最近、LINE NFTの話題が盛んになっています。

でもこれって、当初のNFT原理主義的な話から考えると、実はかなり理想とはかけ離れている話だったりする。

具体的には、LINEという大企業に個人情報は握られていますし、匿名性は全く担保されていません。

しかも、LINEがサービスを停止したときに、僕らにそのNFTの「所有」の権利が残るのかは、まったく定かではないわけですよね。

最初のWeb3の構想、具体的にはブロックチェーン技術やそこから生まれる「所有」の概念が刷新なされていないどころか、ある種の時代の逆戻り感さえあるわけです。

でも、それもある意味で正しいというか、これこそがNFTという「ゲーム」なんだよなあと思います。

なぜなら、ゲーム及びそのルールというのは、常に「観客」が定めていくからです。

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これは、先日の「NFTの冬相場に思うこと」の中でお話した「完全匿名性の担保は本当に必要なのか?」という問いにも絡んでくる議論だと思っています。

そして、唐突ではあるのですが、ここで僕が思い出しているのは、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」のお話なんです。

具体的には、東浩紀さんの『哲学の誤配』の中で語られていた「観客」のお話。

「NFTに、言語ゲームの話がどうして関係するの?」と思われてしまうかも知れないですが、僕はすごく関連してくる内容だと思うので、今日のブログの中でも書き残してみたと思います。

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では、早速、該当箇所を本書から少し引用してみたいと思います。

ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、一般に、ルールの不在を強調した哲学だと理解されている。ぼくたちはふつう、ゲームとは、なんらかのルールがあって展開されるものだと考えている。けれどもルールとはなんだろうか?    ルールはどこに存在するのだろうか?    プレイヤーはほんとうにルールを熟知してプレイしているのだろうか?    そのように問いを進めていくと、ルールなんてほんとうは存在しないという結論に達さざるをえない。ぼくたちは、ただたんにゲームをプレイしている。そしてあるときはルールに則っていると判断され、あるときは違反していると判断される。ルールとは、そのような事後的に振り返って見出されるものでしかなく、だからこそ同じゲームのなかでルールが変わることもありうる。──ウィトゲンシュタインの主張は、このようなものだと広く理解されている。

けれどもその理解では不十分である。それでは、あらゆるコミュニケーションには根拠がなく、成立しているようにみえるのは奇跡でしかないというニヒルな主張にしかつながらないからだ。ぼくの考えでは、彼の議論の核心はむしろ、ゲームがゲームとして続くためには必ず「観客」が必要となること、裏返せば、 ゲームとはそもそも観客を生み出すためにこそ続けられるものであること の発見にある。

(中略)

ゲームは観客なしには持続しない。裏返せば、ゲームを持続させるためには、観客を生み出さなければならない。これはたいへん具体的な話である。野球にしてもサッカーにしても、ルールがきちんと定められ、審判制度が整備され、フェアなプレイが約束されているのは、そこに観客がいるからである。


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さて、いかがでしょうか。確固たるルールがあるわけではなくて、常に僕らは自分たちにとって納得感のある方向へと、無意識的に「ルール」を変更しながら、毎日ゲームを行っているのです。

まずは、この事実を正しく認識したい。

本書の中にもわかりやすい具体例としてあげられていましたが、子どもの「遊び」は常に変化していて、鬼ごっこをしていたかと思えば、突然かくれんぼに変わっていたりする。

これは良し悪しの問題ではなく、人間は言語ゲーム(遊び)において、昔からずっとそういうことをしているということです。

このときに、ルールの固定及び変更には、必ず「観客」の存在が必要になってくる。

そして今、NFTの冬相場における頭打ち感とホルダーの数を増やしていくという名目のもと、既存の観客と最初に集った理由とは180度異なるようなルール変更をしれっと行っているわけですよね。

ここに、典型的な「言語ゲーム」が行われているなあと思うわけです。

何度も繰り返しますが、これは今の流れを否定しているわけではなく、それがコミュニティの姿であり、政治共同体の姿そのものだということです。

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そして、東さんはこのウィトゲンシュタインの言語ゲームを、哲学者のハンナ・アーレントの『人間の条件』とつなげて考えることが大切だと語られています。

もう一度本書から引用してみたいと思います。

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ゲームは観客がいなくては存在しない、ゲームはむしろ観客を生み出すために続けられるものだと理解するべきだと主張するとき、ぼくが念頭においているのは、じつはハンナ・アーレントの政治哲学である。     

アーレントは『人間の条件』において、人間の行為(acitivity) を、活動(action) と制作(work) と労働(labor) の三つの領域に区別した。活動は言語的な表現行為を意味している。制作はものづくりを意味する。労働は肉体労働を意味する。アーレントはそのような区別のうえで、人間が人間であるためにもっとも重要なのは活動であり、そして政治とはその活動が現れる場なのだと主張した。

ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、このアーレントの「活動」の概念とつなげて理解するとよい。じっさい、アーレントは「活動は、製作とちがって、独居においてはまったく不可能である」と記している。活動はかならず他者を必要とする。観客を必要とする。それはさきほどまで議論してきたゲームの概念に似ている。ぼくたちはここから、逆に、一般に政治と呼ばれる活動は、そもそもが、市民と呼ばれる観客を生み出すために続けられる、大きな言語ゲームなのではないかと問うことができるだろう。 


これは、ものすごく重要な指摘をされているなあと思います。

まさか、アーレントの『人間の条件』のお話とつながるとは、僕も思ってもみませんでした。

でもまさに東さんのおっしゃるとおりで、つまり僕らはコミュニティ活動を通して、ある種の「政治」活動を行っているわけです。

そして、NFTも全く同様で、このツールを媒介にしながら毎日必死でその「政治活動」を行っているわけです。

そして、そのルールというのは、日々刻々と「観客(ホルダー)」と共に変わり続けているわけです。

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で、僕はこのような活動が行われていくなかで、ものすごく大事だなあと思うのは、運営に対して協力的であることと、運営が言ったことをそのまま鵜呑みにして、思考停止状態になり、言われたとおりに行動にすることを、混同しないことだと思うのです。

なぜなら、それは必ず独裁に陥るからです。

観客、つまりNFTにおけるホルダー側に後者のようなタイプのひとが増えたら、運営側からは一瞬は喜ばれてうまくいったとしても、遅かれ早かれその共同体は終わっていく。

そうじゃないと、コミュニティ活動における政治というゲームがそもそも成立していかないのです。

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この点、運営側というのは、いつどんな状況だってどうしてもポジショントークにならざるを得ないんですよね。

それは立場の構造上、必ずそうなります。それを防ぐことは絶対にできません。

というか、むしろそうであるほうが、本来は望ましいはずなのです。

なぜなら、そのほうがちゃんと政治が安定し機能していくから。

具体的には、三権分立や、メディアの監視機能など、先人たちが築き上げてきた政治体制というのはいつだって、そうやってそれぞれの立場を、それぞれが全力でこなすことで、健全に成長発展してくるように構築されてきました。

言い換えると、そうやってお互いが自らのポジションからトークを行い合い、そこに緊張関係があるような状態の中で綱引きをすることで、一番いい結論を導き出すことができると歴史を通して導かれてきたわけです。

つまり、そうやってお互いに「歯止め」となっていく必要があるわけですよね。

まさに、コミュニティを駆動させる政治っていうのは、そうやって行われるべきものなのでしょう。

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ここで、話がわかりやすくなるように、現状の日本の状況を少しふりかえってみれば、今の日本の政治がグズグズなのも、政治家側だけが悪なのではなくて、メディアの腐敗や、官僚の忖度行為、そして一番の観客である国民の無関心などなど、全てにおいてドンドン負のスパイラルにハマってしまっている状況が救いようのない「悪」なわけですよね。

つまり綱引きの綱が、ダルダルな状態であるわけです。

そうなると、国家は自分たちに都合がよくなるように、メディアと結託して、国民という観客にバレないように国家側の自陣営に、少しずつ綱を引っ張っているような状態となるのは、当然のこと。

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わかりやすいスポーツのルールに話を戻すと、サッカーだって野球だって、観客との関係性において、常にそのルールを変更し続けているはずなのです。

逆に言えば、観客が存在しなければ、ルールの変更さえ必要としないはず。

僕は、バスケットボールをずっと続けていましたが、あんなに単純なスポーツなのに30秒ルールが24秒に変更されたり、前後半ではなくクオーター制度が導入されたりと、よりゲーム展開が早くなり観客が楽しめるルールが導入されて、ルールが逐一変更されてきました。

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そうやって、運営とプレイヤー、そして観客が共にゲーム自体を共につくりだしているという感覚を持つことができるかどうか。

だから、NFTにおいても、本当はもっともっとホルダー側から「ホルダー側のポジショントーク」の提案があってもよいと思います。

コミュニティにおける「共創」ってつまりはそういうこと。

より活発な議論と、それぞれの立場からの建設的な提案がこれからは非常に大事になってくる。

でも今は、ほかのプロジェクトに対しての誹謗中傷に明け暮れていたり、ALの話や価格上昇施策の要求に関する話ばかり。それを要求していても仕方ないし、コミュニティ自体も発展もしていかない。

それは国家側に対して「補助金をばらまいてくれ!」と毎日要求しているようなものです。

何の益もありませんし、それは政治に関与しているように見せかけて一切政治に関わっていないズルい態度だとも言えます。

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最後にまとめると、運営と意見が異なる場合には、ちゃんとホルダー側も自らの意見を主張していく。

そのための第1歩として、まずは「観客の成熟」がいま強く求められていると思います。

もちろん、相手の立場に配慮したうえでの、敬意と節度のある発言であることはものすごく大切だと思います。

そして、これは以前語った「読モ」の話にも近いかと思います。


運営に対して協力的でありつつも、単純に運営の言いなりにだけにはならない「読モ」のような存在が、これからはドンドン増えていくといいのかなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。