昨日、Wasei Salonでも使わせてもらっているコミュニティプラットフォーム・オシロの方々と一緒にお食事をしながら、理想的なコミュニティの規模感について興味深い議論がありました。
それは、オンラインコミュニティを運営をするうえで、300人という数字が一つの区切りとして存在するんじゃないかという仮説です。
この数字、僕も非常に同感で、ここに今目指すべきコミュニティの姿について深く考えさせられる問いがあるなあと思ったので、今日はそんなお話です。
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まず、技術的な観点、そんなシステム面からいえば、300人以上の規模のコミュニティプラットフォームを構築することは、十分に可能だと思います。
ただ、ここで重要なのは技術的な可能性ではなく、人間の心理的な限界のほうなのだと思います。
もしくは、人間の脳の限界と言ってもいいのかもしれない。そしてここは完全に操作不可能な部分でもある。
コミュニティが300人という人数を超えてくると、そこはもはや「内」ではなく、そこは「外」の世界と同じになってしまうんだと思うんですよね。
何かを書こう、何かを発信しようと思っても、あまりにも多くの他者の目、そのまなざしを想定しなければならなくなり、その限界がきっと300人前後までで、その人数を超えてしまうと、TwitterやFacebook、Instagramのような大規模SNSと変わらない状況になってしまうと思うのです。
そう考えてくると、せっかく独自の価値基準で駆動するクローズドなコミュニティをつくろうとしているのに、結局のところ「外」の世界と同じになってしまって、その意義が失われてしまうのではないかと思うのです。
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もちろん、この数字は、人類学者ロビン・ダンバーが提唱した「ダンバー数」という概念を直接念頭においています。
ダンバー数は、人間が安定した社会的関係を維持できる人数の上限を示す理論的な数値であり、約150人とされているというのは、過去にこのブログでも何度もご紹介してきた通りです。
この数を超えると、個々の関係性を把握し維持することが困難になるのだ、と。
そして、この約2倍の300人ぐらいまでの数字がオンラインのコミュニティの場合は想定されうるのではないかと。
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このような理由から、現状「Wasei Salon」も意図的に150名以上には増やさないようにしようとしています。もし増やす判断をしても多分300人は超えさせない。
単に人数を増やすことよりも、心理的安全性を確保し、参加者が自らを積極的にさらけ出しても大丈夫だと感じられるような空間をつくることのほうが、何よりも最優先の事項として重要だなと。
言い換えると、2024年現在はもう、コミュニティ内の一時的な盛り上がりや規模感を追いかけるというよりも、「外」とは完全に異なる安心感や所属感のほうに、コミュニティに価値が大きく移り変わってきているなあと思うからです。
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この点、人間関係において、他者のまなざしを想定できないということは、きっと生物学的に見ても、相手に対して適切な敬意と配慮を持つことが難しくなることを意味するんだと、僕は思っています。
以前もご紹介した精神科医・斎藤環さんの言葉にもあるように「成熟とは、他者に配慮しつつ、自分の言いたいことを言うということである」とするならば、
成熟するためには、他者の目線が想定できる距離感で、その訓練を行わなければならないはず。
言い換えると、そんなクローズドな空間で成熟したコミュニケーションを身につけることができれば、規模の大小に関わらず、真の意味で「外」に出向いても、お互いに尊重し合える関係性を築くことができるはずなんですよね。
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もちろん、ここでくれぐれも誤解のないように付け加えておきたいことは、数千人から1万人規模のコミュニティが必ずしも悪いわけではないということです。
しかし、同時に僕らは冷静に考える必要があるとも思うのですよね。
そのような大規模コミュニティで語られる「善性」、つまり、どのような原理原則の下で「それを目指せ!」と叫ばれているのか、ということを。
言い換えると、なぜそれが300人以下の規模感のコミュニティの「上位互換」であると当たり前のように語られているのかを、批判的に検討する必要があるとも感じています。
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多くの場合、そこで語られる「成功」の基準は結局のところ、ビジネスや資本主義の論理に基づいて判断されているだけではないのかなと。
そして、数千人から1万人規模の人数になると、300人以上の「人間の脳内アラート」が作動し、それは「誰がいるか分からない危険な空間」と認識されます。
そのために、通常であれば実名や顔出しは、その場においては不可能となってきて、本音を語るためには、いかに匿名性を担保するかという方向に議論が進むのも、当然のことだと思います。
つまり、そこには明確に「人間の疎外」が発生していて、無意識のうちにシステムに組み込まれた価値観を無条件のうちに自分たちが受け入れてしまっているんだと思うのです。
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本来、コミュニティづくりにおいて最も重要なことは、何がそこに所属している「人間」にとってヘルシーな状態であり、かつ持続可能なのかということのはずです。
しかし、現実においては、ヒト・モノ・カネがどう動くかという論理で「コミュニティ」が語られることが多すぎる気がしています。
もちろんそこには権威性の獲得や虚栄心など、金銭的な利益だけでなく、さらに複雑な要素も絡んできてしまいます。
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また、さらにインターネットのコミュニティ文脈において、非常に厄介な問題がもう一つあると思っています。
それは、2ちゃんねるやニコニコ動画のような匿名掲示板文化が、一種の「成功体験」として根強く残っていることです。
90年代からゼロ年代の体験が、あたかも理想的な、そして「帰るべき」原初の体験のように扱われてしまっていて、インターネットコミュニティ文化において、ずーっと亡霊のようにつきまとっているように僕には見える。
そして、当時そのようなプラットフォームを作った人々の声が必然的に大きくなってしまっています。
まるで彼らがインターネット教の創設者のように、です。彼らがコミュニティのあるべき姿を語る状況が生まれてしまっているなあと。僕はこれがいつも不思議でたまらない。
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この状況は、政治の世界で自民党の高齢議員に引っ張られる「シルバー民主主義」のような現象にも似ているなあと思います。
かつての田中角栄のような「金権政治」も確かに一つのダイナミックな政治形態ではあったと思いますが、それが不可能になりつつある現代においては、自分たちが本当に望む政治の別の形を追求したほうがいい。
同様に、コミュニティづくりにおいても、初期の「成功モデル」に囚われすぎてしまうのではなく、自分たちが真に望むコミュニティの姿に忠実であろうよ、と思うのです。
言い換えると、インターネットコミュニティを牽引してきた人々の経験は、確かに貴重だとは思いますが、彼らの成功体験(主に匿名掲示板での成功)を無批判に模倣するのではなく、現代の文脈に合わせて、批判的に検討し取捨選択する必要があると思います。
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それもこれも、現代社会において日々のテクノロジーの発展によって、疎外されがちな人間性を取り戻す試みが、今まさに可能になってきているなと僕は思っています。
それだけ、クローズドの有料版オンラインコミュニティの存在が世間でも一般化してきているタイミングでもあると思うから。
そして、そのような300人程度の規模感のオンラインコミュニティが無数にあるということのほうが、僕は健全な社会が立ちあらわれてきてくれるだろうなあと思っています。
そのためには、単純な人数の規模や売上の大きさに惑わされることなく、コミュニティの質と深さのほうを強く追求することが重要になるはずです。
僕は、Wasei Salonを通じて、より深い繋がりを持つコミュニティを目指していきたいと願っています。
そして、昨日も語ったように、参加者一人一人の個人の尊厳を大切にし、その場にいる人々のの魂の尊厳に光を当てることに対して忠実でありたいなあと思っています。
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あと最後に、これは完全に余談なんですが、150人がひとつの限界だと語った人類学者ロビン・ダンバーが以前もご紹介した『宗教の起源』という本を書いた理由も、この150名の壁を突破するための方法が「宗教」だと考えたからだそうです。
つまり、150〜300人の枠を個々人の魂の尊厳を保ちながら、本当の意味で乗り越えようとすると、必然的にそこには「宗教的な要素」が必要になるということです。
必ずしも「宗教」という形を取る必要はありませんが、大規模なコミュニティを維持しながら、かつ、個人の魂の尊厳を同時に守るためには、宗教が長年培ってきた知恵や方法論から学ぶべきことは、もはや必須だということなのでしょうね。
そういう意味でも、現代のコミュニティづくりにおいて宗教学の知見を参考にすることは非常に有益だと僕は考えています。
というか、本当の意味での宗教の知見なくして、個人の魂の尊厳を保ったまま、つまり「人間の疎外」がおこらないまま、コミュニティ規模を大きくすることは不可能でもあるということなのだと思います。
ここに目を向けずして、本当の意味での飛躍は存在しない。
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だからこそ、いま宗教を学びつつ、同時にその危険性に対しても強い自覚を持っていきたいなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/07/17 19:06