昨日、Wasei Salonの中で、作家・飲茶さんの新刊『あした死ぬ幸福の王子――ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」についての読書会が開催されました。
この読書会は非常に興味深く刺激的なものでした。
参加できなかったメンバーのみなさんもご興味があればぜひアーカイブを観てみてほしいなあと思います。
https://wasei.salon/events/63433ebda7b3
今回の読書会や、この本全体を通して僕が強く印象に残っているのは「世界内存在」の話。
「世界内存在」とは、人間(ハイデガーの用語では「現存在」)が、常に既に世界の中に投げ込まれており、世界から切り離して考えることができない、というような考え方です。
つまり、人間は世界から独立して存在するのではなく「常に世界との関係の中で存在している」という話です。
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この概念は、デカルト以来の主観と客観を分離して考えようとする西洋哲学の伝統的な考え方に対する批判として、提示された言葉のようです。
そして、僕ら人間は世界を「外側」から観察する存在ではなく、常に世界の「内側」にいる存在であるということを強調したくて、このような言葉が用いられている。
このブログでよく紹介する和辻哲郎の「風土」の話にも通じる話で、明らかにこの系譜を継ぐものとして、和辻は人間と環境(風土)の不可分な関係性を強調した思想家なんだと思います。
また、以前もご紹介した、ゴリラを観察する際には、そのゴリラだけでなくゴリラを取り巻く環境全体、彼らが生きている土地そのものを理解することが重要だという考え方も、この「世界内存在」について関連する話になります。
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で、この点に関連して、僕の中で強く印象に残っているのは、養老孟司さんが以前、ある書籍の中で語られていた「環境省」についての批判的な見解の話なんです。
環境省のHPには、その任務が「自然環境の保護及び整備その他の環境の保全を図ること」と書かれていて、これらの施策のすべてが環境保全を目的とするものだと記されています。
しかし養老さんは、そもそも「環境省」というものをつくること自体が間違いだと指摘していたんですよね。
それは、「環境省」という組織の存在自体が人間と環境を切り分け、環境を人間から独立した「対象」として扱ってしまっているからだと。
この考え方には僕は、とてもハッとさせられました。本当にそのとおりだなあって。
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このような環境配慮の問題は、左派の発想から生まれた善意の目的で自然と関わろうとしているスタンスではあると思うのですが、本来不可分である人間と環境の関係を、人為的に切り分けて対象化してしまう危険性がある。そして僕らは往々にして、自分たちが既に環境の中に投げ込まれているという事実を、忘れてしまいがちです。
環境を「管理」したり「保護」したり、ともすれば「コントロール」する対象として捉えてしまう。そうではなく、自分たち自身が環境の一部であるという認識を持つことが重要だというのが養老さんの主張でした。
そして、飲茶さんのこの本に関してもまた、繰り返しこの観点を僕らに強く語りかけてくれてる。
でも、僕たちはどうしても、事実を対象化して観察し、メタ認知しようとしてしまう傾向があるよなあと思うんです。
特に「世界内存在」の概念は「死」について理解にも、大きな影響を与えてくれるわけです。
それが本書の主題でもある。
多くの人々は、死を「いつかやってくるもの」として、自分自身から切り離して考えがちです。
「メメント・モリ(死を想え)」という言葉はよく知られていて、その重要性も認識されつつもなお、私たちはいつかやってくる「死」を自らと切り分けて考え、それを対象化し、自分とは異なるものとして理解し、死と向き合った気になっています。
しかし、本書においては、死は常に私たちの存在の一部であり、今この瞬間にも私たちは死と共に生きているという事実を突きつけてくる。
つまり実際には、僕らは常にその死の真っただ中にいるということです。
このように、現代社会では、そうやって現実をまるでスクリーンの中で起きていることのように捉えがちです。しかし、実際には、僕たち自身が今そのスクリーンの内側にいるということが、本当に大切な認識なんだろうなと思います。
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で、少し話はそれますが、僕は美術館にも似たようなところがあるなといつも行くたびに感じるんですよね。
もし何か同じような展示であっても、地方に残っている武家屋敷のようなもののほうが個人的には好きな理由もまさにここにある。
美術館には何かちょっとした違和感がいつも残ってしまいます。それは、美術館が芸術作品を、本来の風土の文脈から切り離し「世界」から分離して観察しているからだと思うのですよね。
動物園の中にいるゴリラを眺めるのと同じように、美術館は作品もまた、本来の環境から切り離して、わざわざきれいな空間に持ってきて、それを展示し人間が眺めて満足をしている。
「キュレーション」という言葉は耳触りが良いかもしれませんが、美術館は「要約」文化、その最たる例だとも言えるような気がしてしまいます。
ソレを眺めることが教養的だと考える風潮もありますが、そのスタンス自体のなかに違和感を感じずにはいられないなあと思うときがある。
もっと言うと、この対象化するという行為そのものが、ある種の要約文化みたいなものを生み出してしまっているんだろうなあとも思います。
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さて、話がそれたついでに、これも完全に余談なんですが、先日初めてApple Vision Proを体験して、8Kの映像を実際に観て、もはや現実と変わらない解像度の映像が目の前いっぱいに広がると、何に一番驚いたかといえば、眼の前から、何も匂いがしてこなかったことに一番ビックリしました。
あまりにも現実が目の前に広がっているのに、匂いだけがしないことに完全に脳が驚き、そして、それがこれまで自分の中でなったことがないアラートとして、自分の中で明確に鳴り響いた感じがしたんですよね。
「この現実は、本物なのに、何かがおかしい」みたいな感じです。まさに夢を見ているような気持ちになりました。
そして、とても変な話に聞こえるかもしれないですが、もしかしたら僕らは眼の前の現実に対しても、同じことをしているんじゃないかとさえ思うのですよね。
これはまだうまく言えないですが、Apple Vision Proから8K映像を通して世界を覗いてしまってるように、世界を対象化してしまっているのかもしれないなあと。
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さて、話を本書の話題に戻して、本書のような教養小説、すなわちビルドゥングス・ロマンには、ある種の弱点があるなあと思います。
それは、新しいことを学んだ人間には、その学びによって得られた「成果」が与えられるべきだという、無意識の前提や思い込みのようなものです。
言い換えれば、そのようなインセンティブが期待できないのに、新しいことを学ぶことができない、あるいは納得できないという傾向が人間にはあるんだろうなあと。
本書の構成においても、明らかな「死後の世界」が描かれています。
これは、読者にハイデガーの思想を納得感を持って受け入れてもらうための一種の仕掛けとも言えるんだと思うのですが、しかし、このような恣意的な死後の世界の描写もまた、死を対象化して説明しようとしたときの一つの帰結なのだと思います。
ちょっとメタ的な話になりますが、そのような納得感のある結末が待っているかどうかもわからない中に投げ込まれていることが、本書の主題にもかかわらず、それが描かずにはいられないのが教養小説のジレンマとも言えるわけです。
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でも、実際の「世界」はそう単純ではなくて、この本の主人公である王子のように理由も分からないまま、突如として余命宣告を受けることもあります。
そして「なぜほかでもなく、この私なのか」という疑問に対しては明確な答えはまったく得られない。
言い換えると、現実世界では理由のない悪意が突如襲ってくることが当たり前のように存在する。そして、その理由が解明されないまま、それらは嵐のように過ぎ去っていきます。
そして、実際にその場に残された人間も、その現実に明確な意味を見出せないまま、苦しみ続けることがある。
この悪意の目的のなさを明確に(あるいは曖昧に?)描いているのが、村上春樹さんの小説だったりするんだと思います。
彼の作品では、しばしば理不尽な出来事が起こり、登場人物たちはその意味を理解できないまま物語が進んでいく。
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科学的な説明や確率論的な解釈など、いろいろな理由付けは可能かもしれないけれど、しかし、当事者が本当に知りたいのは、そういった表面的な説明ではないはずなんですよね。
こうした状況に直面したとき、昔の人々が妖怪や狐憑き、神がかりなどと語ったように、やっぱりどこかで、この世界とは別の「あちら側」や「異界」との関係性を考えざるを得なくなる。
つまり、宗教や神話のようなものだけが、こうした不条理な現実に対して何らかの答えらしきものを与えてくれるのかもしれません。
これが、宗教が何度でも何度でも繰り返し現代に蘇ってくる理由の一つでもあるのでしょう。
しかし同時に、宗教のフリをしたカルト集団もまた、こうした人々の不安や疑問につけ込もうと虎視眈々と狙っているという現実もあります。
だからこそ、僕らは宗教について深く学び、その本質を理解する必要があるのだろうなあと思います。
人間は常に「不可解な」世界の中に投げ込まれており、その世界と切り離すことはできない。その中で考えるしかない存在なわけですから。
色んな方向に話が膨らんでしまいましたが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/07/18 21:29