AIに関する話題は、最近過熱感が一旦落ち着いてきている印象です。
一方で、水面下では当然の如く開発が着々と進んでいて、その熱量を依然として高く保ててているひとと、そうじゃないひとたちの温度感も、だいぶ異なるものになってきてる感じがします。
そんな中、昨夜Wasei Salonの中で、シリーズ「大AI時代、私たちはどう生きるか?」対話会の第3回目が開催されました。
https://wasei.salon/events/964878ab98ff
イベントの中の問いの中で、僕がとても印象的だったのが「AIに対してポジティブか、ネガティブか」というお話です。
今日はこの観点について、自分なりに深く掘り下げてみたいなあと思います。
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この点、思うに、現代を生きる僕らは、結局のところAIに関しては「アイロニカルな没入」しかできない。
AIの推進派も規制派も、どちら側もなんだか極端に思えるし、規制したところで、どうせもう広く遍く世界に広がってしまうことは必定。
社会学者・橋爪大三郎さんが哲学者のリチャード・ローティの批判を以前ご紹介したけれど、あの話と一緒で、あらゆる立場を理解しながらも、適切な落とし所を探るしかない。
それを社会学者・大澤真幸さんは「アイロニカルな没入」と呼んだわけです。
もう一度、大澤さんの言葉をここでご紹介しておくと、
”つまり、「なんちゃって」の意識をもっているということなんですよ。「俺はこれが正しいと思うけど、これが絶対の真理と思ってないけど、俺にとってはこれなんだよね」と自分を相対化してもいるんですよね。つまり「俺はこの船に乗って、この船がいちばん立派だと思ってないけど、かといって別の船に行けないし、海に落ちたら死ぬだけだから、この船に乗っているしかないね」、そういう突き放した気分ですね。”
AIに対して推進派、規制派、そのどちらにおいてもラディカルな主張をしてみたところで、「まあまあ、落ち着いて」となる。トーンポリシングのような態度で、仲裁されてしまうことも間違いないわけですよね。
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実際のところ、僕自身もAIに対してどう向き合うべきか悩んでいます。
ただ、基本的には全力でポジティブな態度を全力で取りたいと思っています。
しかし、それが本当に心の底から、熱烈な信者のような気持ちなのかといえば、決してそうではない。
「既に訪れた未来」の中で生きている感覚が非常に強いです。だとすれば、そのように変化していく未来の中で、どのようにたち振る舞うのがいいのかを考えるほうが建設的だと思ってしまっている自分がいます。
でも、この感じがなんだかずっと腹の底で「気持ち悪さ」のようなものを生み出しているのも事実。
まさにアイロニカルな没入なんだけれども、それでいいんだろうか。それしか方法はないのだけれども、でも本当にそれでいいのだろうか。このジレンマは簡単には解決できないと思っています。
逆に言うと、常にこのモヤモヤを抱え続けなければいけないことが、「現代人の苦しさ」でもあるのだと思います。
技術の進歩に対して完全に肯定することができず、かといって完全に否定することもできない。その中途半端な立場が、僕も含めていま多くのひとを苦しめているのかもしれませんね。
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そのうえで僕は、だからこそ、人間は何に幸福感を求めるようになっていくのかを、今から淡々と考えていきたいなあと思っています。
早くからそこにキャッチアップをして、そこに視線を合わせていきたい。それは一種の贖罪の意識なんかにも近いのかも知れません。
だから河合隼雄さんの「何もしないことを、全力でやる」というような考え方に最近興味津々だったりもするわけです。
人間を人間たらしめる、実在感のようなもの、臨在感のようなもの。それは果たして一体何なのか。
AIがどれだけ進化して、AGIの時代が本当に到達しても、それでも人間同士でなければ実現しないことは一体何なのか。
それをお互いにしっかりと提供し合えるような「場」をつくりたいなあと。
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ただし、これはたぶん「答え」なんて最初からないんだとも思っています。
実在感の感じ方、それを僕らがどう感じるかは時代によって変わります。
言い換えるとどこまでいっても、これはあくまで主観的な問題なんですよね。
僕らはたまたまビフォーAI時代を生きてきてしまったから、AIに対して人間らしさや実在感のようなものを感じずに、どこか違和感が残ると、これまでもこれからもきっと思い続けて接してしまうのだろうけれども、
アフターAI時代を当たり前のように育ってきたAIネイティブの子どもたちには、そういった違和感はほとんどないのだと思います。
それは今のスマホネイティブ世代の子供たち(いや、もう十分に大人)がYouTubeやTikTokに夢中になっているのを見れば明らかだと思います。
デジタルネイティブの子どもたちにとって、オンラインの世界は現実世界と同じくらいリアルなもの。同じように、AIネイティブの子どもたちにとって、AIとの対話や共存は極めて自然なことになることもきっと間違いない。
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数十年後、僕らの世代が一通り一掃されたら、その価値観も変わる。変わらざるを得ない。
それぐらい今は大きな過渡期なんだと思うんです。
ある意味で、僕たちはラストサムライのような存在かもしれません。存在や価値観そのものが消滅することが、既にほぼ決定している存在なんです。
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この点、先日AI推進派の方々のものすごくアジテーションが激しいパネルディスカッションの動画を見ていたら、ビフォーAIとアフターAIが「ちょんまげ頭と散切り頭」の比喩として語られていました。
もちろん、AIを使えない人間がちょんまげ頭、散切り頭が明治の近代人としてAIを使いこなせているという比喩なわけです。
で、そこで語られていたおもしろい話で、実は明治30年ぐらいまでは、ちょんまげ頭のひとたちは存在していたと。
じゃあ、それは一体なぜなのか。
明治に入ってからも、頑なに武士を辞めなかった人たちが、それぐらいの時期までは生きていたからだ、と。
つまり、そのひとたちが完全に死んで、ちょんまげ頭の武士はやっと滅びたのだと。
どうしても僕らは歴史を学んでいる中で戊辰戦争、そしてそのあとの西南戦争で、日本の武士の時代は完全に終わったと思っているけれど、でも実際のところは、ラストサムライが死んでこの世から完全に消え去るまでは、武士の存在自体は終わらなかった。
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では、その明治30年まで、武士を貫き通していたひとたちが完全に間違っていたのかといえば、一概にそうとも言えない。
武士のエートスを守り続けたわけですからね。
当時は老害だの、時代遅れだの、散々の言われようだったと想像するわけですが、2024年の今から考えると「まあ、それもそれで、ひとつの生き方だよね」と思うはずなんです。
なんなら、時代にただただ流された中途半端なエリートよりも、そっちのほうがもしかしたら幸せだったんじゃないかとさえ思う。
また、そのようなひとたちがいたからこそ、たぶん武士道のようなものは現代まで届いているのではないかとも感じます。
もし西南戦争以降、全員がコロッと手のひらを返していたら、少なくとも僕らが今思い描いているような武士像としての「武士道」は、その「道」として届いてなかったはずです。
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この点、僕は常々思っているのですが、実用的なニーズがなくなると、それは「道」になると思っています。
武士だってもともとは、戦闘要員として明確な役割とニーズがあったから、武士の時代が何百年も続いたわけです。
でも、鉄砲が開発されたり、アメリカからペリーがやってくると、もはや武士の存在意義は完全に消え去った。
ただ、その役割やニーズがなくなっても、その中で自然と育まれた「あー、これは人間にとって本当に大事なことだ」「普遍に通じる」と思うことが生まれてきて、それに気づいている人たちが、必死になって「型」として残してくれて、引き継いできてくれたものが「道」なんだろうなあと。
これは、茶道でも弓道でも、なんでもそうだと思います。
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だとすれば、これからは「道」が、また増えてくるタイミングに入っていくのだと思うんですよね。
ビフォーAI時代においては、明らかに役割とニーズがあったのだけれど、これからホワイトカラーの仕事がAIにドンドン置き換わっていく中で、もうその生産要員としての価値は全くなくなるけれど、一方で「道」として何が残っていくのか。
この日本の失われた35年の間に「道」になるような職業はあるのだろうか。果たしてどれぐらいの「道」が残るのか。
なかなかにむずかしい問題だなあと思うけれども、きっと僕らの世代がラストサムライであるというのはそういうことなわけです。
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そのような目線で、一体後世に対して何を残していきたいと思うのか。
それを考えながら、保守的なひとたちのことをただ批判し、石を投げるわけでもなく、ビフォーAI時代にしかなかった「美しさ」や「美学」をしっかりと真空パックして「道」にしながらも、ちゃんと未来に向かうこと。
それが、きっと自分たちにとっても未来人にとっても、本当の意味で価値のあることだと思います。
「アイロニカルの没入」の話から始まり、かなり横道にズレてしまいましたが、過渡期ゆえに生まれてくる、悲哀みたいなものを無視せず、しっかりと抱きしめつつ、拗ねたり開き直ったりすることもなく、ただしく「道」にしていきたい。
そんなことを考える今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。