本人が「克服できた」と言い張っているときは、大抵の場合、まったく克服できていない場合ほうが多いよなと、最近よく思います。
むしろ逆に、「いつまで経っても克服できない。もう一生付き合うしかない」と語っているときほど、案外もうサッパリと克服できていたりもするものだなあと感じます。
この逆転現象って、個人単位でも社会単位でも国家単位でも、山ほどあるなあと思います。
今日はそんなお話を、このブログの中でも改めて丁寧に考えてみたい。
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で、たぶんここには、「克服」という言葉が指しているもののズレがあるはずなんです。
人が「克服できた」と語るとき、その多くは「もう二度と出ない」「もう完全に終わった」という意味合いでの「完結した物語」を求めていると思います。
つまり、問題そのものが綺麗さっぱり消えてなくなった物語やナラティブ、ストーリーを「克服」と呼んでいるように僕には見える。
でも現実は、そういうふうには、終わらせてくれない場合のほうが多いわけですよね。
ディズニープリンセスたちのようなわかりやすいハッピーエンドになれば良いのですが、生きている限り、そして生活は続くわけです。
むしろ、「最近あまり症状が出ていないだけ」とか「環境が整って出にくいだけ」とか、「気合いで抑え込めているだけ」みたいな場合のほうが正しい認識であるはずで。
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それにもかかわらず、なぜ僕らは、そのような中断状態に対して「勝利宣言」みたいなものをしたくなってしまうのか。
具体的には「もう大丈夫、克服したんだ」「あの古い物語は、すでに終わったんだ」と。
きっと、こう言い切った瞬間に、少しだけ心が軽くなるからなのだと思います。
そして、どれだけ辛かった体験であっても、終わりよければ全てよし的な、ハッピーエンドの物語として他者にも共有しやすくなる。どれだけ悲惨なことでも、笑い話にできる。
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つまり、その「勝利宣言」自体が、また新たな鎧みたいになっているんだと思うのです。
本当は、まだまだ怖い。でも「まだ怖い」と語ってしまうと、自分が膝から崩れ落ちそうになるから、先に「克服できた!」という旗を立てたくなる。
その宣言自体が自己暗示であり、鎧のような役割を果たすわけですよね。
あとは、単純に「この苦しみを乗り越えた私」というナラティブやストーリーは語っている間は、純粋に気持ちが良いのだと思います。
だから、まだ残っている不快さはストーリーの外に追い出してしまいたくなるわけです。
はやく、次のステージや次のフェーズに進みたいから。
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で、ここでおもしろいなと思うのは、冒頭でも書いたように、逆側の立場なんです。
「いつまで経っても克服できない。もう一生付き合うしかない」と言えてしまう人は弱そうで、実は非常に強い。
その時点で本当はもうかなり高い確率で崩れにくい状態になっている。
「自分は愚かだとわかっている人間ほど、もう愚かではない」というあの話なんかとも、非常によく似ていて、ちゃんと自己分析ができている状態なんだと思います。
それは単純な諦めではなく、むしろ克服できていない自分、愚かな自分の「運用段階」フェーズに移っているとも言えそうです。
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終わらせようとする焦りが消えていて「あるものは、ある」と、スッと横に置けている状態なのでしょうね。
そうすると逆説的に、問題が問題として暴れなくなる。ここでもまた「千と千尋」のカオナシ理論につながるのだと思います。
結果として、自らの弱さをありのままに受け止めている状態なんかにも近くなる。まさに、あの電車のなかでカオナシと黙って隣り合って座っている千尋みたいに、肩の力が抜けた状態になっている。
そうやって、肩の力を抜いて「一生付き合う」と言える人は、素直に人に助けも求められる。助けを求められる人は、崩れにくい。崩れにくいから、克服したようにも見えるという順序のような気がします。
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つまり、ここまでの話を一旦まとめてみると、
「克服できた」宣言は、終わった物語が欲しい(終わったことにしてしまいたいという渇望)である一方で、
「克服できない、一生付き合うしかない」という諦観は、終わらない前提で運用できているからこそ、実は既に終わりに近い。
そんなねじれ現象が起きているということなのでしょうね。
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じゃあ、なぜ人間は、そんなにも「終わった物語」を欲しがるのだろう?そんな疑問も同時に湧いてきます。
そして、ここが、たぶん一番、人間っぽいところだと思うし、今日一番掘り下げて考えてみたい点でもあります。
たぶん、いちばん大きな要因は、終わらない物語は、ずっと「警戒モード」を要求してくるからなんだろうなと思います。
「いつ再発するの?いつまた嫌な気持ちになるの?この先どうなってしまうの?」とずっと恐怖心を抱え続けてしまう。
この「結論が出ない状態」というのが、想像以上に本人の体力を奪う。だから自意識のほうが、なるったけ早く終わらせ物語にしてしまいたいと強く願う。
そして、その意識を安心させるための一番のシグナルが「もう既に終わった物語」で理解すること、解釈することであって、「もう見張らなくていい」ということが、その合図となるのだと思います。
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あとは、終わった物語は、だいたい「原因→努力→結果」という形をしている場合が多い。
つまり、世界が操作可能だという自己証明なんかにもつながる。
それゆえに、ただ「克服できました!」だけではなく、「◯◯によって克服できました!」という宣言になりやすいのも、きっとこれが理由なんだろうなあと。
ホントはさまざまな複合的な要因であるかもしれないのにも関わらず、「コレと出会ったから」とか「このひとと出会ったから」とか「このカリキュラムを終了したから」とか、何かしら自分の努力が結果として実ったんだという物語にしたがる。
で、これは養老孟司さんがよく語る「ああすれば、こうなる」の思考とも見事にひもづくなあと。
私は自分で、自分のことを思い通りに動かせる。次も同じやり方でいけるにちがいない、という盲信なんかも生んでしまう。
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この感覚があると、人は前に突っ込んでいける。恐れなくなる。だから良い側面も間違いなくあると思います。
逆に終わらない物語は、「自分の操作が効かない領域」をまざまざと突きつけてくる。
そこに耐える、ちゅうぶらりん状態にするのは、本当に怖い。
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で、こうやって考えてくると、つくづく人は物語やナラティブ、ストーリーで自己を支えているんだなと思えてきます。
終わった物語は、自己紹介としても便利だし、心の中の「自分の輪郭」みたいなものをグッと固めてくれる本当にありがたい存在。
そして何よりも、社会や聴取側は、そんな「終わった物語」完結した解説が大好きなわけですよね、
「今は大丈夫です、もう解決しました!」そう言ってくれる人のほうが推しやすいし、雇いやすいし、任せやすいし、付き合いやすいし、信じやすい。
また、このひとがそうやって克服できたということは、自分だって同じことを実践すれば克服できるかもしれないという淡い期待なんかも抱ける。
つまり、それがいちばんの「宣伝」になる。
「かつて〇〇だった私が、××を経て、今はもう大丈夫!」という三段階構成のストーリーは、他者から見て非常に美しく、承認を得やすい形をしているということです。
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そして、そのナラティブ商法みたいなものにやみつきになり、また何か克服するためのネガティブ要素を、あえて自分からつくったり、迎えに行ったりなんかもし始める。
こちらもまた、非常に厄介だなと思います。
ときどき、自分から率先して突っ込んでネガティブのスパイラルに嵌っているように見えるひとたちがいて、それがテレビのドキュメンタリー番組になったりもしているけれど、あれはきっとそういうことなのでしょうね。
この広告効果を狙っているだろうなと思う。
本人に聞いたら「絶対にそんなことはない!」と言い張るはずだけれど、『嫌われる勇気』の中に出てくる赤面症の彼女のように、無意識に、そして目的論的に克服できる物語を引っ張ってきてしまう場合もあるだろうなあと思います。
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終わった物語を欲しがること自体は、決して弱さじゃない。
むしろ、人間が人間という社会や共同体を築いて、その中で生き抜いていく、他者のアテンションを獲得するための生存本能なんかに近い。
だからこそ、社会にはそんな制度がたくさんデフォルトで組み入れられていたりもする。学校の卒業だって、強制的に、ひとつの終わった物語にできる契機でもあるし、国家単位で見れば、年号とかもそう。あと、転職なんかもそう。
もはや本能レベルで、追い求めてしまうもの。そして、繰り返しますが往々にしてそれは基本的には良いことなんです。
ただ、その欲望が強すぎると、僕らは終わっていないものさえも、終わったことにしてしまう。
そして、その瞬間だけは楽になる。ただ、後から歪みが出てきてしまう。
だからこそ、この構造に自覚的になりたいなと思う。
さもないと、なぜか眠れなくなったり、食べれていたはずのごはんが食べれなくなったりと、もっと違う無意識の領域から、自意識に向けてアラートが出て来てしまうはずだから。
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逆に、「これは一生治らないな」と笑って言えるようになったときこそ、その問題は「自分を支配するモンスター」から「ただの自分の特徴(ノイズ)」へと格下げされるということなんでしょうね。
あとは、そのノイズと一緒に、のらりくらりと付き合いながら生きていく。
悪魔と出会わなくなった、ではなく、悪魔と正しく出会えるようになったというブッダのあの話がまさに、です。
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最後に、先日読んでいた思想史家・先崎彰容さんの『知性の復権』という本の中にあった一文が今日の話にもつながるなと思いました。
経験とは、「ズレ」を認識し、折り合いのつけ方を知っているということ
これはほんとうに至言だなと感じます。
たしかに経験とは、そういうものだなと思う。この「ズレ」との折り合いの付け方、それを知っていることが、経験者の姿であり、真に成熟した姿だと僕は思う。
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終わった物語を過度に欲しがらなくなったとき、物語は静かに終わり始める。たぶん、そういう順番なんだと思います。
だとしたら、終わらない、その過程や循環、そして続いていくことを静かに受け入れていくことが大切な気がするというお話でした。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
