社会契約説における一番の弱点というのは、「私は、そんな契約をしたつもりはない」という主張だと思います。

この点、その名も『社会契約論 』という、ちくま新書から出ている本の中で書かれているお話が非常にわかりやすかったので、早速以下で少し引用してみたいと思います。


だいたい、社会契約なんてリアリティのかけらもない。誰が契約したのか、したやついるなら手を挙げてみろ。これがヒュームの言い分だ。戦後の日本では、長らく国民=契約当事者=主権者という契約論的な前提はどこかで自明視されてきたように思う。私たち国民一人一人が主権者ですだとか、国の一員として政治意識を持ってだとか、主権者かつ市民としての責任ある行動と政府への批判の目を養うべきだとか、そういう語り方は今でもされている。

でも、誰も実際に契約した人などいないなら、こうした言説は全く無効になるのではないか。この分かりやすい疑問に答えることが、社会契約論にできるだろうか。契約した人などいないのに、契約こそが秩序の起源だと言うことに何の意味があるのだろう。


社会契約と、僕らが日常的に行っている契約の一番大きな違いは、まさにここにある。

どこまでいっても、それは擬似的なものに過ぎないのです。

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そして現代において、このようなある種「神話」的なアプローチに対して、人々は信頼できなくなってしまった。

なぜなら、近代合理主義によって一般化された「科学的な思考」がそうさせてしまうからなのでしょう。

神概念や宗教を素直に信じているころは、その似たような話として、この「社会契約説」も信用できる余地があったのかもしれない。

でも、今は「私は、そんな契約はしていない」と堂々と言えてしまいます。

だからこそ、ひとは自身の実体験や、合理的(だと本人が信じ込んでいる)思考によって、導かれるもの以外を信用することができなくなってしまっているわけです。

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さて、ここで少し話が逸れますが、なぜ、人々は古い慣習のようなものをことごとく脱ぎ去っているにも関わらず、儒教における「親孝行」のような教えは、今も変わらずに信奉し続けているのでしょうか。

これが儒教的概念だとして、外部から与えられた古臭い指針だとしたら、自分の親だってそれほど大事にしなくてもいいはずです。

でも、多くの人はそうしませんよね。親のことは、ちゃんと大事にしようと思うはずです。

よくよく考えてみると、意外と不思議な現象です。

でも、それってきっと「手触りのある実感値」として、自らの内側から立ち現れてくる感覚だからだと思うんですよね。

少子化と言いつつも、今も毎年ざっくり150万人近い親が日本には誕生しているわけです。

子供のころの自分にとっては、不愉快きわまりない親からの助言や発言、自らを縛るものであっても、実はそれは我が子、つまりこの私を愛する気持ちや思いだったということが、親になることで痛いほどよくわかるのでしょう。

自らの経験を通じて、遡及的に親の愛(贈与)に気づくという体験をしてしまうわけです。

つまり、多くの人は、自分が子育てをして初めて、親の本当の苦労や辛さを理解し、自らへの愛の深さ知るのです。だから自然と親孝行をしたくなる。

僕はこれが、非常に重要な気づきだと思うし、ここに大きなヒントがあると思っています。

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さて、話をもとに戻すと、この構造を社会契約説の中にも取り入れることができないのかが、僕の提案であり仮説です。

そうすれば、ちょうど子供が親の立場になってはじめて親の気持ちを理解するように、社会契約説やそこから生まれてくる「一般意志」のような概念も、自然と理解できるようになるのではないでしょうか。

この点、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」というオットー・フォン・ビスマルクの有名な格言があります。

この言葉は「経験ではなく、歴史に学びましょう」という意味で用いられる場合が多ですが「愚者でさえも、経験からであれば学ぶということができる」という意味としても取れるかと思います。

これは別に、頭の善し悪しではなく、賢者であろうと愚者であろうと、自らの「経験」を通してなら、ひとは誰しもが等しく学べるという意味でもあるわけです。

つまり、自らが経験したことであれば、ひとは歴史から学ぶのと同様に、賢者と一緒になって、その実感地を持って学べるということです。

逆に言えば「体験せずに、理論で社会契約説を理解しろ」と言ってみても大半の人々に対しては、それを土台無理な注文なのだと思います。

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だって、繰り返しますが、自らでそんな契約をしたつもりはないのですから。

この世界に私が産み落とされた時点で、既に勝手にすべての「契約」が決まっていた。

僕らは、いつだってそのようにこの世界に圧倒的に遅れてきた存在なんです。

まずは、その事実から正しく認識するところから始めなければいけない。

そして、僕を含めてこの世の大半の人々は愚者であるがゆえに、先人たちが自分たちのためにせっかく創り上げてくれたもの、その贈与に気づけない。

それぐらい、僕らは本当に圧倒的にバカなんです。

たとえば憲法のような権力を縛る人類の叡智のような法でさえも、詭弁を用いる政治家たちにうまくそそのかされて、それが「個人の自由を拘束するもの」だと勘違いをし、「空気」に流されて、軽々と捨て去ってしまう。

だからこそ、個々人の特殊意志の単なる総和でしかない「全体意志」の達成が、世界の理想像なんだと思い込んで、安易なリベラリズム的思考に染まってしまうのでしょう。

そうやって、歴史の過ちから学び、気づけないから、何度も何度も歴史上において同じ過ちを繰り返すわけですよね。

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喩えるなら、せっかく親やおばあちゃんが必死で編み上げてくれた毛糸のセーターを、自分には似合わなくてダサいからという理由で、簡単に脱ぎ捨ててしまうようなもの。

そして見事に風邪を引く。風邪ならまだしも、回復困難な重症な病に陥ることさえある。

でも一方で、自ら経験しないと、いつまでもお行儀よく立ち振る舞うことしかできず、年長者の言うことに、ただただ従うことになる。

自分の中では、なんか違うと思いながら、ダサい手編みのセーターを着続けることになる。

そうやって、親や年長者の言うことにただただ従っているだけでは、自らの自発的な思考によって得られる「徳の高い」状態には到底辿り着けません。


ゆえに僕の提案は「ひとりひとりが手触りのある住民自治に自ら参加すること」です。

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現にいま、NFTコミュニティに、その「初市民」という形として参加している人々は、過去の自己の自由だけを求めるようなリベラリズム的な立ち振る舞いに対して、多少の気恥ずかしさを感じているはずです。

しかも、人によっては、そんなフリッパー的な振る舞いが、完全にブロックチェーン上に刻まれてしまった。

その羞恥心ったらないと思います。

でもそれもこれも、自らで手触り感のある住民自治を経験したからですよね。

これって本当にすごいことだと思います。

僕はその経験から立ち現れてくる感覚や感情こそを、大事にしてもらいたいと強く思う。

それぞれが自らの自由意志のもと「社会契約」をしたからこそ、個人の利益を最優先してコミュニティをみんなで大きくしていこうとしているタイミングにおいて、迷惑極まりない行為というものが存在するんだと、心の底から味わったわけですよね。

そのかけがえのない発見ができた理由というのは、今まさにその「社会契約」が当事者間で結ばれようとしているNFTコミュニティに、二世や三世としてではなく、自らが初めての市民として参加しようとしたからです。

つまり、自らの手触り感のある経験として学んだわけですよね。

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こうやって学ぶと、社会や国家、そしてグローバル世界の見え方もガラッと変わってくるはず。

つまり、大きな国や世界単位になったときにも、その延長上の世界として、すんなりと受け入れられる状態になるかもしれないわけです。

それはちょうど、自らの子供が生まれて、当時の親の苦労を思い知った若い親のように。

この二段階の理解が、非常に大事だと思うのです。

そうすれば、社会契約説のような理論もスッと受け入れることができるようになるはずですし、「全体意志」ではなく、本当の「一般意志」を目指そうとも素直に思える。

だからこそ、僕はどれだけ小さいコミュニティだったとしても、その住民自治的な構造に、初市民として参加してみることにはものすごく意義のある行為だと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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同様の内容は、声のブログ、Voicyでも語っています。ぜひ合わせて聴いてみてもらえると嬉しいです。