昨日、Wasei SalonでNHK出版から出ている学びのきほんシリーズ最新刊、批評家・若松英輔さんが書かれた『生きる教室 大人のための宗教入門』の読書会を開催しました。
https://wasei.salon/events/b65ad34d8f62
この本の中で、僕が一番ハッとさせられたのは、「改心」と「回心」の違いについて書かれていた箇所です。
どちらも読み方は同じ「かいしん」なのに、この二つはまったく違うものなのだと、若松さんは書いています。
具体的には、 「改心」は、心を改めること。
たとえば、これまで惰性で生きていた人が、何かをきっかけに目標を持って生き始める。酒をやめたり、勉強を始めたり、一念発起して運動を始めたりする、仕事への向き合い方を変えるもそうかもしれません。
もちろん、それはとても大切な変化なんです。でも若松さんは、それはあくまで「改心」の次元なのだと言う。
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では、宗教における「回心」とは何か。
「回心」が起こると事情はまったく異なってきます。生活に張りが出たというような変化ではなく、生きる主体が変わるのです。
「生きる主体が変わる」。この言葉が、本書のなかではなんだかものすごく強く印象に残ったんですよね。
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考えてみると、現代社会で僕らが求めている自己の変化、そのほとんどは「改心」のほうなのだと思います。
もっと知識を得て、もっとより良い仕事をする。もっと健康になって、もっと上手にAIを使って、コスパタイパよく生きるなんかもそうかもしれない。
今の自分よりも、少しでも「理想に近い自分になろう」とするわけですよね。
「ライバルは昨日の自分であり、昨日の自分にだけは負けたくない」というよく聞くセリフなんかもそうだと思います。
それは、言ってみれば「私」という主語はそのままにして、その後ろに続く述語だけを書き換えていくような作業です。
「私は怠けている」から「私は努力する」という変換であり、「私は知らない」から「私は知っている」に変わりたいと願う心。
その結果として、「今の弱い自分」から「未来の強い自分」へと目指す姿です。
だから、どれほど人生が大きく変わったように見えても、その中心にはずっと「私」がいるわけですよね。
私が努力して、私が成長して、私が自己の人生を切り拓いていく。そのために新しい知識を学ぶ。
まさに「哲学や人文知は武器になる」というような発想でもあります。
参照:哲学は武器にならない。いとをかしはエモいじゃない。
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一方で若松さんが宗教の側面から語る「回心」は、そこがまったく違います。
若松さんは、パウロの言葉を引用しながら、以下のように書かれていました。
生きているのは、もはやわたしではなく、キリストこそわたしのうちに生きておられるのです。
そして、その変化自体をこう表現しています。
自分の力で生きる人生から、何ものかのはたらきによって生かされる人生への転回
これはなるほどな、と思いながら、僕は強く膝を打ちました。
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つまり、「回心」とは、自分をよりよく改造することではない。
そもそも「自分が人生を動かしている」という矢印そのものが、くるっと反対方向を向いてしまうようなことなのだと。
自分が生きているのではなく、自分は生かされている。自分が選んでいるのではなく、何かに導かれている。
過去に何度も語ってきた親鸞の「絶対他力」なんかも、まさにそういうことなのでしょう。
実際、この本の中で取り上げられていた3人の登場人物、ガンディーも、パウロも、親鸞も、この本の中では一見まったく無関係な人物として登場します。信じている宗教というか、教義がまったく異なる。
でも、若松さんがこの三人をあえて1冊の中に並べた理由のひとつは、きっとこの「回心」を描きたかったからなのではないか。
読書会の最中に、そんなことを考えていました。
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ただ、そこで妙なことにも同時に気づいてしまいました。
じゃあ、僕らは昨夜、読書会に集まっていったい何をしていたんだろう、と。
僕らは若松英輔さんの本を読み、宗教についてあらたに学び、「回心」について理解しようとしていました。
それっていうのは、きっと少しでも自分たちの生き方をよくしたいと思って、です。
言い換えると、少しでも人生や宗教の本質に近づきたいと思って。
つまり、少しでも、昨日までの自分とは違う人間になりたいと願ってそうしていたわけなんですよね。
でも、それってまさに「改心」ではないのか、と思ってしまったのです。
「回心というものが大切らしい。じゃあ自分も、回心できる自分になろう」と思った瞬間、それはもう改心なのではないか。
ここに、ものすごく大きな矛盾があるように感じたのです。
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そして現代には、こういう優しい言葉がたくさんあります。
「頑張らなくていいよ」「執着を手放そう」「ありのままでいよう」「自我を捨てて、流れに身を任せよう」などなど。
どれも、とても魅力的な言葉なんです。そして、現代における競争社会で疲弊している社会人に対して、とてもケア的な言葉で端的に救いでもある。
でも僕らはそれを聞いた瞬間に、「なるほど、じゃあもっと上手に手放せる人間になろう」と思ってしまう。
頑張らないために頑張るとか、努力を手放すために努力するとか、そういう奇妙なループに、僕らは簡単に入ってしまいます。
「回心」という言葉さえ、すぐに「今よりも、よりよい私になるための方法」へと変換してしまうのだと思います。
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そしてこれは、そんな宗教の本質を「教える側」にとってもむずかしい問題だなあと思います。
若松英輔さんの文章や語りは、いつも本当にうまい。むずかしい宗教の話を、とても美しい比喩と言葉で説明してくれているなあと感動します。
「100分de名著」などを中心に、NHKのテレビ番組にご出演される時も、ほんとうに毎回ものすごく上手に、短い尺の中であっても、深い言葉で、僕らにわかりやすく説明してくれる。
そんな若松さんの言葉を読んでいると「もう少しわかりたい」と素直に思うし、もっと若松さんの話を聞けば、このわからなさの先に行けるような気もしてくる。
もちろん、それ自体が悪いことだとはまったく思いません。僕自身、だからこそ若松さんの本を、何冊も何冊も読んでいるわけです。
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でも、ここに不思議なねじれがあるなと思ったのです。
「自分を変えることではなく、自分を超えた何かに開かれていくことが大事なのだ」と雄弁に教えてもらえば教えてもらうほど、その言葉を学びたい人たちがワラワラと集まってきて、「もっと成長したい私」のほうが強化されていく。
つまり、「回心」を教える人が、いつのまにか「改心」の先生になってしまうわけです。
これは、なかなかに解くことのできないジレンマだなと思います。
そして、宗教がどこか妄信的で怪しい集団だと思われてしまいがちな点なんかも、きっとここにある。
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さらに今、この問題のすぐ隣には、AIがいるわけですよね。
ここが、昨日の読書会の中で僕が一番モヤモヤとしたところでもありました。
宗教における神は、沈黙してくれている。祈っても何も答えてはくれない。問いかけても返事はないわけです。
そして、だから人間は神とともに悩み、祈り、問い続けてきたのでしょう。信仰というのは、返事がないことに耐えるための技術でもあったといえるのかもしれない。
遠藤周作の小説『沈黙』を引きながら、そんな話は何度もこのブログの中でも書いてきました。
参照:私に何が問われているのか。「沈黙」に対し耳を澄まし続けること。
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でも、近年になって突如現れたAIはまったく違います。ものすごく雄弁なわけです。
何を聞いても必ず丁寧に答えてくれるし、こちらの苦しみにも、しっかりと意味を与えてくれる。
自分が何を大切にしているのかを、自分よりもきれいに言語化してくれてしまって、人生の物語までキレイに整えてくれる。
いまや、僕らの目の前にいるのは「沈黙する神」ではなく「雄弁な神」なのではないか。読書会では、そんな話をしてしまいました。
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ただ、そのあとひとりで考えていて、僕は少し考えを変えています。
たとえば僕が、「ようやくわかりました。自分の力だけで生きようとすることを、手放したいんです」とAIに話しかけたとします。
AIはきっと、とても上手に答えてくれるはず。「それは大切な気づきですね」と。
そして、なぜそれが大切なのかまでを、こちらが感心してしまうぐらいにわかりやすく丁寧に説明してくれるはずです。
でも、そのとき返ってくる文章の主語は、いつだって「あなた」なんですよね。
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「あなたが本当に望んでいるのは〜、あなたにとって大切なことは〜、あなたは本当はこう生きたいのではないでしょうか」と問い返してくる。
AIは、僕らのことを決して主語からは降ろしてはくれない。
むしろ世界でいちばん丁寧に、「僕」や「私」という主語を磨き上げ、整えて、物語として仕上げてくれてしまう存在なんです。
だとすると、「私」という主語を手放した瞬間に、その空席へ「沈黙する神」ではなく「雄弁な神」としてAIが座ってしまうのではないか、という僕の怖がり方は、少しずれていたのかもしれません。
AIは、沈黙する神の代わりにはなれない。
そうではなくて、「回心」の顔をした、究極の「改心」装置になる。
「私を手放しました」という気分だけをこちらに与えてくれて、主語のほうは一ミリも動かさないわけです。
「回心できているあなたは偉いですね」と言ってくる。しかももっと言葉巧みに美しく、ひとりひとりのユーザーが、心の底からそう思ってしまうような形において、なんです。
AIが神になってしまうことよりも、こちらのほうがずっと有り得そうだし、たぶんずっと厄介なはずです。
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ただ、だからと言って、既存の宗教団体に加入すればいいという話でもないと思います。
自分を超えた何かに自己を委ねることは、ときに人を救うことは間違いないのだけれど、一方で、それが教団や集団となって「これこそが正しい生き方だ」という形をとった瞬間に、人を盲信させて、縛るものにもなる。
だからニーチェも、あれほどまでに、宗教を批判したのでしょう。
そんなのは奴隷道徳だ、と。そして「改心」としての超人思想を貫いた。
とはいえ、超人思想だってうまくいくひとは一握り。ニーチェ本人でさえ、それがうまくいったのかは怪しい。
つまり、他力だけでも危ういし、自力だけでも、きっとどこかで行き詰まる。
このあたりを、現代において簡単に「正解はこれです」と言い切ってしまった瞬間、昨日読んだ本から、一番遠いところに行ってしまうような気もしています。
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で、昨日の読書会の最後に、僕は「こうやって宗教を一緒に学ぶ機会って大事ですね」とみなさんに語っていました。
宗教なんて、日常生活ではなかなかに話しにくい話題です。しかも、一時間話したところで何ひとつ答えは出ないし、むしろ最初よりも、余計に何がなんだかわからなくなる類いのもの。
でも、負け惜しみでもなんでもなく、だからこそよかったのだと思います。
「わからないことを、わからないと言い合える関係性って尊いな」と、あらためて強く感じました。
もしかすると、今の僕にとって一番大切なのはそこなのかもしれません。
「正しい回心とは何か」を教えてくれる人を探すことでもなく、AIに答えを出してもらうことでもなく、改心と回心の間を行ったり来たりしながら、「これは、本当に自分が変わっているだけなのか。それとも、自分が生きているという前提そのものが変わり始めているのか」と、問い続けること。
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そして、その問いを一人で抱え込んでしまうのではなく、「いや、全然わからないですね」と笑って言い合える人たちと共に、一緒に考え続けて、生き続けること。
どこまで進んでも決してゴールがないことを、どこか諦めながらも、それでも歩み続ける。
今のところ、それぐらいしかできないし、でもそれこそが目指したい状態なんじゃないかと、漠然と思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
