先日、オーディオブックで村上春樹さんが書かれた『ノルウェイの森』を上下巻を聴き終えました。

俳優の妻夫木聡さんが朗読をされているということで、その朗読している感じが一体どんな雰囲気なのか、そんな興味本位で少しだけ聴いてみようと思ったら、見事に一気に引き込まれてしまって、最後まであっという間に聞き終えてしまいました。

春の東京の散歩しやすい気候と、本当に相性の良い本だった。

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『ノルウェイの森』は、大学生の頃に観た映画の印象が強すぎて「このストーリーの一体何がおもしろいんだよ」と思って、これまで生きてきたのだけれど、35歳になった今、この小説に触れてみるとその印象が180度変わってしまい、本当にものすごくおもしろかったです。

これを妻夫木聡さんの声で上下巻、最初から最後までオーディオブック化してくれたAudibleには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。


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で、この体験を通して改めて強く思ったことは、この小説は10代やハタチそこそこで理解できるような小説じゃないなということです。

少なくとも、自分の10代や20代のころにこの話が理解できたとは到底思えない。

この作品自体は大学生の物語ではあるけれども、主人公が37歳のときに当時を振り返っているような形で物語は始まっていて、実際にはそれぐらいの年齢に刺さる小説なのだと思います。

実際、この作品が出版されたころの村上春樹さんの年齢もそれぐらいらしいです。

いまアラフォーの方々は、ぜひ今ぐらいのタイミングで聞いてみてください。逆に、アラサーのひとたちは、このブログで興味を持ったとしてもあえてまだ待ってみてもいいんじゃないか、と思います。

それは決して年齢でマウントを取りたいわけでもなんでもなくて、もったいないかもよって思うんです。

本というのは決して逃げない。タイミングは自分で選べる。より楽しめるタイミングがやってくるから、もう少し待ってみて、と素直に思う。

きっそ、そのタイミングというのは世阿弥がいうところ「時の花」みたいな感覚にも近いのかもしれません。

ただ、あるのは時との関係性だけ。「時」に合っているものが良いもので、合っていないものが悪いものになる。

あらゆることは時機を得ているかどうか、その「時」との相対的な関係で決まる、と世阿弥は語ったそうです。


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さて、今日の本題はここからで、僕は年齢が熟すまで待たされることは、決して悪いことではないと思っています。

むしろそれは、とても豊かなこと。

「子どもにはわからないよ」と軽くあしらわれて、いなされるようなことって僕はそれほど悪くないと思うのです。

でもそれは、現代社会ではひどく嫌われることでもあります。

もちろん、そのような対応にイライラしてしまうのが「若さ」の特権でもあるから、またそれはそれで良いことなんだけれども、決してそれは年齢差別とかそういう話じゃなくて、本当に単純に「時の花」にはまだ早い、みたいな話なんだと思います。

個体差はあれど、花が咲く時期というのも大体は決まっている。今の桜の花がそうであるように、です。

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よく小さい頃に、子どもが大人の真似をしたがって、ビールに一口くちをつけてみるんだけれども、「苦い!」って顔をしかめるのと一緒で。

でも、その瞬間に「こんなもの一生飲まない!」ってなったら、それはそれでもったいないですよね。

「アンパンマンのリンゴジュースだけでいい!これが世界で一番おいしい飲み物だ!」と主張してもいいし、確かにアンパンマンのリンゴジュースは、びっくりするぐらいおいしいのだけれども、そのような解釈だけだと、やっぱりもったいない。

あんまり背伸びしても仕方ないし、いつまでもアニメ漫画ゲームばかりじゃ、それはそれでもったいない。

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世の中には、そういうものがたくさん存在しているんだろうなあと思うんです。

置かれている立場によって、その感じ方自体も、まったく変わってくる。

だからこそ、「今の自分が理解できないものを無闇矢鱈と否定して、破壊しない」って本当に大事だと思うんですよね。それだと、中国の文化大革命なんかとほとんどかわらなくなってしまうから。

「わからないものをわからないままにしておくこと」の重要性って疑問や問いだけではなくて、そのように「今の自分にはその良さが全くわからない」ことも素直に認めることも、そこには含まれてくると思うんですよね。

年齢を重ねて、時が経過したときに、ふとしたきっかけで触れ直してみて「意外といけるね」の発見のほうが、はるかに人生は豊かなものになると僕は思います。

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これは昨日の「理解責任」の話にも通じるところだけれど、説明責任を果たしてくれないものはすべてに文句をつけてぶち壊す、というのはあまりにも乱暴過ぎる気がするんです。

自分にも「理解責任」があると思えば、世界がガラッと変わって見えてくるはずで。

それは、目の前の扉が自然と開いていくような感覚にも近い。

渦中にいる人間には決してわからないことがこの世には存在する。それはある種、幸せなことでもあるかと思います。

でも、その渦中からの離脱してしまった人間からすると、そのまみれている様子というのは、もはや前世のようにも思える瞬間がある。

あんなにもあたりまえに存在したことの「一回性」みたいなものを、もう決して経験できない身体になってしまった悲哀というような。

これは「自分の中にある初々しさに気づけないことが、初々しいということ」の話にもとてもよく似ているかと思います。

サロンの中で最近書いた話で言えば、自転車で転ぶ一回性の話なんかにも非常によく似ている。

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ほかにも、年齢を重ねれば重ねるほど、桜よりも自然と梅の花のほうの味わいが増してくる話にも似ている。

それは、桜が美しくないと否定しているわけでは決してなくて。

美への関心みたいなものが移ろいゆくことのほうが、自然だという意味です。

成長や成熟とは、そうやって自己の認識のほうがガラッと変わること。

環境や世界のほうを無理やり変えようとしてみても仕方ないのですよね。それは、端的に言って「将来の自分」を苦しめることになる。

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ではなぜ、ひとは環境や世界のほうを今の自分の価値観に合わせて変えようとしてしまうのか。

このあたりが一番の問題となってくるかと思います。

それは、観念の世界の自分を「変わらない自分」だと思わされているからなんだろうなあと。だから、環境要因なんかによって私が変えられることなんてまっぴらごめんだ、ってことになる。

で、その究極系がテクノ・リバタリアンたちの「トランスヒューマニスト」のような存在でもあるんだと思います。

トランスヒューマニストは、自分は決して死なないものだと思っている。

そもそも「自分は本来は死なないはずなのに、死すべき肉体というその過ちの中に囚われてしまっている」と感じている。だから、科学の力でその過ちをどうにかしないといけないと思い込む。

そりゃあ、そんな認識になって当然なのです。「変わらない私」という檻にとらわれると、その最終形態として、私を阻むものは「死」なわけですから。

でもそれは科学的だと思われつつも、ものすごく宗教的というか、宗教そのもののようにも僕には見える。

変わらない私の究極系のようなものとしてキリスト教における「最後の審判」の実現、それを神話の物語の中だけではなくて、科学でも実現したいと願う気持ちでもあるわけですから。

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僕はここで、どちらが正解・不正解の話をしているわけではなく、ただ、この世界に生きている以上、どっちが幸せだと感じるのかを、各人がそれぞれに考えてみて欲しいことだなあと。

僕の場合は、今の自分にはまったくその魅力が理解できないものが、世界の中に多数存在し続けてくれていることが本当に豊かなことだなあと思う。

それこそ、先人たちからの贈与そのものだと思うからです。そこに敬意と配慮を払いたい。

そしてそれは、この私が発見した瞬間に解凍される魔法のようなものでもある。

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その点、年齢は嫌でも「自分の変化」をハッキリと自覚させてくれるものなんですよね。

自分を意図して変えようと思わなくても、身体から先にドンドンと変わっていく。経験を積み重ね、社会的な立場も、みるみるうちに変化していく。

だからアンチエイジングも、これだけ流行るわけです。自然に抗いたいから。美容整形なんてその最たるもので、それが一番のビジネスになるのも間違いない。

結果的にそのような広告が溢れた世界を生かされることによって、主従が逆転してしまい、17歳ぐらい自意識が完成したタイミング、そこからの「変わらない私が存在する」と信じるようになる。

でも、そんなわけないじゃないですか。

それを認めると、世界中がすべてディズニーランドになってしまう。

17歳の自分だったらそのような状況に狂喜乱舞をするのだろうけれど、そんなの一ミリも豊かじゃないと、今の自分だったら思うはずです。

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昨日まで完全に見落としていた道に咲いている花をみつけて、その花の存在を知る前の自分には、もう決して戻ることができなくなること。

そうやって、自分という存在は常に変わり続ける。そこに生きる喜びがある。

他者や世間から、強制的に強いられるわけではなく、それを自分のちからで、自分の「理解責任」において見つけていくことが、生きるうえで本当に大事なことだなあと思います。

そのための地図みたいなものは先人たちがしっかりと残してくれているわけだから。あとはそれを探しにいく旅に出るかどうかです。

文学や教養の素晴らしさは、ここにある。

北極星を目指しつつ、道端に咲いている何気ない花も同時に愛でること、それは、きっと両立できる。

いまとても大事なことだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。