先日、京都を訪れた際に、Wasei Salonの初期メンバーの一人である河野涼さんとゆっくりお話をする機会がありました。
河野さんは、昨年京都に移住し、京都の提灯屋さんに弟子入りするなど、非常にセンスの良い方。
また、東京での仕事も同時にこなしつつ、月に1度は上京して撮影の仕事もされているそうです。
僕がそんな河野さんから京都への移住後の話をあれこれと聞かせていただいている中で、特に印象に残ったのが、京都における「ビジネスと文化の距離感の近さ」についてでした。
今日は、この点について、もう少し掘り下げて自分なりに考えてみたいと思います。
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河野さんの話によると、京都では感度の高い集まりやイベントがあると、そこですぐに人々が繋がってしまうそうです。
しかも興味深いのは、そこに集まる人々の多様性なんです。
歴史と伝統のある職人、神社仏閣の関係者、ビジネスパーソンなど異なる背景を持つ人々が自然と集まってくるのだと。
これは、京都という町のコンパクトさゆえなのだと思います。「知り合いの知り合い」程度の距離感で、様々な分野の人々が緩やかにつながっていくのだと言います。
これはイケウチオーガニックさんの京都ストアでもよく見かける現象で、本当に様々な背景を持つ人達が、自然と集まってきて、東京ではなかなか見かけないタイプの異業種交流会のような雰囲気になっている。
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きっと、この状況を東京と比較してみると、その違いがより一層際立つはずです。
東京でも同様の感度の高いイベントは存在しますが、そこでの交流は往々にして、一つの方面に偏りがちです。
ビジネス文脈であればビジネスだけ、文化であれば文化だけ、スタートアップはスタートアップだけ、というように。渋谷・大手町・中央線沿線みたいな感じで、街がそれを象徴していますよね。
確かに、この「先鋭化」にも良いところはあって、それこそが新しい領域を切り開く原動力となることもあるかとは思います。なんなら、それこそが東京の強みでもある。
しかし、その一方で価値観がすぐに一元化されてしまい、本来あるべき多様な視点や、異なる価値観による「歯止め」や「多様性」のようなものが、見事に失われてしまう危険性もあるということなんでしょうね。
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一方で今度は、京都よりも小規模な地方だと、また別の課題が生じているかと思います。
僕自身、ローカルな地域を取材する中で何度も目にしてきましたが、そこでは高齢者や行政関係者なんかも交えたイベントが行われるようになり、しばしば話がまとまらない状況に陥ってしまっているように思います。
それぞれの立場や利害関係、強みと弱みなんかも、あまりにも異なるため、完全な膠着状態になってしまうわけですよね。
そこで、どれだけ若い世代が新しいアイデアを提案してみても、「前例がない」とか「高齢者には不利だ」というような理由で、一向に前に進めていないケースなんかも本当によく見かけます。
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このような観点から見ると、京都はある意味でものすごく「ちょうどいい」規模感を持っているのではないでしょうか。
そして、それこそが京都の隠れた強みなんだろうなあと。
日本人なら誰もが知るような任天堂や京セラ、ワコールといった大企業から、神社仏閣の総本山まで、様々な経済と文化の組織が集中している一方で、町全体としての一体感もまったく失われていない。
その調和を常にあの小さな町の中ではかろうとしてきたのが京都の歴史そのもの。だからこそ、河野さんのようなセンスの良い若者の移住も後を絶たないわけです。
また、お金の流れや経済的側面も見逃せません。
京都には国内外から多くの観光客が訪れ、大量の「外貨」が流入しています。
町の中心部を歩いている人々も、その多くが観光客であって、しかも観光で京都に訪れる人々は、比較的裕福な層が多いため、彼らが落としていくお金を一つの資金源として捉えれば、地域経済だけに頼る必要もなく、新しいアイデアや企画を実際に形にできて可能性も高いわけです。
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とはいえ、もちろん、京都にも独自のむずかしさもあると思います。
というか、一般的なイメージは「むずかしさ」のほうが圧倒的に大きいはず。
Podcast番組「なんでやってんねやろ?」で、今週の月曜日に配信された最新回がちょうど「京都で商売することの難しさ」について語られていました。
たとえば、テナントを借りる際に、一般的な賃貸借契約の審査に加えて、「経営者面接」があるという話を聞いて、僕は心底驚きました。
そして「経営者面接が嫌だったら、ファッションビルに行ってください」と言われたというお話は京都ならではだなと。
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ただ、このようなむずかしさもありながら、そうやって、気づけばビジネス側と文化側が良い意味で融合できていること。
いわゆるこのような「いけず文化」が、まことしやかに囁かれるということによる、歯止めなんかもきっと存在する。
実際問題はそうじゃなくても、そのような噂があるから、意外とそうでもない場合において、安心感や安堵感なんかにもつながるし、そもそも、それに怯えるような人たちは最初から入ってこない。
見えない大きな文化的な壁にもなっている。
養老さんの「京都の壁」の話もつながる。
当然、その中での「本音と建前」の使い分けに関しても上手に共有されていくわけですよね。
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このように、ちょうどいい規模感と人々の二面性が、京都を京都足らしめているということなんだろうなあと。
行政主導でもなく、民間企業主導でもなく、町としての一体感、経済と文化を両面から後押ししていくまさに元祖・日本のコミュニティ、その原型。
そして、インバウンドのようなものによって外貨を呼び込む価値みたいなものも、その本音と建前の二面性を上手に用いることで、難なく、そして卒なく、実現してしまっているわけですよね。
商売をしていないように見せかけながらも、がっちり商売をしているというような。文化としての壁を高く見せることによって、それができてしまうことの凄さです。
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あと、これは完全に余談ですが、以前Wasei Salonのタイムラインにも書いたように、京都の魅力を語る上で、避けて通れないのがその「禍々しさ」や「妖しさ」です。
最近話題になった村上隆さんの「もののけ 京都」展のような、一見すると伝統的な京都のイメージとは相反するような要素でさえも、容易に受け入れてしまうことも、実は京都の本質的な部分なのかもしれません。
「各神社によって、結界を張っている」など、そういうオカルト的な話を見るたびに「キレイな伝統文化だけあればもっといい町だったのかもしれないなあ、かわいそう」と漠然と考えていた、20代のころの自分をぶん殴ってやりたいと割と本気で思います。
逆に言えば、金沢とか奈良とか松江とか、どこでもいいけれど、そのあたりの歴史伝統があるような街が突き抜けないのは、この妖しさがないことが、理由なんだろうなあと。
歴史の長さゆえに、近代化された価値観だけではなく、呪いとか怨霊とか結界とか、そのような話もまことしやかに語られていて、それゆえに1000年を超えて守られている風習もたくさんあって、東京や大阪のように、完全な理詰めの脳化社会には向かわない。
それも本当に、ある意味で素晴らしいことだなあと思う。
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このように、京都という町は、内側に入って実際に暮らす人々の話を、直接聞かせてもらえば聞かせてもらうほど、その奥深さに毎回驚かされます。
コミュニティ運営のお手本とも言えるような仕組みが、誰が意図的に仕掛けたわけでもなく、しかし、ものすごく緻密に計算されて構造化されたように、至るところに張り巡らされている。
もちろん、僕自身が京都に移住したいかと問われれば、今のところは御免被りたいなとは思いますが、外から観察すればするほど、その独特な仕組みに本当に強く感銘を受けてしまいます。
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最後にまとめておくと、文化とビジネス、伝統と革新、神聖さと禍々しさなど、一見相反する要素が、本当にありえないくらいに絶妙なバランスで共存している場所が、京都です。
それが、1000年単位で磨かれている元祖・日本のコミュニティであり、その集大成でもある。
僕は、ここ数年、半年に一度ペースで京都に訪れているのですが、それでも毎回本当に大きな学びがある。これからも引き続き、定期的に訪れて、コミュニティ形成において、活かせそうな部分を深く研究していきたいなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/09/18 18:48