昨日、イケウチオーガニック京都ストアで池内代表と建築設計士・黒木のトークイベント「変えるコトと変えないコト」が開催されました。

僕はこのイベントに、ファシリテーター役としてイベントに参加してきた形になります。

とても話が盛り上がり、集まった観客のみなさんからも数々の質問が飛び交いながらの非常におもしろいイベントとなりました。

僕が、おふたりのお話を聞かせていただくなかで、とても強く腑に落ちたことは「変えること、変えないこと」においていちばん重要なことは、変える・変えないのその判断基準ではなく、ひとつひとつを「決断していく力」なのだということ。

今日はそんなお話を、後日談としてこのブログにも書き残しておきたいなあと思います。

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この点、どうしても僕らは、自らの仕事や人生に迷いや葛藤が生まれるとき、変えることと変えないこと、その判断がつかないから迷ってしまって決断できずにいるんだと思いがちです。

それゆえに、うまくいっているひとは、その部分の選び取る解像度が非常に高いはずであろう、という仮説が自然と成り立つわけですよね。

だから、うまくいっている人に対して「変えること、変えないこと、それぞれの見極め方と変える時の実行する際の基準は何ですか?」というような問いをぶつけて、少しでもその解像度の高さのヒントを得たくなるのだと思います。

ご多分に漏れず、僕も今回のテーマに合わせて、「ニーバーの祈り」の中に出てくるよう3つの基準をメインに、おふたりに質問をぶつけてみようと思っていました。

具体的には以下のような質問です。

・変えることを変えるときに必要な勇気のポイントは?
・変えないこと(変えられないこと)を受け入れる冷静さとは?
・変えること、変えないことをそれぞれに見抜くための知恵とは?

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でも準備している質問をお二方にぶつけてみても、こちらが期待してるような何か明確な基準や、その「イエス・ノー」としてのアンサーが返ってくるわけではない。

そのため、前半の会話がなかなか噛み合わない印象が、僕の中ではありました。

そこで、イベント中に僕はふと思ったんです。

あ、これは問いのそもそもの前提がきっと噛み合っていないんだ、と。

僕らは、池内代表や数々の古民家再生を手掛ける黒木さんお仕事を見て、おふたりは手に取るようにそれらの違いを理解していると思っていたけれど、どうやらそうじゃないらしい。

それよりもむしろ、わからない中でも「決断する力」そして「決断したことを引き受けていく力」のほうが大事なんだと。

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一般的に僕らは、基本的には年齢を重ねるほど保守的になりがちです。

転職、起業、結婚離婚、子育て、移住などなど、どれも年齢を重ねれば重ねるほど、変化を拒みやすい。

それは言葉よく言えば「なるべく変えない方向できた」とも言えるかもしれないけれど、それはひたすら周囲に流されているだけで、ただただ「何も決断をしてこなかった人生」とも言えそうです。

一方で、おふたりの場合は、しっかりと時間を掛けた丁寧なものづくりを行い、迷い答えのわからない中でも、一歩一歩と着実に決断しながら、各事業やプロジェクトを前に進めて来たわけですよね。

その決めていく過程を、客観的に後から他者に眺められたときに、変えることと変えないことが綺麗に見えているんだろうなあと誤解されているだけなんだということに、なんだか無性にハッとさせられました。

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しかし、そうやってわからない中でもバシバシ決断していくと、今度は変えていく方ばかり、革新的な方向ばかりに目が向きがちになると思います。

僕自身もそうなりがちです。いわゆるネオリベや新自由主義的な発想へと傾倒していく危険性があります。

その中で、古民家再生をいくつも手掛けてきた黒木さんのお話で、僕がとても腑に落ちた話がありました。

黒木さんは「変えないことは、時間をかけて取り組んでいるなかで、自然と見えてくるものなのか?」という質問に対して、「質問の意図とは少しズレるかもしれないけれど」と前置きをしながら、以下のように答えてくれました。

「十数年ぐらい前に、築100年以上前の建物にいくつか関わったことに気づいたことがあるんですけれど、この建物がそれだけ長い時間残ってきたということは、もちろん過去にいろいろな人が関わっていて、僕の次の設計士もいるんだよなと思ったんです。

30年後の設計士さんに対して、うまくバトンタッチできるような建物が、こうやってずっと何百年も残る建物の形であるのだと気づきました。自分の建物じゃないということが明確に見えたときに、その触って良いものと、残さないといけないものが見えてくる。」


このお話は、ものすごくおもしろい話だなあと僕は膝を打ちました。そして、驚くほど示唆に富む話だなあとも感じたんですよね。

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積極的に自分を出していこうとするから、すべてが自分が変えるべき要素に思えてくる。

一方で、その自分に対しての自信のなさから、すべて自分が触ってはいけないようなものにも思える。

でも、古民家再生のような事業であれば、必ずそれをつくった前の人が当然存在をしていて、そして、同様に自分よりもあとに、その建物の設計士として関わる方も生まれてくる。

そうやって、最初のつくり手さんと、未来の次のつくり手さん、そのあいだの架け橋になることを意識さえできれば、自然と変えるべきところと、そうではないところが見えてくるということがわかるようになる。

黒木さんはそれを「建物の重心のようなもの」と表現されていて、なんだかその”重心”という実感値が、とても良くわかるなあと感じました。

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僕が普段からこのブログで、書き続けてきた「架け橋になる」というのも、まさにこの感覚を重視したいがゆえの部分だったのだと思います。

そうやって、自分に対して贈与してくれた人のことを想い、彼らの今はなき声に耳を傾けようとする。

そして一方で、次の世代の自分が贈与するひとたちの声なき声にも耳を傾けることによって、そんな重心のようなものが自然と立ちあらわれてきてくれるということなんだろうなあと。

そうしたら、何でもかんでも変えたいと願ってしまう自分の中にあるエゴのようなものもスッと手放せるようになる。

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結果として、自然と「決断していく」こともできるようになっていくんだろうなあと。

というか、もはやそうなると、自分の意志というよりも、もっと別な何かの自然な決断だとも言えるのかもしれないけれど、一気に決めていきやすくなるんだろうなあと思います。

「自分の前と後の存在を考えていたら、条件や足かせも増えるのだから逆なのでは?」と、一見矛盾するような話にも聞こえてしまうかもしれないですが、それぐらいのスタンスで携わったほうがきっと大事なことが見えてくる。

点と点があることで、線でつながるようなことは起こり得るよなあと思いますし、自らの役目が浮き彫りになっていくということなんだと思います。

バトンリレーがしっかりとつながっていくから、良いものは良いものとして昔も今も、そして未来においても、ちゃんと残っていくわけですから。

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あとは、池内代表がイベントの最後に強調されていた「失敗を恐れてしまって、決断しなかったという後悔のほうがもったいない」というような趣旨の発言に関しても、池内代表の人生そのものが体現されているような言葉で、とても励まされました。

本当にそのとおりだよなあと。池内代表の人生の厚みも含まれた本当に深い言葉だなと思います。

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最後に今日の話をまとめておくと、変えること、変えないこと、その判断基準に迷いつづけるよりも、徹底的に時間をかけながら、一つずつ丁寧に決断をする、決断したことをしっかりと受け入れていくこと。

そのうえで、それでも判断に迷ったときは、自分に贈与してくれた対象と、自分が贈与する対象、その歴史の系譜の中での自己の位置づけを理解し、把握してみること。

そうすれば自分が手を加えるべき点も、そうじゃない点に関しても、しっかりと見えてくるはず。

きっと現状、どのような立場にいるひとにとっても、必ず何かしら自らの人生だったり仕事だったりに活かせる点があるようなお話だと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。