今日は珍しく、以前書いた話をもう一度、改めて語り直してみたいなと思います。

何の話かといえば、「後ろ向きの北極星」の話。


この話は、何度でも繰り返して伝えていきたいなあと思います。

なぜか局所的に人気があって言及してくれる人は言及してくれる話ではあるんだけれども、「もうわかったよ」という方も多いとは思いつつ、この話は毎回うまく語りきれなかったような気がしていて、何度だって繰り返し語りたくなってしまうような話になります。

で、なぜ今日唐突に語り直すのかといえば、この話に関連してまた新たな発見があったからです。

具体的には、この「後ろ向きの北極星」の話が、哲学者・カントの「構成的理念」と「統整的理念」の話につながるような気がしたからです。

今日は改めて、この「後ろ向きの北極星」の話を再度丁寧に説明し直しつつ、どのあたりがカントのこの議論と関連してくるのかを書いてみたいと思います。

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まず、出発点の問いとしては、会社でもチームでもコミュニティでも共同体でもなんでもいいのですが、「人々が共に同じ未来を観るという状態とは何なのか」という問いです。

この点、一般的には「一緒に未来を観る」という行動を想定したとき、僕らは何かわかりやすい目標や目的地を定めがちですよね。

そして、そこへ到達するために、逆算して明確な行動指針を導き出そうとする。

会社や学校、地方自治体なんかも含めて、人々が集い、組織を構築しようとするとき、必ずそのような振る舞いになる。

そして、当たり前のように「ビジョン」や「ミッション」を掲げようとする。

でも、そのような「未来」像というのは、ある意味では「嘘」だとバレてしまったのが、ここ数十年の日本、そして世界の紛れもない姿だったのだと僕は思っています。

具体的には、資本主義やグローバル社会の「正の側面」が完全に停滞し、成長という幻想、その化けの皮が剥がれてしまった。

むしろ、その「負の側面」ばかりが際立つようになって、それぞれの国家や集団ごとの分断が深まっているのが、現代だと思います。

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また、もし仮に、最初に想定していた「目的地」に対してなんとか実際にたどり着いたとしても、一瞬でまた「次の目的地」が、そこから先に新たに生まれてくるだけ。

直線的な進歩史観みたいなものは、人間がそうやって未来を思い描ける能力があるというだけであって、それは実際には幻想にすぎなかったということが、バレてしまったわけですよね。

で、このような価値観の嘘を漠然と感じ取って、目指すべきはもっと「北極星」のようなものだというふうに僕は思いながら生きてきました。

具体的には、北極星を目指してみても、僕らが地球という星の上に生きている以上、そこには一生たどり着けないかもしれない。(宇宙に出ない限り)でも、それを目的にしているうちは、少なくとも目の前の道に迷わずに済むというように、です。

そして、それを目指して歩み続けている過程の中で、たとえば道すがらに咲いているような何気ない花を愛でるようなことが可能となったり、日常の些細な風景、その記憶の共有にこそ、実は人生の価値が宿るのであると。

最近書いたブログの話で言えば、「目的性」と「共同性」の話にもつながると思います。


人間にとって「共同性」が何よりも大事なんだけれど、それは北極星を目指して歩みを進めている状態でなければ、僕らが本当に求めている「真の共同性」は立ちあらわれてきてはくれない、というようなイメージです。

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で、ここで「じゃあ、北極星をただ目指せばいいじゃん!」という話になるし、方向性としてはきっとそれで正しいとは思いつつ、もう少し解像度を上げられるはずだと、僕は考えているんですよね。

それが、「後ろ向き」という部分に込められた意味でもあります。

これは一体どういう意味なのか?

同じように北極星を目指している状態であっても、その北極星はしっかりと背中に感じながら、そしてボートを漕ぐように、後ろ向きに前へと進んでくようなイメージが、より理想に近い状態だと思うんですよね。

そして、その自分の背後から、前の方へ過ぎ去っていく景色それ自体を共に共有しながら、ちょっと前の景色と、いまこの瞬間に後ろから自分たちの目の前に広がっていく情景みたいなものを共有しながら、そこに意味を与えていく行為こそが、一番理想的な「未来を一緒に観る」という行為に近いのではないか。

それがここ1年ぐらいの僕の仮説であるわけです。

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なぜなら、未来というものは幻想であり、未だ到達していないのですから。

本当は背中の方向には「真っ暗闇」しか広がっていない。

そして、現在、つまり視野の届く範囲から背後から入ってくる情報に初めて「現実」としての景色が広がっていく。

逆に、前を見て進みながら「自分たちにはちゃんと見えている」と感じているその未来というのは、暗闇に対して投影されている幻想だったりするわけですよね。

その内面の投影は、過去に過ぎ去った個々人の様々な失敗や後悔から得られたもの、その恣意的な意味付けから生まれる幻想だと思うのです。

だからこそ、それが逆さまに写ったり、左右反転したりするなど、変なことも起きてしまう。それを無理やり実現しようとすると悲惨なことが起きてしまう。

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つまり、前を向いて北極星を目指すと今を正しく観ることができなくなってしまう。

未来が歪むわけだから、そもそも他者とその未来を共有なんてこともできたもんじゃないはずで。

だとすれば、そうやって背後から目の前に流れてくる現実の景色に対して、自分たちの意味付けをしていく行為こそが、未来を観るという行為であり、嘘偽りのない体験そのものなんじゃないかという思考にたどり着いたわけです。

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で、今日の本題はここからであり、

この話が、まさにカントのいう「統整的理念」と一緒だなあと思ったんですよね。

具体的には、北極星の捉え方、つまり、それを目指し続けていても、地球上をグルグルと回るだけで、いつまで経ってもその北極星自体には到達できないのだけれども、それを頼りに後ろ向きに前へと進むしかない、というものが、カントの統整的理念とそっくりだなと。

この概念自体は、以前から知っていた概念ではあったのですが、最近読んでいた政治学者・中島岳志さんの『アジア主義』という本の中に、この考え方が詳しく紹介されていて、まさしくこの感覚が大事だなあと改めて強く実感させられました。

この本は、日本がなぜ太平洋戦争において大東亜共栄圏の実現という、どう考えても僕らの世代から考えると誤った行動に出てしまったのか、それを現代人の僕らに対してもわかりやすく教えてくれるような本になります。

少し本書から引用してみたいと思います。

世界統一のユートピアを構想したアジア主義者は、理念の二元性に関する認識を決定的に穴いていました。カントが指摘するように、理念には「統整的理念」と「構成的理念」の違いがあります。前者は「人間にとって実現不可能な高次の理想」で後者は「政治的に実現可能なレベルの理念」です。人間は、絶対平和などの到達不可能な理想を想起する存在です。このユートピア的理想があるからこそ、具体的な「構成的理念」が成立します。
しかし、「統盤的理念」は絶対に実現しません。それは人間が不完全性に規定された存在だからです。重要なことは、理念の二重性を自覚し、より良き社会の実現を目指して課題に取り組み続けることです。


つまり、アジア主義のそのベースとなっていた「東洋的ヒューマニズムの思想」自体には、正しい側面や、今でも通用する部分があることもを明確に示してくれている。

ゆえに、中島さん曰く、世界統一を掲げたアジア主義者の誤認というのは、「統整的理念」と「構成的理念」の位相の違いを認識せず、両者を一体のものとして捉えた点にあった、と語ってくれています。それこそがあの敗戦の理由だったのだ、と。

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この統整的理念に関しては最近読んでいた、また別の本の中でも哲学者・柄谷行人さんが解説をされていて、以下のように語っていました。

「統整的理念は、仮象であるにもかかわらず、必要不可分であり、不可避であるような仮象です。たとえば、自分の同一性という理念がそうです。これは仮象ですが、この仮象を取り除くと、人は統合失調症になってしまう。」


この話も、とても膝を打つような話だなと思います。

そもそも「自己の同一性」という理念自体が人間にとって統整的理念であるというのは、本当にその通りだなと思いますし、完全なる灯台下暗し的な話だなと。

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ここまできて、なんだかものすごく小難しい話をしていると感じられてしまっているかもしれないですが、でも僕が言いたいこと意外と単純な話であって、

人間が生きるえで、絶対に実現不可能だと思われる「統整的理念」を未来に投射し続けないと、人間及びその社会や共同体はカンタンに破滅に向かうのだけれど、でもそれを真正面から見据えてしまうと、往々にして暴走してしまうんだ、ということです。
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で、だからこそ、僕はそれを背中で感じて、後ろ向きに進むことが大事だと思うんですよね。

今日のブログにおいて一番強く主張したいポイントもここです。

そして大事なことはその上で、背中の側から目の前に広がっていく構成的理念をひとつずつ実現可能な範囲で、ちゃんと丁寧に実現していくこと。

でもそのときに、背中でしっかりと「統整的理念」も同時に捉えておくこと。

僕は、そうやって後ろ向きに北極星を捉えながら前に進むことで、これまでの歴史の中で繰り返されてきた悲惨な失敗を避けられるのではないかと思うのです。

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最後にまとめると、「北極星を真正面から捉えて、まっすぐそれを目指せ!」だと、どうしても大東亜共栄圏を理想と捉えて無理にでも実現しようという形で暴走し、それが敗戦のような悲惨な末路にもつながってしまう。

一方で、「北極星なんて、所詮は到達不可能なものなんだから無視をしろ。コスパもタイパも悪いじゃないか」という現代的な価値観も、全くもって違うんですよね。

大事なことは、それをしっかりと背中で感じながら、後ろ向きに前に進むことがきっとあり方としては一番正しいはず。

少なくとも僕は、それが今のところ自分の中で一番納得感のある感覚なんです。

今日の話で、これまでよりも少しでも解像度高く、この話が伝わってもらえていたら心から嬉しいですし、このWasei Salonが、そのようなあり方を実践していく場であったら、本当に嬉しいなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。