昨日、Wasei Salon内で『雨の日の心理学    こころのケアがはじまったら』の読書会が開催されました。

参加されたみなさんの満足度も非常に高く、本当に素晴らしい内容でした。

https://wasei.salon/events/5863c66e1a06

既にアーカイブも公開されているので、読了済みの方は、ぜひご覧になってみてください。

ただ、この高揚感は、アーカイブ動画でも伝わるかどうか怪しい気もしています。

読書会の中では、言葉にならない言葉をやり取りし合って、お互いにケアを実践しあった実感がものすごくありました。そして、イベントの最後にも話題にも挙がったように、その「こころのやり取り」を通して心地よい疲労感もあった。これも含めての読書会だったように感じます

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さて、改めて僕はこの本は、現代においてとっても大事なことが語られているなあと思いました。

ここに書かれていることを実践するひとたちが増えたら、世の中は本当に良くなるだろうなあと。

家族やその延長にある「小さな中間共同体」においては、この本に書かれていることを実践するひとが増えたら、世の中は間違いなく良くなる。

それは、本当に心の底からそう思いました。

会社や学校なども含めたコミュニティ内の「ケアの教科書」として用いられてもいいなと思うほどです。

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でも一方で、あまりにもそれが輝かしい提案、本来のあるべき姿に思えるからこそ、ここに大きな問題も同時に発生するんだろうなあとも同時に思ってしまいました。

それは言い換えると、雨の日のルールが、晴れの日にも持ち込まれてしまう必然性がある。

なぜなら、それは雨の日のルールがとても輝かしく思えるから。とっても理想的に思えるから。

ちなみに、東畑さんがこの本で書かれている雨の日の心理学とは「専門家のための心理学を、素人のための心理学に微量だけ忍び込ませたものです」と語ります。

晴れの日の心理学では対処しきれないとき、こころの不調についての専門知識を活用することで日々のこころのケアを可能にするのだ、と。

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「ケア」を、学ぶむずかしさというか歯がゆさって、まさここにあるなあと思います。

ともすると晴れの日においても「傘、カッパ、長靴などをを用意しましょう!」という話になりがち。

そして、雨なんていつ突然降り出すのかもわからないから、そりゃあ、晴れの日でもそれらが準備されていることに越したことはないわけです。

また常に世界中に「雨の日」のひとが存在する。それぞれの住んでいる世界によって、まったく天気は異なる。それが可視化されるようになったのが、SNSの功罪だと思います。

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とはいえ当然、リソースの問題もあるわけですよね。

物理的なリソースもそうだし、金銭的なリソースもそうだし、時間的なリソースもそう。

そのジレンマが僕らを悩ませる。

「あったほうが良いけれど、さすがにそこまでは準備しきれないよ。それを準備したほうが良いというのはちょっとクレーマー過ぎないか…?」という逆転移が起きやすい。

ちなみに、逆転移とは以下のように本書の中では説明されています。

患者が治療者に対して抱く感情を転移だとすると、逆転移というのは治療者の側に起きてくる感情の変化です。つまり、ケアする側がいろいろな気持ちになってしまうのが逆転移。
たとえば、冷たいお父さんの話を後輩がしている。そういう話をきいてるうちに、「こいつ勝手なことを言うなぁ」とか「子どもっぽいよなぁ」と、友達に対して冷たい気持ちになってくることがある。あなた自身が冷たいお父さんのようになってしまうわけです。


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雨の日のルールは、ものすごく優しいんです。

そして、それが存在していることが、本当に望ましく思えてくる。

また、なによりも「ケア」の圧倒的な正しい論理を見せつけられて、それをできていない自分が、ものすごく無力というか非力に思えてしまう。

結果的に、ケアの類いの本を読めば読むほど、自己の有限性ゆえに、自分が「悪者」になっちゃう感じがするんですよね。

だからこそ、その悪者になる自分が辛いから、その矛先が他者に向かってしまう。

その攻撃の正当性は、ものすごく真っ当で、正論、切れ味がいい。だからそれでバッサバッサと切れてしまう。

そしていつの間にか、自分が他者にケアする話だったのに「なぜあいつらは弱者に対して、ケアしないの?なぜ私に正当なケアしてくれないの?」という話になっていく。

そして、このような議論が繰り返されると、個人のナラティブ偏重にもなってしまう。共感がすべてで、物語重視になっていく。つまりお互いの主張がまったく交差しない。どこまでいっても平行線をたどるわけです。

だから、ケア論って独特のとっつきにくさや距離を取りたくなってしまう部分があるんだろうなあと思うんです。

誤解を恐れずにいえば、ケアを知ると、人はある意味では不幸になる。そんな構造が間違いなくあると思います。

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もちろん、くれぐれも誤解しないでいただきたいのは、東畑さんは「いやいや、そうじゃないんだ」ってことを、本書の中では何度も何度も繰り返し書いてくれていて、だから「ケア」をちゃんと学ぼうとすることが、大事と語ってくれています。

ただ、そうやって受け取ってしまう読者も多いわけですよね。読者のほうがだんだん、そういう他者を断罪するスタンスに向かっていく。これはちょうど、マルクスの主張と過激になっていくマルキシストの構造にも非常によく似ている。

さらに厄介なことに、専門家はそれが仕事で、1日中他者をケアすることに専念できるから、そういう寛容なことが言えるんだ、ともなっていく。

より一層、なんだかケアが特権的に剥奪されているというふうにも思えてくる。

そうすると、自らが疎外されている感覚なんかも生まれてきて、本来できるはずのものが奪われているんだという思考にも陥りがち。

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でも、その一番の根底にあるのは、素晴らしいケアの話を学んで、それに感化されて、でもそれをちゃんと実践できていないという負い目や空回り、行き場のない無力感。

それが政治や組織など、より大きな者への批判によって噴出してくるんだろうなあと。

なんだかこれはフェミニズムなんかにも、非常によく似ているなあと思ってしまいます。

そして、だから「ケア」論は、できれば距離をおいておきたいジャンルみたいにもなりがちなんだろうなあとも思います。

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あと、ケアの話を読めば読むほど、現代の若いひとが家族を積極的に作らない理由も、もしかしたここにあるのかもしれないと思い始めてくる。

今の若い人は基本的には優しい人が多い。そして、その優しさをちゃんと実行しようともする。自己の責任を全うしようとするひとが多いんです。

で、基本的にはケアの問題は、多くの場合、家族関係の問題に起因しています。配偶者と子どものケア、あとは親の老後のケアもそう。もしくは職場や学校の人間関係。

すると当然、職場や学校においてさえ、うまく実現できていないことに、ここに新たな家族としての配偶者や自分の子どもが入ってくるなんて考えられない、到底私にはそれは実現できないって思ってしまうんだろうなあって。

言い換えると、ケアを学べば学ぶほど、ケアする側の負担が多すぎることがわかるから、家族なんていたら身体も神経も持たないと言うふうに思う人はものすごく多そう。

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実際問題、昨日も「ケアしたいけれど、そのリソースがない」ということが何度もそれぞれの参加者から話題に挙がっていたのは、本当に印象的だったなあと思います。

そしてこういう本を読めば読むほど、そのケアの大変さも理解しないままに、家族をつくってしまって、そのあとに苦しむ人たちがなんだかものすごく愚かに見えてしまうジレンマなんかもあると思います。

ここにもたぶん、逆転移みたいなものが発生している。自分から茨の道に飛び込んで、端的にバカだなぁって思っちゃう構造的要因が、ここにはある。

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でも東畑さんはここも先回りして回答をしてくれていて、「きく」と共に「わかる」が大事という話をしてくださっているんですよね。

更にその「わかる」は「予防ではなく修復するために必要」という助言も本当に素晴らしいなと思います。

この点、僕らはどうしても予防したいと思う、先回りして対処できていることor問題がそもそも起きないことが最善だと思いがち。

それは小さな頃から「なぜ最初から準備しておかなかったの?」と親、学校の先生、上司から何度も叱られるから、ですよね。

結果として、明らかにキャパオーバーなことは最初から行わないということが最善策になるわけです。賢ければ余計にそうなる。つまり、それが最善の予防的処置となる。

でも、予防ではなく修復が大事だと東畑さんは言います。

本書で逆転移の場面で以下のように書かれている。

必要なのは予防ではなく、修復です。
転移と逆転移が起きないようにするのではなく、起きてしまったときに、関係がおかしくなっていると気がつき、やり直すこと。
傷つけていることを自覚して、傷つかないように再調整する。
そのためには何が起きていたのかを「わかる」ことが必要になります。


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必ずひとは傷つく、ケアできない無力感にも襲われる、そこから再度、修復に踏み出せるかどうか。

ここの踏み出すことへの勇気をどうやって持ってもらうのか、それがとても大事だなあと思うんですよね。

そのためのヒントとして、「わかる」ための教材としてこのような本を書いてくれているわけですから。

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だとしたら、昨晩の読書会のように、共に読んでみること。

そして、共に読んだ仲間がそれぞれの持場において、自らに実践している様子を知れること。

また、その実践している仲間と共に繋がり続けて対話が開かれていること。そこに大きく励まされるもの、そして勇気づけられるものがあるよなあと思うのです。

最初から絶望して、やらないという予防線を張るよりも、起きてしまったときに、状況を分析して「わかる」を通して、何度でも「修復」をしていく。

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その胆力を持てるようになることが、今とても大事なことだと思います。そのための方法をこれからも問い続けていきたい。

何はともあれ、本当に素晴らしい本だなと思うので、ぜひ本書を直接手にとってみて欲しいです。

ものすごく読みやすい語り口で書かれている本で、誰でも気軽に読むことができるはず。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。