「書きたいのに、まとまらずに書けない」ってときは、「書きたいのに、まとまらずに書けない」ということを、実際に書けばいいのになって最近よく思います。

結論よりも、その思考の過程を提示し合うことのほうが、お互いの考えていることや、何にこそ葛藤しているのかが伝わってきて、それが互いに見える化もされて、個人的には素直におもしろいなあと感じるんですよね。

むしろ、結論を一発で見せられるよりも、逡巡とか、迷いとか、行き止まりになってしまった思考過程を見せてもらったほうが、どこか納得感も生まれやすい気もしています。

そんなふうに、いまは結論よりも、相手の逡巡や思考過程、特に「行き止まりになってしまった思考過程」そのものに、逆説的に深い価値を感じることが一気に増えてきた。

たぶん、これは AI が「たとえ嘘でも、何が何でも必ず結論を出してくる」存在だから、余計にそう思うのかもしれません。

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この点、「思い余って言葉足らず」という不全感が、人間の言葉を豊かにするっていうけれど、ほんとうにそうだと思います。

「思い余ってしまっていること」を、思い余っている状態のまま、足掻くようにして文字にしてみることを大切にしたいし、みなさんにも大切にして欲しいなと強く思います。

今のインターネット、特にSNSは「正解」や「極端な意見」ばかりが加速していて、そのどちらにも振り切れない、「割り切れなさ」を抱えた人の居場所が、ドンドンと削られてしまっているように僕には見えます。

でも、僕はその言語化以前の感覚も、もっとみなさんと一緒に大切にしたいし、共有したい。

「まだ言えない」「まだ決められない」そんな曖昧な状態そのものに、たぶんいちばん大事な「何か」も宿っている気がするからです。

それを素直に、恐れることなく、提示し合える場が僕自身もものすごく欲しい。

ここが今、コミュニティにおいて、いちばん必要不可欠で問われているような気がするのです。

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というのも、先日の選挙後の月曜日の朝、僕自身がまさにこれを体験しました。

自分の立場的に、Wasei Salon内でも今回の選挙の結果について何かしらの自分の私見みたいなものをちゃんと書かないといけないんだろうなあと思って、色々と考えてみたし、関連番組やテキストなんかも読んでみたりもしてみました。

だけれども、いちばん正直なところは「何も言えない」だったんですよね。

何も一切答えがまとまらない。

選挙結果に絶望したというスタンスも取りたくないし、高市総理が快勝したことを喜ぶスタンス(特に経済面や外交面に関して)も取りたくない。

かといって、なんだかお葬式モードになるのも違う。

ほんとうに、ただただフラットに、何も言えないなと思ったのです。

強いて言うなら、いま「何も言えない」(ポジでもネガでも、無関心や冷笑でもなく)という感覚を抱いている人がいるなら、それもひとつのスタンスですよね、わかります」ってことだけは、私見として書き残しておきたいなと思ったんすよね。

それが今週の月曜日にじっくりと考えてみた自分の素直な考えでした。

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とはいえ、「答えがないなら、それは考えたことにはなっていない」そういう意見があることもよくよく分かりますし、実際に社会の多くの場面では、あなたの意見が求められる。

その時にはしっかりと自分の意見を提示しないと、自らの居場所がなくなる。

とはいえ、自分なりに懸命に考えた結果としての「無記」という結論だって、一方であるよなあとも思うのです。

それは、SNSなら一瞬で流れ去ってしまう、ほんとうに意味のない投稿にしかならないかもしれない。だけどコミュニティの中なら、それは「確固たるスタンス」として、お互いにつながり合うために、信頼を深めるために寄与する投稿にもなり得ると思う。

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で、繰り返しにはなるのですが、今本当に求められているけれど、世の中に存在していない価値って、きっとコレだと思います。

葛藤して、答えがまとまらずに、口をつぐんでしまう。

でも、その「口をつぐんでしまう」ことも、ひとつの立派なスタンス。

SNSはどうしても言語化に長けていて、「言葉」や「態度」として整ったものだけが流通していく場所でもある。そして整った言葉ほど、早く、強く、さらに極端にシェアされていくわけですよね。

でもそれって、僕が本当に他者と共有したいものではない。なんなら、そうやって割り切った言葉が伝播していってしまうことが、現代の一番良くない方向に導いてしまっていると僕は思います。

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とはいえ、「書けない辛さ」を書いてみるということは、別にSNSに書き込むことでもないし、note に書くようなことでもない。もちろん、知人友人との LINE グループに書くことでもない。

本当に、Wasei Salon のクローズドなタイムラインだけに書くような話だと思っています。

Wasei Salonにおいては、誰もそんな言葉足らずな状態、言語化不足の状態を、学校や会社のように査定することもしないし、SNSのように揚げ足を取ってきたりするわけでもないのだから。

そういう葛藤というか、それぞれの立場をお互いの主義主張を脅かすこともなく、多様に存在しているということが、ちゃんと見える化されていることが改めて良いことだよなあと思うのです。

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この点、先日もご紹介した東浩紀さんの『平和と愚かさ』の本の中に出てくる、博物館(美術館)の現代的な価値の話がすごく良かったなと思っています。

以下のようなお話です。

重要なのは、モノの配置(インスタレーション)によって、論理を連ねるだけでは伝えることがむずかしい、あるいはとても遠まわりになってしまう、単純だけど同時に複雑な認識を一気に直感的に伝えることができるかどうかなのだ。博物館=美術館の真価はそこに表れる。


ここで僕は、みなさんを「モノ」だと言いたいわけではない。

でも、Wasei Salonのコミュニティの価値も、この博物館の真価とまったく同じ構造だと思っています。

多様な人がいる。それゆえに、ひとつのロジックや論理だけでは語れない。

でも、そのコミュニティ全体を眺めること、そんなインスタレーション的な体験自体が、そのまま自分自身の学びになる、というような。

一方で、たとえば新宿駅みたいな有象無象の雑踏で収集がつかない状態でもなく、ある程度、均整は取れていることも大事。

言葉にできない文化によって、ちゃんと裏打ちがなされていることも重要。僕は、そんな博物館的な空間を目指したいと思っています。

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あと、これは完全に余談ですが、僕が高校生のころ、当時付き合っていた彼女がシンガーソングライターをやっていて、当時彼女がつくっていた「雑草」というタイトルの歌詞の中に、こんな一節がありました。

「あえて主張しないことが、精一杯の僕の主張。」


これは今でも時折思い出す歌詞ですし、ほんとうに天才だなと思います。

つまり、たとえ雑草と呼ばれる類の花だったとしても、ここに主張しない花が咲いているということ、それをともに理解し合える関係性を大事にしたいなって思うんですよね。

そうやって、あえて主張しないことも含めて、ひとつの主張として差し出してもらう。そして、その主張もひとつのスタンスとして互いに認め合う関係性を構築する。

そうすると世界の見え方は、ほんとうにガラッと変わると思います。

というか実際に、僕自身が、Wasei Salon内で日々そのような体験をさせてもらっています。これは本当にありがたいこと。

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SNSには、名前のある目立つ花や、金銭でやり取りされるような高級な花、時にそれらを模した造花のようなものばかりが目立ちます。

でもそうじゃなくて、雑草でもお互いがちゃんと花なんだと。

植物が好きだった昭和天皇の言葉として「雑草などという草はない」という言葉はよく知られていますが、本来は、それぞれに多様な考え方を持っている。

以前もご紹介した、福田恆存の以下の言葉をここでも思い出します。

人生論とか人生観というものは一種の杖みたいなもので、みんなそれを持っているんだ。意識するとしないとにかかわらず持っていて、それを頼りに生きている。それは床屋のおじさんでも下駄屋のおばさんでもみんな持っているんです。原稿用紙を与えて書けと言ったって、それは書けない。書けないけれども、ある一つの実感としての人生観というものは持っている。



書けない。けれど、間違いなく持っている。
言語化できない。けれど、間違いなく実感としてある、そんなもの。

だとすれば、そのような社会の多様さ、その片鱗をちゃんとしっかり味わえるような場づくりをしたいと思う。

言語化が得意な人たちが、AIを駆使しながら、目立つ場所ではなくて、です。

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そこに優劣なんて、本来は一切存在しないのだから。

というか、それを「優れている」と思いこんでしまう世界こそが、まさに現代のギスギスした対立した雰囲気を生んでしまっているなと感じます。

だとしたら、もっともっと別の価値観によって駆動する場を、SNSとは別につくらないといけない。

しかもインターネット上において、オンラインコミュニティという形において実現したいなと強く思います。

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僕は今回の選挙において、投票をしていない人たちの声にも、素直に耳を傾けてみたいなあと思ってしまいます。

投票率が上がったと言っても、いまだに約50%程度の人々が投票をしていない。

その人たちに「投票に行け!」と促すことも大事かもしれないけれど、それ以上に、その人たちの考え方も、ちゃんと世の中にはあるんだということを理解したい。

自分の意見を割り切って決め切ってしまう前に、投票所に向かう足が完全に止まってしまうひとたちがいること、その「ためらい」にもちゃんと耳を傾けていきたい。

それは、「思い余って言葉足らず」と等しいものがあると思うから。

どうか、誤解なくこの感覚が伝わっていたら本当に嬉しいです。

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「答えがないなら(一票を投じないなら)考えていないのと同じ」という声に抗い、「答えが出ないほどに、誠実に考えた証でもある」という、そんな時間やプロセス自体を共有してみること。

それこそが、この場で耕したい「文化」のひとつだと思っています。そしてそれは、回り回って、みなさんの言葉を豊かにする方法でもあるはずだと信じています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。