最近ここ数ヶ月で映画館で立て続けに観た邦画が、どれも「音」にフォーカスされた作品でした。

以前もご紹介したことのある『福田村事件』や、相模原障害者施設殺傷事件をモデルにした映画『月』、そして今大きく話題になりつつある『ゴジラ-1.0』です。

これら3本の映画を観ながら、映画館で観る映画の本当の魅力は、もう映像なんかよりも音にあるんじゃないかと思ったので、今日はそんなお話を少しだけ。

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これはきっと、NetflixやAmazon primeなど、オンデマンドでいくらでも自宅で映画が観られるようになったことによって変わった、地味に大きな変化なのだと思います。

たとえば10年前ぐらい前に、地方移住ブームが起きてきたときによく話題に上がっていたのは、ちょうど大型液晶テレビがドンドン価格崩壊していたタイミングでもあり、Appleなんかもスピーカーを発売していた時期とも重なっていたので、だったら、もうローカルで一軒家を建てて、好きなだけ映画を楽しめてしまうよね、というようなもの。

わざわざ、映画館に高いお金を出してまで映画を観に行かずとも、そのほうがQOLが高いのではないか?という話は、本当によく語られていたように記憶しています。

そして、実際にそれはその通りでした。

ただ最近は、それを裏切るかのように、音を非常に印象的に用いる映画作品が増えてきたなあと思います。

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たとえば、「ゴジラ-1.0」は、ゴジラの鳴き声を横浜スタジアムを貸し切って、そこで爆音で流して、声を会場全体に響かせながら収録したと、映画の舞台挨拶で監督ご自身が語られていました。

そんなことまでしているんだと感動したと共に、これを本当の意味で楽しむためには映画館で観るしかない。

どれだけ自宅に素晴らしい音響施設を整えてみても、音自体は環境や空間の産物なので、映画「館」で観るものを、素人が狭い家の中で再現できる代物ではありません。

ゆえに、近年の映画は、ここがかなり意図的につくられるようになってきたので、映画館で観てみないと、これらの映画を本質的に観た(聞いた)とは言えなくなってきたなあと思います。

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で、実際にやっぱり映画館で「音」がちゃんと作り込まれた映画を観ると、全く違うんですよね。

もちろん、来年の春に発売される、Apple Vision Proのようなものを使って映画館クオリティの大画面を目の前にして、そこでどれだけ高級な音質の良いヘッドホンをしてみても、それは再現できない。

なぜなら、音は「耳」で聞いているだけじゃなくて、全身で聞いているからです。

つまり、肚に響くことが重要で、音質の良いヘッドホンは耳から脳内に鳴り響いても、首から下にはまったくの無反応。

ローカルの一軒家で、どれだけ爆音で音を流してみても、映画館ほどの振動までは再現できないわけです。

でも、これこそが頭ではなく「身体性」に訴えかけてくる非常に重要な要素なんですよね。

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言い換えると、視覚と聴覚だけで得ていた情報が、映画館で観る映画になった途端に、肚に訴えかけてくる作用、それをうまく用いている映画が最近は圧倒的に増えたということなんだと思います。

なんというか、肚に訴えかけられると、ストーリーを追いながら「理性」で考えるだけじゃなくなるんです、不思議なことに。まったく違う回路が拓く感覚があります。

大自然の映像を見せられても、そこに身体全体を直接刺激してくる「風」が吹いていなければ、なんだかリアルに感じないように。

まさに「風立ちぬ、いざ生きめやも」というような感覚です。

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この点、近年のいわゆる映画評論家の意見が、なんだか的外れな印象を拭えないのも、きっとここにああるはずで。

彼らは、業界関係者であることを鼻にかけて、公開日前の試写会用の小さなスクリーンや、vimeoで配信される試写用の映像を家の小さな液晶画面で観て、事前に映画を評価しているわけですよね。

そんな彼らと、実際に大型スクリーンで観た人間が、同じ感想になるわけがないのです。

少なくとも、「ゴジラ-1.0」に関しては、音響がミニシアターレベルの映画館で観たとしても、その魅力は半減どころか、たぶん3分の1ぐらいになってしまっているかと思います。

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ちなみに、『月』を観たときに、同じ映画館で「ゴジラ-1.0」が上映されていたのですが、ずっと隣のスクリーンから低音が鳴り響いていました。

そのゴジラの振動自体が、こちらのスクリーンまで伝わってくるほど。

最初『月』を観ながら、「これ、完全に映画館の設計ミスだろ…」と思っていたんだけれども、逆に言うと、それだけ従来とは違う音を鳴らしているようにもなっているということでもあるなと思いました。

つまり、最初にそのシネコンをつくったときには、想定されなかった低音が出されているわけでもある。

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この変化は、視覚やストーリーに散々にハックされたコンテンツ業界の、次のステージのような感じがしています。

映画のおもしろい or おもしろくないの基準は、ストーリーだけではなく、むしろ「表現」のほうであって、その表現というものも映像美だけではなく、音に大きく支配されている。

ゆえに、もっともっと、環境としての「音」に、僕らは耳を傾けた方がいい。

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ここまで読んで「私は、ゴジラのような低音が鳴り響くエンタメ作品や、爆音の作品を観ないから今日の話は関係ない」と、ぜひとも思わないで欲しいです。

なぜなら「沈黙」や「静寂」も、また同様に音だから、です。

言い換えると、沈黙や静寂というのは「絶対値」の問題ではなくて、要は振れ幅の問題でもあるわけですからね。相対的なんです。

爆音がなる映画館で、あえて音を鳴らさない時間帯があるからこそ、より静寂が際立つ。

「福田村事件」なんかは、それが本当に上手に描かれていました。

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Netflixなどで、一生かけても観きれないぐらい映画が観られる時代に、都会のシネコンでわざわざ高いお金を払って映画を観る意味が着実に戻ってきているなあと思います。

これは都市でしか体感できない身体感覚。ある種「都市の自然」とも言えそう。

そして、それを体験した人が語る感想と、そうじゃない人が語る感想は同じ作品について語っているようで、まったく別物の話をしていると思ったほうが良いんだろうなあと。

そこには、実際に東京にある飲食店で体感する作りたての味と、そのお店のお取り寄せグルメぐらいの差がある。

アーティストのデジタル音源と、ライブ会場で聴く音楽の違いにも似ているかもしれません。

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そういえば、以前ジブリの鈴木敏夫さんがラジオで「米津玄師のライブでは、泣いている人たちがいる。ライブ会場全体が、宗教施設みたいになっていた」とおっしゃっていましたが、まさにそれにも近い感覚だと思います。

音にフォーカスされた空間は、ある種の宗教施設みたいにもなっていく。

教会の倍音の作用みたいなもので、なぜかうえから降ってきているような感覚になれるという、あの話にも非常によく似ています。

日本だと、お寺のひんやりした空間で聴くお経の独特な荘厳さなんかも、そうですよね。

僕らが何によって「表現」それ自体を享受しているのか。そして、さらに何によってそこから「思想」が強く揺り動かされるのか。

理論やロジックがその主たる要因だと、現代を生きるエビデンス重視の僕らは信じて疑わないのですが、実際には理論やロジックなんて、二の次なのかもしれない。

ここをちゃんと理解しておかないと、何か大事なものを大きく見誤る気がしています。

そんなことを、改めて考えるきっかけになりました。

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映画館は音で選ぶを、ぜひ意識し実践してみてください。

今回の「ゴジラ-1.0」はそういう意味でも最適な映画だと思います。今はネタバレを恐れて、まったく内容には触れないでおきますが、本当に最高のエンタメ作品でした。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。