昨夜、東京の青山にあるイケウチオーガニック東京ストアにて、Wasei Salonのメンバーでもあり、さらに東京ストアスタッフでもある南さんに会いに行くツアーイベントが開催されました。

https://wasei.salon/events/ab37ce281d52

このイベントが本当にとっても良かった。

今日は、昨夜のこのイベントを終えてみて、いま自分が感じていることを素直に書いてみようと思います。

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で、最初から話が少し脱線してしまうのですが、ちょうど、その日の午前中に行っていた取材の中で「豊かさとは、丁寧さなのではないか」という話を、とある経営者の方からお伺いしました。

たしかに言われてみれば、ラグジュアリーでも丁寧じゃないものは世の中にたくさんあるし、丁寧だけど質素なものというのも、世の中にはたくさんある。

ただ、「丁寧であること」というのは、一貫して豊かさの基準になり得るというのは、本当にそのとおりだなあと思いましたし、非常に納得のいく定義でした。

だとすれば僕らは、他者の丁寧な仕事やその成果物に触れることで、初めて「豊かさ」を味わうことができるのかもしれない。

つまり、他者が提供してくれた丁寧さを通じて「豊かさ」を自らの血肉とし、獲得することができるわけです。

しかも、それは情報や知識という側面だけではなく「身体性を通じて」です。

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で、話を戻すと、タオルというのは、他でもない「自らの手のひら」で触れるものとして、つくり手の丁寧さを感じるための非常に優れた商品だなあと思ったんですよね。

昨夜、東京ストアに並ぶフルラインナップのタオルを目の前にして、それぞれのアイテムの説明を始めてくれるんだと思いきや、「まずは自分の手のひらで触ってみてください。そして自分のお気に入りを見つけてください」と南さんから促されたのは、とても意表を突かれて本当に感動してしまいました。

そして、そのひとつひとつのアイテムを参加者それぞれが直接自らの手のひらで触れてみて、「うわあ!」と感動してるシーンが本当に印象的だったのです。

その後、そのものづくりの背景も合わせて、しっかりと説明してくださったのですが、この流れが本当に素晴らしかったなあと。

本来の人間の一般的な感覚というのは「体験→知識」この順序であったはずなのに、僕らはなぜか、最初に情報としての説明を求めてしまう。

これは間違いなく、情報中心のインターネット社会の功罪における罪の部分だなと思います。

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さて、そのようなイベントが終わった後には、他者の丁寧な仕事に対し感動したものを、各々がそれぞれ気に入ったものを選んで購入し、家に持ち帰るわけです。

ときに家族の分も購入し、誰かとその丁寧さと豊かさを隣のひと(つまり汝の隣人)に伝播しシェアしていくわけですよね。

そして、タオルのような日用品の場合は、その日から身体性を通して日々豊かさや丁寧さを感じ取り続けることになるわけです。

この物との相互作用も、本当に大事だなあとも思いました。

変な話ですが、きっと「団結する」って意外とこういうことなんじゃないかと。

何か、知識やイデオロギーベースでつながることではなく、このような丁寧さを感じ取れる豊かさ、その体験ベースでつながっているというような。

そもそも、地元が同じであるとか、出身校が一緒であるとかは、そのような体験ベースの信頼性を担保にしていたはずですからね。

周囲の環境との相互作用、そんな言葉にならない「純粋経験」が先にあるはずであれば、むしろ体験の共有のほうが、実はコミュニティの結束にもつながっていくのではないか、というのが今の僕の仮説です。

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この点、もともと貴族の社交界としての「サロン」、その有用性というのは、そこに共通言語が存在することだったのだと思います。

先日、むずかしい専門用語を用いるべきなのか否かという話を、佐々木俊尚さんがVoicyの中で語られていたけれど、何か議論をするとき、共通言語があることは、非常に重要な要素だと思います。

さもないと、ひどく単純化した説明にならざるを得ない。

わかりやすく簡単に説明すること自体は、僕も佐々木さんと同様に、否定はしないけれど、複雑なことを複雑なまま伝えることも簡単に説明することと同じぐらい、本来は大切なはずです。

でも難しい言葉というのは、そもそも実体験がベースにあって、「複雑かもしれないけれど、あー、たしかにそうだ」という腹落ち感から生まれてくるもので、それがあって初めて受け入れられるものです。

佐々木さんが例に出していたフランス現代思想におけるサルトルの「投企」の話なんかも、何かに参加するような、自ら積極的にアンガジュマンすることの重要性を日々の暮らしの中で感じ取れるからこそ、そこに付随する「投企」の意味合いも理解できるというようなイメージです。

言語も何かを言い表す一つのラベルだとすれば、共通の豊かさにおける尺度みたいなものが、そこにあるかどうか。それが身体性を通した実感値のようなものとして、です。

その体験の裏付けや担保があるから、難しい言葉も同時に理解できるんだろうなあとも思います。まさにそれらは表裏一体であるということなんでしょうね。

だからこそ、使われている言葉が共通しているということもとっても大事だけれども、共通の体験からそのような尺度やものさしが揃っていることも、とっても大事な気がするというわけです。

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つまり、これというのは逆に言えば、経験が共通していれば、言語も自然と共通していくんじゃないかという話です。言葉はあくまでラベルに過ぎないわけですし。

言い換えると、言語がむずかしいと感じられてしまうのは、その身体感覚が自らの体感と紐づいていないからでもあると思う。

だからこそ僕は、このWasei Salonを通じて、石見銀山の合宿も何度も定期的に開催していきたいですし、長野にあるnagareの合宿も定期的に開催したいと思う。そして、イケウチオーガニックの東京ストアに行って、南さんに会いに行くという体験会もまたやりたい。

これらはすべて、それぞれの仕事の丁寧さ、その突き抜けた挑戦の度合いみたいなものを直接肌で実際に味わってみて欲しいから、です。

僕がサロンメンバーに体感してもらいたいのは、まさにこの丁寧さから育まれる本来の豊かさその実感なんだと思うんですよね。

丁寧さを愚直に実践しているひとたちと出会う機会みたいなものを、これからもたくさん増やしていきたい。

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決してそれは、富裕層でなければ体験できないというものではないし、何か秘められているものでもないはずです。

昨日もお伝えした通り、こちら側に受け取る準備ができているかどうか、ということが一番大事なのだと思います。

受け取るという受動的な”与える行為”さえ行えれば、さらば与えられん、ということでもあるような気がしています。変な話ですが。

薄い味付けの食べ物を口に入れた瞬間に、自分から味を探しに行くようなもの。でも、自分でその味を見つけられる者同士の会話となれば「それな」で伝わる。

そして、そこに対して既視感が持てるようになると、それと似ているものを日々の暮らしや自らの仕事の中でも自然と見つけられるようにもなる。なぜなら、自分の視座がまったく変わってくるからです。

それが私たちの「はたらく」を問い続けるということのひとつの真意でもあると思っています。

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今日のこの話と似たような話で言えば、過去に何度もこのブログで語ってきた「民藝品」に触れるような感覚にも非常に近いのだと思います。

この点、既に「これは民藝品です」とラベルがついたものに、触れること自体も、ものすごく大事なことだとは思います。

僕も実際にそうやって、日本各地に存在する民藝の里のような場所を訪れて、民藝運動を主導した柳宗悦が太鼓判を押したような民藝品にも数々触れてきました。現地に流れる気候風土と共に、です。

そのようなある種の権威主義的な民藝運動の復興みたいなものも大事だと思うけれど、それはどちらかと言えば、伝統や文化を守る姿勢であり、歴史保全の観点に近い。美術館や博物館的な機能。

現代で言えば、能や歌舞伎のようなもの。

でも、江戸時代の歌舞伎のエンタメ性(その時代性)が、現代ではまた別のものに移り変わってきているように、柳宗悦が提唱した民藝運動の対象もまた、同時に移り変わり、日々拡張しているはずです。

現代性というのもまた、相互交渉の賜物でもあり、その瞬間ごとに存在するものだと僕は思います。

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だとすれば、やっぱり現代においての民藝品を探しに行く旅、自分たちにとって「これが私の民藝品である、丁寧な仕事からうまれてくる豊かさなんだ」と思えるような「手仕事」を探すことはきっと有益であるはずで。

自分たちにとって、決して派手でも豪華でもないけれど「わたしが心打ち震えてしまうような丁寧さを体現しているものは何か?」を探すこと、それが真の意味で、先人たちから民藝運動のようなバトンを受け取ることだと僕は思う。

もちろん、そこから得られたフィードバックを、自らの活動の中にも活かしながら、次の世代にもそれを受け継いでいこうとする意志や活動も、非常に重要になってくるはずです。

なぜなら、次の時代には、まさにソレが美術館や博物館に並ぶようになるのだから。

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先人たちが見ようとした先を追い求めることっていうのは、きっとそういうことなんじゃないか。

意外と、先人たちが指を指さしていた方向は、同じ方向を指さしていた、ということに徐々に気が付き始めてきた2024年の1月現在です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。