最近、小説や文学の話題が増えてきたなあと思います。

じゃあ、なぜいま、文学の復興が叫ばれているのか。

それはきっと、社会的な正しさが完全に消失したから、だと思います。

変な言い方になってしまいますが、ポリコレを筆頭に正しさを主張する人たちも、正しさのために正しさを用いている状況。

いわゆるな哲学者や宗教家たちも、哲学のための哲学、宗教のための宗教を行ってしまっている状況。それは完全に、堂々巡りな状態に陥っているわけですよね。

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現代の世の中で「満足に生きるための哲学、生きるための宗教」を、誰も説いてくれていない。

でもソレも仕方ない、これもまた、大企業における雇われ社長みたいなもので、系譜を次ぐことの重要性はありつつも、昔の哲学者や宗教家たちのように、創始者にしか切り開けない道もあるのだと思います。

そんな中、きっと文学や小説が持っている力が存在し、今そちらに注目が集まりつつある。もちろん、そこから派生した映画や漫画なんかもそうです。

今日はそう考える理由について、丁寧に書いてみたいと思います。

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この点、5年ほど前のコロナ禍の学び直しブームはひとつの転機だったと思います。

世界中の人々が、同時に「正しさ」に対して興味を持った。哲学や教養が世界でブームになった。

でも今は、そこから更に進んで、「それが正しいことはもうわかったよ。で、これからどうするんだ?」という状況ではあるけれど、専門家たちも、誰もそれを提示できていない状態。

「あー、このひとの言ってることは確かに正しいのかもしれないけれど、実益はない。」つまり「使えない」と思われてしまっているんだろうなと思います。

そのように、「社会的な正しさ」が無力であることが完全に見せつけられてしまった。

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たとえば、ご本人もそのような葛藤を各メディアで見せているからこそ許されると思うのですが、斎藤幸平さんの『人新世の資本論』とかは、とてもわかりやすかったなあと思います。

そして、答えがわからずに悩んでいるうちに、ドンドンと容赦なく、AIの波、インフレの波、インバウンドの波、海外資本の波が日本に押し寄せてくる。

逆に言うと、コロナ禍は、それらが世界単位ですべて一時停止したからこそ、「学び直し」のムーブメントが起きたわけだけれども、でも今はもうそんな悠長なことも言っていられないフェーズに入ってしまった。

逆にコロナ禍で止まった分だけ、さらに加速しているのが今の社会です。トランプ政権がそれを後押ししていることは言うまでもない。

つまり立ち止まっていると、「命ごと奪われてしまうかもしれない」という漠然とした恐怖感もそうですし、「このバブルに乗り遅れるな」という焦りやFOMOなんかもあると思います。

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もちろん、これは世界全体の話であって、世界の流れ以外にも「個人の人生の流れ」も同時にあるはずで。

具体的には、団塊の世代は、余命いくばくかになりつつあって、団塊ジュニア世代は、仕事人生いくばくかになりつつある。

つまり、日本のボリュームゾーンが「人生」と「仕事」において端的に焦っている。それは本当に強く伝わってくる。

とはいえ、繰り返しになるのですが、そのときに依り代になるような「答え」が存在していない。それぞれにそれぞれの理想や目的があり、完全に十人十色です。合意形成さえなされない。

先日、シラスで配信されていた東畑開人さんゲスト回の動画を観ている時に「何が正しいかわからず、『人間関係』と『制度』だけがある。」という言葉がスライドに掲げられていましたが、本当にそのとおりだなと。

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で、このような答えがないというのは一般的な道徳や倫理が消失した世界において、君たちはどう生きるか、ということでもあるかと思います。

言い換えると、哲学や倫理のように原理的な話ができるというのは、原理的な話をしていても許される日常があったからで。

それは哲学の起源、ギリシャ哲学の始原をわざわざわひも解かなくても、すぐにわかることで、原理的な思考が追求できるというのは衣食住が満足に行えるから、です。

いま明らかに時代が動き始めていてるときに、明日がどうなるかわからないなか、世の中が目まぐるしく変化している時に、そんな余裕がなくなっていくのもよくわかる。

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たとえば、誰もがわかりやすいところで言えば「学校」の議論なんかはそうですよね。

確かに、生徒に対しての理想的な関わり方は、教育論の中で散々議論されているのかもしれない。そして、それは正しい意見として堂々と表明されがち。

でも、少子化が進み、現に学校自体が存続困難な状況になっているときに、その正しさは現場ではほとんど効果を持たない。

そして、移民の子どもたちなんかも増えてきていて、学校に行かせることが善でもない社会の中で、オルタナティブスクールなんかもバンバン増えていく。

従来の学校教育がまさにいま崩壊しようと仕掛けているときに、ポリコレ的な正しさを掲げられると、邪魔くさいだけということはよく分かるかと思います。

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でも、哲学者や教育学者は「いやいや、だからこそ原理が大事、基本に立ち返ることが大事だ」と語る。いちばん、まっとうな正論を説いてくるわけです。

でも現場にいるひとたちにとって「欲しいのは、そういう処方箋じゃないんだよ」ということだと思うのです。

そんな悠長なことを言っていられるタイミングではもうない。「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きてるんだ」ということだと思うんですよね。

このようなことが「学校」に限らず、今いたるところで起きている。

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で、そこで、小説の復興なのだと思います。

「え?小説や文学こそ、余暇時間のものなんじゃないの?」と思うはず。

でも、僕はそれは違うんと思うんですよね。

小説こそ、有事の際、答えがない時代に価値あるもの。

なぜなら、読者一人ひとりが、正しさが消失した世界の中で、ある種の究極的な思考実験が可能となるわけですから。

小説は必ず何か、物語が始まっていく。というか物語の中に、強制的に巻き込まれていくのが、小説というフォーマットのおもしろいところ。

そこでは、表の世界では許されないようなことがドンドンと起きて、人の裏切りがあり、人があたりまえのように死に、主人公が窮地に追い込まれる場面も多数描かれている。

その場においては、平時の一般的な道徳観念は何も通用しない。

で、その中で読者は「もし自分だったらどうするか」を常に問い続けながら、追体験、疑似体験できることが、小説やそれを原作とした映画の持つ力強さでもあるわけです。

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昨日もご紹介した映画「宝島」も、まさにそのようなことを突きつけてくる映画でした。


そして、この映画の舞台挨拶の中で作中の重要な役柄を担っていた窪田正孝さんが、

「正義同士でぶつかっているから、どちらも言っていることは正しい。そのままならなさを演じることを意識していた」というようなことを語られていて、実際にそれがとても見事に描かれている作品だったなと思います。

そして、それらの葛藤がぶつかりあい、鬱屈したエネルギーを貯めていってしまうと、映画の一番のクライマックスシーンでもあった、実際の歴史でも起きた「コザ騒動」のようなことが起きてしまうわけです。

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さて、話をもとに戻すと、文学というのは僕らに、正解がないときに自分がどのように意思決定をするのか、それを考える機会を強制的に与えてくれる。

倫理や常識がぶち壊された状況の中で、本当に正しいことは何か、自分が大切にしたい価値観が何かが問われる、その思考実験こそが、文学なんだろうなと思います。

で、ここで思い出すのは河合隼雄さんが「大人の友情」というテーマの中で「ほんとうの友人とは?」という問いに対しての答えです。

「夜中の12時に、車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言った時、黙って話に乗ってくれる人だ」と語った話です。

これって、まさに文学の話だなあと思います。映画みたいな世界観ですよね。

そして、いま、ありとあらゆるところで、みんな自分の車のトランクの中に「死体」を入れている。もちろん、比喩的な意味で、です。

つまりそれは、なにかしらの「秘密」です。

社会通念としては許されることではないかもしれない。批判されること、批判される考え方や価値観なのかもしれない。また、そのことにあけっぴろげに開き直る人々も世の中には増えてきた。

そして、それをどうするかが、今問われている。

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だからこそ、友人として語り合える関係性が今求められているなと思いますし、そのヒントを与えてくれるのが文学なのだと思います。

ポリコレ的な正しさによって、警察に突き出されたいわけでもないし、寄り添いすぎて過度に同情されるのも違う。

黙って耳を傾け合って、自分の答えを見つけたい、その先にある「満足な人生を、本当の意味で生きたい」ということだと思います。

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つまり、倫理的な正しさから逸脱している関係性の中でこそ、自分の本当の価値観や倫理、信念が試されるし、そのための題材が文学で、そのための話をただ黙って乗ってくれる「友人」がいま求められているということなんだろうなあと。

最後にこれは蛇足ですが、生きづらそうな人を、生きづらそうなまま包摂することの重要性が本当に大事になってきているなと感じます。

どうしても僕らは、生きやすそうになった形において、つまり「健全に、健やかになってもらったうえで」包摂したくなるのだけれど(つまり可哀想な被害者が正しく改善していく物語として包摂したくなるけれど)実際にはそうじゃない。

というか、それでは救われない人々がたくさんいるということがわかったのが、まさに今だと思うのです。

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だとすれば、本当に大事なことは、まず包摂。

そのあと、どうなるかはその人次第。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。危害を与えてくるわけではなければ、そこはただ黙って見守るほかない。

喩えるなら、太った人を、太ったままに包摂する。肥満を解消したら包摂する、そうじゃなければ包摂しないといのは、やっぱりどこか間違っている。

もちろん、それは自分自身の中にある複数性に対しても同様です。自分の中の「太った人格」を否定しすぎない。

そうじゃなくて、それも含めながら、どうやって再出発するか。いかに弔うかが問われているはずです。

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文学は、いつの時代もそういうときのための物語を描いてくれていることが多いなと思います。

混迷を極める時代になればなるほど、これからますます文学が求められる時代になっていくんだろうなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。