先日もご紹介した、三砂ちづるさんの書籍『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』。

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この本はなんだか、読み終えた後しばらくしてから、しみじみと思い出したくなるような、とてもいい本でした。

世間の常識や正義を押し付けてくるわけではなく、そのうえで言いたいことはハッキリと伝えてくれるそんな「包摂の中の否定」を深く実践してくれている、なんとも視座が優しくも厳しい、不思議な本でした。

で、僕が今日ここでご紹介したい話は、人間同士の関係性においては何か最終ゴールがあるわけじゃないということについて。

不倫の話題も混ざってきて、少しドキッとするようなお話ではあるのだけれど、これこそ人間関係の真理だなと思ったので、このブログの中でもご紹介してみたいと思います。

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では、さっそく本書から少し引用してみます。

若い頃は、不倫をしていても、いつか結婚できるんじゃないかと思ったり、今は出口がないけど、この関係性にも何か出口があるんじゃないか、と思えたりする。わたしたちくらいの年齢になると、関係性というのは、何か、最終ゴールがあるわけじゃないことがわかってくる。関係性の終わりが来る前に、いのちのほうが終わってしまったりすること、が、みえてくるのだ。


これはなんだか本当にドキッとするし、腑に落ちる話だなあと思いながら、僕は読んでしまいました。

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若いころは、誰もが人間関係には明確なゴールがあると想像し、そのゴールにどうやってたどり着くのかばかりを考えてしまいがち。

そのための人心掌握テクニックがあり、ハックがあり、それにアンチテーゼを唱えるような優しさや包摂があったようにも思います。

でも、そのどれをとってもやっぱり、何かしらの形で明確に相手との人間関係のゴール地点にたどり着きたいという願望がそこにはある。

そう言えば最近、最所あさみさんに紹介されてNetflixで配信されている恋愛リアリティーショーの『オフラインラブ』を観たのですが、この番組もまさにそんなゴールに向かって、若者たちが悪戦苦闘する姿が描かれていました。

そんな初々しさがとても丁寧に描かれていた作品で、とても美しく幻想的なドキュメンタリー番組にもなっていて、ものすごくおもしろかったです。

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でも、35歳ぐらいを過ぎてくると、そんなゴールというのはただの幻想で、たとえゴールに到達できたと思っても、そこからまた新たなレースは続いていき、その結果として、お互いにゴールに到達できたと感じているカップルほど破綻しやすい。

そして、そこで悲しい別れがあり、また次のゴールを目指して再婚&離婚を繰り返している。

もちろん、恋愛関係に限った話でなく、友人関係もそうだし、仕事仲間も同様だと思います。

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きっと本当は、人間関係にゴールはないということをしっかりと自覚することが大事だということなのでしょうね。

最近また読み返した村上春樹最新作『街と、その不確かな壁』の、そのあとがきに書かれていた話を、やはりここでもご紹介したくなってしまいます。

「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。」というあの言葉。

これもまさに、関係性にゴールはないということを見事に僕らに教えてくれている。

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とはいえ「いやいや、終わりが描かれていることのほうが美しいし、究極の物語でもある」という見方もあると思います。

最近観た、いま大人気の映画『国宝』も、まさにそんなタイプの映画でした。

ネタバレにならないように少しだけ内容に触れてみると、この作品は一人の少年が日本一の歌舞伎役者を目指し、そのためには”悪魔”とだって契約してしまうというような物語です。

で、この映画を観ながら、僕はなんだか既視感を覚えたのですが「あっ、これはジャンプ作品なんだ!」と思いました。

前半は、歌舞伎がテーマの少年ジャンプ。
後半は、歌舞伎がテーマのヤングジャンプ。

マンガ世代に刺さる映画であり、逆に言えば、マンガ世代の時代だからこそ流行る映画でもあるなあと思いました。

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また同時に「ジャンプって、そういう物語だったんだ」とも強く感じられた。

つまり、終わりが描かれていることのほうが美しいし、究極の物語でもあるという理想がこれでもかと描かれているのが、ジャンプ作品共通のカタルシス。

でも、一方でジャンプ的なものの限界が見えて来ているのも、まさに今だと思います。

もちろんジャンプに限らず、シンデレラストーリーの限界と言ってもいいのかもしれない。

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これは唐突な話に聞こえると思うのですが、現代のマンガの世界は江戸時代の「落語」みたいだなとも思います。

落語って、本当に不思議な物語で「こんな人情味溢れるような街があったら、どれだけ幸せなことで、生きやすいのだろうか」と思わされる何かがある。

人々の夢もなんやかんやで素直に認めてくれるし、一方で人間の業も認めるし、与太郎のようななぜか憎めないキャラも多い。

そして、現代のような世知辛い世界を生きる僕らが、落語のような物語に触れてしまうと「江戸時代は、なんて人情味が溢れる豊かな時代だったんだ」と素直に憧れる。

だから、これほどまで江戸時代は理想郷のように語られ続けるし、令和でも未だに落語が人気な理由でもあるかと思います。

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でも、僕は落語に触れるといつも思うのですが、きっと、江戸時代はそういう時代じゃなかったからこそ、そこに落語のようなものとして「浮世」や「別世」としての物語をつくったっていうことでもあるんだろうなと思います。

それが町人たちの生きる知恵だった。

そういう希望を描きたかった、ということでもあると思うんですよね。

そうじゃないとわざわざ「舞台」や「寄席」にまで見に行かない。

そして現代の、ジャンプ的なマンガをはじめ、異世界転生ものや「セカイ系」なんかも、基本的には落語と同じ構造なんだと思いました。

マンガに描かれている人間関係が存在し、人生にもゴールがあればいいなという希望のあらわれ。つまり、そういう「オチ」があればいいなという人々の切なる願いです。

マンガは、そのカタルシスを僕らに与えてくれる。

現代人の「こうあって欲しい」がそこにはすべて綿密に描かれてある。だから、無料のコンテンツが溢れる世の中で、わざわざお金を出しても読みたくなるのでしょうね。

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でも、繰り返しますが、現実の関係性というのは、何か最終ゴールがあるわけじゃない。

むしろ、その個人同士の関係性の中でずっと続いていくことを認めること、そしてときに寿命のほうが先に尽きてしまうこともある、それを正しく諦めることのほうが大事なんだろうなと。

そして、「人間関係にゴールは存在しないんだ」ということを正しく認識したうえで、淡々とした日常の中で、日々の小さな関係性の修復に努めること。

それは、手入れしすぎることでもないし、手入れせずに放置することでもない。

その絶妙な塩梅のもと、「移動する相」のなかで、お互いがお互いに敬意を払い合う関係性、そのときに成立するものこそが真実だし、真の意味での「物語」の真髄でもあると、僕はいま強く思うんですよね。

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で、それがひとりの人間とひとりの人間の間で成立するということは、「コミュニティ」においてもまったく同じことなんだろうなと思うのです。

もしかしたら、ここが今日のいちばん強く伝えたいメッセージかもしれません。

どうしても、コミュニティを運営していると、何かわかりやすい旗を掲げて、その旗のもとに集まってきてくれた人それぞれに、何かわかりやすいゴールを見せてあげたくなる。

そんなわかりやすい成功という一点に、どうしても導きたくなる。そのために、全面的に応援もしたくなる。

でも、本当はそうじゃなくて、その関係性を終わらせない、終わりがないと認めることなんだと思うのです。

ゴールを目指すと、良くも悪くも終わってしまうし、ジャンプ的にならざるを得ない。

でもそれは、落語と一緒で浮世や別世の話で、リアルに持ち込むものではないはずなんです。持ち込むなら、相当な覚悟で”悪魔”と契約しなければいけない。

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僕が過去に何度もご紹介してきた河合隼雄さんの言葉「私は、来られた人が自分の物語を発見し、自分の物語を生きていけるような『場』を提供しているという気持ちがものすごく強いです」の話にも、これは通じる話だと思っています。

河合隼雄さんのこの言葉は、物語のゴールに連れて行くということではない。

言い換えると、ジャンプ的な物語に位置づける、そんなコーチやメンター的な役割を果たそうとするわけではなく、むしろ、そのゴールを超えた先にある人間の「真の物語」を共に発見すること。

それはときに厳しく険しい道だったり、知りたくもない現実などもあったりもするけれど「終わりのない不断の移行≒移動する相の中に真実がある」と、お互いにハッキリと認識をし合うこともできる。

僕の勝手な読み解きではありつつ、まさに「冷たく抱き寄せられて、あたたかく突き放されている」ような気分になるようなお話だなあと思います。

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そして、ありがたいことに、そのような「場」を提供する側にとっても、そうすると終わりのない不断の移行が、自然とそこに立ちあらわれてくる。

「続けること、続いていくこと」に重きを置くこと。それはゴールに到達できないルサンチマンだと思っていた時期も若いころにはよくあったけれど、実はそうじゃない。

そっちが本質だったんだと、なんだか今は強くそんなことを思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。