先日、Twitterにも書いたのですが、最近アップデートされて全プロジェクトが対象となったFiNANCiEのCTH(コミュニティトークンホールド)。

この機能に触れてみて、実際にやってみたことがあるひとにしかわからないような気持ちよさというか独特の爽快感があるなあと感じました。

それは、経済性や合理性とはまた全然別文脈の感覚です。

ちなみにこのCTHとは、FiNANCiEにおけるセルフロックアップのような機能であって、これを行うことによって一定期間、自らが保有しているトークンが売却できなくなる機能です。

これはかなり新しい体験だったなあと感じましたし、自分自身の変化という意味でも、とても興味深い現象だなと僕は感じました。

NFTのステーキングなんかともまた全然違う印象です。理論上は同じような実感値を抱きそうにもかかわらず、体感は全然違うから不思議です。

もちろん、他の伝統的な金融的な意味で言えば、配当狙いの株式投資や銀行への定期預金なんかとも完全に似て非なるもの。

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これは一体何だろう?と、それを考えてみることが今本当におもしろいなあと。

LLACの生みの親であるうむ子さんは、いい意味で個人の所有感が軽くなるというか「公的なもの」みたいな感覚になります、と語っていましたが、本当にそのとおりだと思います。

なんというか、二段階で贈与している感覚なんですよね。

「人事を尽くして、天命を待つ」という感覚にも非常によく似てる。

これもまさに、広義の祈りなんだろうなあと思います。自らの想いを託して、それをある種、解き放つ感じ。漠然とした感覚ですが、灯籠流しとか、台湾のランタンを飛ばすお祭りとか、そういうときに抱くような感情にも近そう。

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僕は、トークンエコノミーにおけるこういうところも結構好きなんですよね。

これまで味わったことのない感覚のようなものを、自分の実感値や身体感覚を通して体感できるから本当に楽しい。

プラットフォーム側が、経済合理性に従う人間にとってメリットがあるだろうと推論によって生み出された機能であっても、実際にそれを使う人間の身体が全然違う感覚と重ねてしまうことのおもしろさ。

そんなある種の人間の「バグ」みたいな体験が本当に興味深い。

つまり、作り手側でさえ想像しなかった使われ方が行われるわけですよね。それは人間が動物である証でもあります。身体性の方に、強く突き動かされる生き物であるということ。

もちろん、論理で考えるだけであれば、そのような行動はいくらでも批判できます。でも実際にやってみて触ってみないとわからないことも、一方で間違いなく存在する。

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ここで、少し話は逸れるのですが、最近は「身体知」という言葉が流行っているらしいです。

聞く限りだとコテンラジオの深井さんが広めている概念のようです。「メタ認知」の次は、身体知。

とはいえ、この身体知や身体性という言葉に関しても、今に始まったことでもない。養老孟司さんや内田樹さんが、それこそ何十年も前から言及してくれていました。

そして、そのまた先輩たちも同様に言及し、さらには道元や原始仏教などなど遡れば、ずっと昔から言われていることでもある。

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だからここで考えるべきは、「身体知が大事」という言葉を提示されたときに、なぜ今の自分(たち)に刺さってしまうのか、それを自分自身を通して、観察することだと思うのです。

なぜそれが新しく発明された言説のように捉えたくなってしまったのか。紀元前から言われていることに対して、なぜ私自身や世間はここに新鮮さを感じているのか。

そこに現代(人)の大きな盲点のようなものが存在しているはずですから。

たとえば、その考えられるひとつの大きな理由は知識だけではなく意識を持った(ように見える)AIの登場が、間違いなく大きな影響を与えていると言えそうです。

当然、それだけではなく様々な複合的要因もあるはずでしょう。

このように、私(たち)の一体何が変化したのか?そちらに意識を向けているのか、それも一つの身体性と向き合い方のひとつだと思います。

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この点、現代人はドラマやアニメを観て、そこに登場する主人公たちに自分を重ね合わせて、すぐに何かわかった気になってしまう。

それと同様に、NFTやトークンの説明なんかを受けても「あー、また新手のポンジスキームね」とか自分が知っているものに置き換えて、すぐに理解したつもりになりたがる。

CTHもそのひとつ。株式の配当やNFTのステーキングみたいなものでしょう、と。

実際にそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

自分が、同じ状況に置かれたときに、肚に落ちてくる感覚は、自ら体験してみないとわからない。

本質的にわかるというのは、きっとそういうことで。身体からのぼってくる感覚のほうが圧倒的に大事な感覚。

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さて、今日のこの話に関連して、ふと思い出したのは養老孟司さんが「子どもを育てるときは、暗い影のある納屋とか倉庫とか土蔵がないといけない」と以前語られていたことです。

自然って、本当は複雑怪奇なんだけれども、現代はそれを人工物にすると全部一色にしてしまう。暗いところをなくして、全部明るくしてしまう。だから、お化けのいるところが現代にはなくなっちゃった、と。

以前もご紹介したことのある『「身体」を忘れた日本人』という本から、子供にとってなぜ暗いところがなぜ必要なのかを養老さんが語っているところから、少し引用してみたいと思います。

要するに何かの留保があるっていうことですよ。すべてが明るくて解明できると、「いやな人たち」ができちゃうんです。東大医学部の学生が「先生、説明してください」とよく言うけれど、それは説明されればわかると思っているからです。それが気に入らないから、学生が男の子だったら、「説明したら陣痛がわかるのか」って言う。 

わからないことがあるということを、必ず留保としておいていないと謙虚にならないんです。学問をするためには自分がものを知らないって前提がある。いまは本当の意味で学問をする人はいないと思いますね。「ネットで調べればわかる」「俺はバカじゃない」というのが裏にあって、説明されればわかると言うんです。


わからないから、謙虚になれる。

この謙虚の姿勢を保つためには、身体性を大切にすることはものすごく大事なポイントですよね。

意識だけを頼りにしてしまうと、その意識は常に「同じ」を主張する。未知のものを、知っているものにすぐ置き換えてしまう。それが悪いとかではなく、それが意識の働きだから当然です。

でも身体は違う。同じようにみえるものであっても、違うものだと主張する。少しでも違うところを身体が勝手に見つけ出してきてしまう。

だから、謙虚になれる。なんでも説明されればわかると思っているから、足元をすくわれるし、それが一番危うい認識だと僕は強く思います。

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さて、話をFiNANCiEやトークンエコノミーに戻すと、先日イケハヤさんがVoicyでも語られていた通り、最近のNFTコミュニティは間違いなく「宗教」の入口に入ってきているなと僕も思います。

そして、いくらでもその危うさみたいなものを言及するのは簡単です。ヤバい方向に向かう可能性だって、全然ある。というか僕もどちらかといえば、それを危惧している側の人間なのかもしれません。

一方で、同じ人間である僕自身が、全力で「あー、こういう感じか!」っていう身体性を楽しんでいる感覚もあります。

SNSのフォロー・フォロワーの関係では生まれてこなかった熱量が間違いなくそこにはあって、まさに体重が乗っかる感覚ですよね。

こういうことを体験すると、宗教団体がなぜ信者に高額献金を求めているのかもよくわかる。一般的に言えば、教団の運営費を集めるためだ、と語られるし、それが筋の通った説明のように語られます。

でも、きっとそんなことじゃない。もっと大事なのは信者の信仰を厚くするためだと思います。そのためにこそ、高額献金なんだろうなあと身体知を通すとよくよく理解できてきます。

最近『ノルウェイの森』『海辺のカフカ』に続いて、村上春樹の『1Q84』をAudibleで聴いているのですが、奇しくもこれも「カルト宗教」を題材にした話。

この本の内容も、いつにも増して身体感覚の表現が多いなと思う。でも、宗教感覚というのはきっとそういうものだから、なのでしょうね。

頭から身体に、つまり上から下に流れるものというよりも、下から上に身体から頭にあがってくるもの、それが宗教的な感覚の基礎だから。

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そういうのを全部ひっくるめて、やらなくてもわかると、わかった気になることが一番危ない。

それは上から下への一方通行にほかならない。両方の回路を開いておくこと。

歳を重ねれば重ねるほど、気づかないうちに一方通行にしてしまう。なまじ、知識が増えるからです。持っている知識の幅の中でなんとなくわかった気になれてしまう。

でも、身体感覚を大事にしていると、一方通行のひとを真剣に相手にする必要もないってすぐにわかってくるようにもなります。

自分はバッターボックスにも立ったことがないのに、野球のうんちくを語っている場末の居酒屋のおじさんなんかと一緒に見えてくるからです。

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人間という生き物は本来、日々微細なエラーを出し続けながら、その中で最適なソリューションを日々発見し続けている。

机のうえのコップ一つ持ち上げるにも身体感覚からの伝達があってそれに対して気づきもしない小さなエラーし続けながら、初めて正確に持ち上げることができているわけですよね。

それと一緒で、何に熱狂が起きているのか、その熱狂の大半はエラーであることは間違いないんだけれども、ただそこから新たなソリューションが生まれてくることもまた明白で、僕はそこに興味がある。それは自分自身の変化も含めて、です。

最後はかなり抽象的な話になってしまいましたが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。