=信憑や審美観というものがある、という話を書きました。

参照:AI時代、欲をかく「のび太」が大事だと言われることへの違和感。

「なぜかと聞かれても、うまく説明できないかもしれない。でも、自分は、こうする。こうすることにしている。」

共同体やコミュニティと呼べるものは、この種のマキシム(自分だけの非合理な行動規範)を認め合い、共有し合うことでしか、もう形成できないのだと思います。

AI時代には、なんでもAIでできてしまうようになるからこそ、逆説的にこの視点がものすごく大事だと思っています。

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ただ、ここで終わってしまうと、「意識の高い個人の美学」の話に聞こえてしまいそうなので、最後にもう一歩だけ踏み込んでみたいと思います。

最近、「責務」という言葉について改めて考えていて、ふと気づいたことがあります。

「責務と聞くと、全然ピンとこない。」そう言われたことが、僕は過去に何度かあります。

たしかに、傍から見れば、勝手に重たい責任を自分から積極的に背負いにいって、それに勝手に苦しんでいるように見えてしまうからだと思います。

これも結局「全然合理的じゃない」ということです。

でも見方を変えれば、責務だって、一つの贈与なんですよね。

ほかでもないあなたに、私に、その試練はやってきたのだから。

ただ同時に、周囲の誰も、あなたにそれを背負うこと自体を押し付けることはできません。

自らがほかでもないこの私の「責務」として引き受けるかどうか、それだけが世界(神的なもの、運命的なもの)から僕らに問われている。

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哲学者の近内悠太さんの贈与論を借りれば、贈与は、差出人がそれを贈与として押し付けた瞬間に、贈与ではなくなってしまいます。

受け取った側が「これは自分に宛てられたものだった」と引き受け直したときに初めて、事後的に贈与になる。あの話と、まったく一緒です。

それはギフトだけには限らない。いや厳密に言えば「ギフトには、ポジもネガもない」ということです。ただただ贈り物として、私のもとに不意に到来する。

だとすれば、目の前の一膳の白米を一粒残さず食べる人は、誰にも命じられていないのに、その一膳を「ほかでもない、この私に届いたもの」として受け取り直している人と言えるはずです。

それはもう合理性や節約術なんかではなくて、ただただ、「贈与」の受領なんだと思います。そして同時に、それは責務でもある。

きっと、祭りを続ける共同体も、まったく同じことをしているはずです。

必要性の消えた面倒な責務を、世代ごとに「押し付けられたから」ではなく「引き受け直したから」こそ、今も続いている。

繰り返しになってしまいますが、こんなふうに「文化とは非合理な選択の堆積である」と同時に「引き受け直し」の堆積でもあるはずなんです。

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AIのようなテクノロジーが発達すればするほど、逆説的に、人間の価値観はむしろ露出していきます。

魔法で一瞬で直せるものを、それでも壊さないように扱う。

その理由は、もう損得では説明できない。

「世界がどう変化しようとも、自分は、こういう人間でありたい」という意志しか残らない。昨日書いたキムタクの話が、それを僕らに強く教えてくれています。

参照:「時代遅れ(笑)」と笑われたときから、「道」は始まる。

合理性がすべてを剥ぎ取ったあとに、それでも残るもの。それこそが、その人や、その共同体の価値そのものなのだと思います。

僕らがこれから残していくものが、究極的には「必要だから残したもの」ではなく、「必要じゃないのに、残したもの」になっていくのは必定。

そして、その選択にこそ、AI時代の命運を分ける「何か」があるような気がしてなりません。

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魔法ですべてを直せるようになった世界で、それでも僕たちが大切にし続けるものは、何なのか。

AIという魔法によって、あらゆる合理性が徹底的に突き詰められていくことが、もう確定している今だからこそ、その合理性を突き詰めること以上に、「何を非合理のまま残すのか」、それこそを真剣に考えていかなければいけない時代に入ったなと思っています。

一度途絶えてしまったら、あとから復興しようと思っても、きっともう遅いはずだから。

同じ形をつくり直すことはできても、積み重なってきた時間までは、もう戻らないし、次世代にはまったく伝わらないものになってしまうから、です。

案外僕らに残されている時間は、とっても短いのだろうなあと漠然と思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。